03.記憶 【Side:崎坂智也】

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 人も(まば)らな平日の昼間。たまたま最寄り駅から出てきた俺は、前方で一人の男の頭がふらついているのを目に止めた。  まさか倒れる寸前だとは思わず、それでも目が離せないでいると、彼は覚束無い足取りで近場の街路樹の下へと向かい、 (…立ち眩みでもしたか)  日陰に入ったかと思うと、そのままずるずるとその場に座り込んでしまったのだ。  ギリギリ届いた指先が、樹の表皮を撫でながら滑り落ち、やがてぴくりとも動かなくなる。 「…嘘だろ」  俺は背中に感じたひやりとした心地に押されるよう、彼へと急いで近づいた。  そんな時に限って、周囲は人波が去ったばかりで、それに気付いた者は誰もいない。 「おい、大丈夫かアンタ――…」  俺は樹に縋って崩れ落ちたまま、微動だにしない男の肩に触れた。  俯いた顔を覗き込むが、蒼白となった顔色が目に入るだけで、瞼が震えることすらない。  幾度か声を掛け、肩を軽く叩いては見たものの、その様子に変化は無く、安易に身体を揺することも躊躇われ、俺は一先ず携帯を取り出した。救急車を呼ぶ手配をする為に。  そうして、一応には病院まで付き添いはしたが、その後講義が控えていたこともあり、彼の持ち物から身内に連絡が取れたとのことで、俺は早々にも病院を離れたのだった。  それこそ、貧血と熱射病が重なったらしいと診断された、彼が目を覚ますより前に。  ちなみに彼の家族とも顔は合わせていない。名乗ることもしていない。  色々と礼を言われたり、単にそう言うのが面倒だったと言うこともある。  だけど、どうも彼に知られたくないような気がしたのも確かだった。 (…くそ、思い出した)  救急車を待っている間、足元に落ちていた眼鏡に気付いた。  彼が落としたらしいのは明白で、それも彼の手荷物と一緒に病室に置いて来た。  見たことのあるような眼鏡。  どこか繊細で儚いような印象を与える寝顔。  似ていると意識してからは、その顔すらまともに直視できなかった。  そう、彼は俺の中に深い傷を残した、あの男にとてもよく似た空気を持っていて――。  だからもう二度と係わりたくないと思い、極力自分の痕跡は残さなかった。  出来れば記憶からも、全て消し去るくらいの心積もりで。  まぁ、それも彼が同じ大学の人間だと分かってから――彼が司書として図書館に常駐するようになってから――は、総じて無駄な努力だったと言わざるを得ないんだけど。
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