エキセントリック

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 大学の門を通って構内に入っても、目当ての建物はまだまだ目に入らない。  全国的に見てもかなり広い敷地を誇る構内を少し早足で歩いていた。  道の両側には自然に近い状態で木々が生い茂り、まだ朝のこの時間にすでに高い太陽の光が緑の葉の間を通り、キラキラとした木漏れ日を作っている。  受験ではじめてこの大学に来たとき、特急を降りた札幌駅にも近い場所にこんな森のような大学があることに驚いたのを覚えている。 「つむー、つむぎー」 「あ、おはよう」  立ち止まって名前を呼ばれた声の方を見ると、クラスメイトの美結と和可菜が手を振ってこちらに近づいてきた。 「おはよー。つむもこれから?」 「うん、一緒じゃないかな? 美結たちも英語だよね?」 「うんうん」 「来週テストやって夏休みだよねー。つむは実家に帰るの?」  そう言われて実家のある道東の小さな町のことを考える。  どこに行くにも遠くて、親に車を出してもらわないと出かけられないような町だった。 「うーん、バイトあるし、あんまり帰れないかな」 「そっかー、じゃあさ、夏休み中にみんなでそこでバーベキューやろうよ」  和可菜がぱんぱんと手をたたいて楽しそうに木陰になった一角を指さした。  春に入学してから、構内でバーベキューをしているグループは何度か見たことがあった。  この大学は学生や職員だけが出入りするわけではなく、観光地にもなっているし市民の憩いの場でもあり、犬の散歩をしている人やジョギングをしている人もよく見る。 「いいねー、やりたい!」  そう笑って返事をしたとき、道の向こう側を歩く男の人の姿が目に入った。 「あ、あの人」 「あ、同じクラスの人だよね……」 「あの人、全然話したことないなぁ」 「わたしも」  私たちと同じ方向に向かっているけど、ずっと早足で歩いていくからもうリュックを背負った背の高い後ろ姿しか見えない。 「どこ出身って言ってたっけ?」 「うーん、顔合わせとかも出てないんじゃないかなぁ。全然記憶にない」  大学に入ってクラス分けされて三か月が経っている。  それでも今クラスメイトが三人いて三人とも名前すら覚えてないっていうのは、ほぼ誰ともコミュニケーションをとっていないということだろう。 「まあ、あたしたちも行こう」 「そだね」  少し歩く速さを上げて、目当ての建物に向かった。  講義室に入ると、講義室の端にさっきの彼が見えた。 「同じ授業か……」  ノートなどを広げているわけではないけど、ややうつむき加減で周りのことは見ていない。  耳にはまだイヤホンが入っているのが見える。  私はまっすぐ彼に近づいて、そのイヤホンを指で引っ張った。 「えっ……」  驚いたような顔で私を見上げる。  初めてくらいにまともに彼の顔を見た気がする。  わりと色白で鼻筋が通った端正な顔立ちだ。 「おはよう」  慌てて私を追いかけてきた美結が私の背中を叩いた。 「ちょ、つむぎっ」 「ご、ごめんねー、急に。つむ、行こ」  和可菜が彼に声をかけながら私の腕を引いて、彼と離れた。 「何やってんのよ、びっくりするじゃん」  彼の席とは反対側の端に三人で座って、和可菜が大きくため息をついた。 「うん、なんか……なんとなく」  肩をすくめてもう一度あの人の方を見ると、またイヤホンを着けなおして頬杖をついてうつむいていた。 「向こうもめっちゃびっくりしてたよね」 「そりゃ、いきなりイヤホン引っこ抜かれたら誰だって驚くよ」 「そうだよね……なんか、気になって」  私が首をかしげると、美結が笑った。 「まあ、不思議くんだもんね」 「でも、まともに顔見たのはじめてくらいだけど、案外イケメンかも」  と言う和可菜に、 「あー、それ! 思った!」  美結が大きな声を上げたところで先生が講義室に入ってきて、その話はそこで終わった。  夕方少し遅い時間までは大学の食堂で勉強しながら時間を潰して、それから市内で一番の歓楽街にあるカフェバーのアルバイトに出る。 「おはようございます」  裏口からキッチンの脇を通りぬけて更衣室に入る。 「おはようございまーっす」  もう薄暗くなる時間でも、こういう仕事では『おはようございます』とあいさつをするということをこのアルバイトを始めてから知った。  高校生のころはアルバイトはしたことはなかったし、そもそも実家のある小さな町にこんな店があるのかどうかも知らない。  白シャツと黒パンツの制服に着替えてタイムカードを押し、キッチンに出る。 「おはようございます」  もう一度キッチンにいる人やフロアに出る人に声をかけながら、自分もフロアに出る。  開店して一時間ほどの時間だけど、もう店内の席はほとんど埋まっていた。 「つむぎちゃん、おはようございます」  カウンターから、バーテンダーの叶野さんが私に声をかけた。 「あ、おはようございます」 「今日はけっこうお客さまが多くて。忙しいかもしれないけど」 「あ、はい。がんばります」 「つむぎちゃんは早くに仕事に慣れてくれて助かってるよ」 「ありがとうございます」 「早速だけど、これ、五番テーブルさんにお願い」  細長いグラスに注がれたきれいなピンク色のカクテルを軽くステアして、トレイに乗せた。 「はい」  広い店ではないけれど、座り心地のよい椅子とやわらかな照明が居心地よく思われるのだろう、常連のお客さまも多い。  私はまだ未成年だから叶野さんが作るカクテルを飲むことはほとんどなく、今までで三回ほどノンアルコールのカクテルを飲ませてもらったくらいだった。 「お待たせいたしました」  女性グループのテーブルにカクテルを運び、またカウンターに戻る。  その間に注文を受けて叶野さんに伝え、またカウンターやキッチンからドリンクやアペリティフをテーブルへ運ぶ。  その繰り返しではあるけれど、合間には常連さんと少し話をしたりして、四時間ほどのアルバイト時間はあっという間に過ぎていく。 「つむぎちゃん」  カウンターの中から叶野さんが私に声をかけた。 「はい」 「今日、上がる時間同じだね」 「あ……はい」  ざわざわとした店内で私だけに聞こえるくらいの声で伝えられるその言葉は、合図だ。  叶野さんはちょっと微笑んでから、また注文されたカクテルを作るためにシェーカーを振る。 「つむぎちゃん、こっちの洗い物お願いできる?」  キッチンから店長に声をかけられて、 「はいっ、今行きます」  と返事をして、私はキッチンに入った。  退勤のタイムカードを押して、着替えを済ませる。  来た時と同じようにキッチンを通り過ぎて 「お疲れさまでしたー」  と声をかけながら、裏口から店を出た。  小路から大きな通りに目をやると、たくさんの人が楽しげな声を上げながら歩いて行くのが見えた。  昼間は夏のような暑さになっていたけど、夜はひんやりとした風が体温を奪っていく。  Tシャツから出た腕を軽くさすりながら、なにげなく真っ暗な空を見上げた。  繁華街のビルの隙間からは星もよく見えない。  小さくため息をついたとき、また裏口のドアが開いた。 「お疲れさま」  叶野さんが出てきて私に微笑みかける。 「お疲れさまです」 「行こうか」  するりと自然な動作で私の手を取って指を絡める。  叶野さんはやさしくて、たぶんすごく女の子の扱いが上手くて、既婚者でもあるけど、二か月前からは私の彼氏だ。  左手の薬指にはシンプルだけど洒落たリングがはめられている。  彼はそのリングを隠したり外したりすることもなく、私と手を繋いでいる。 「会いたかったよ」  叶野さんはそんな言葉を簡単に口にすることができる。  私はただ少し笑って見せるだけだ。  手を引かれるまま、繁華街から少し外れたところにあるラブホテルへと連れて行かれる。  断る理由はなかった。  部屋に入ってすぐに唇を重ねた。  彼の手が服の上から身体をまさぐる。 「ん……まって、シャワーしたい」 「一緒に入ろう、風呂」 「うん、まあ、いいけど」  と曖昧に返事をすると、彼は少し笑った。  一般の家より広いバスルームにはジェットバスがついていて、その浴槽にお湯を溜めていく。  脱衣所で服を脱いで下着だけになった私の後ろから、叶野さんがそっと肩を撫でて唇を当てた。 「つむぎ……好きだよ」  耳元で囁いて、肩を撫でていた手が胸元に伸びる。  胸のふくらみを手で包んでゆっくりと揉まれると、 「んん……」  と声が出てしまう。 「気持ちいい?」  耳たぶをねっとりと舐めながら吐息交じりに囁く。 「ん」  彼は私の腰やおなかを撫でながら徐々に手を下に伸ばして、ショーツの上からおしりを撫でまわす。 「あ……、お風呂、入ろう?」 「うん」  背中にぴったりとついていた彼の身体が離れて、そして私はためらうことなく下着を脱いで裸になった。  肩までの髪を洗面台に置いてあったアメニティセットの髪ゴムで結んでからバスルームに入ると、先に彼が入浴剤を入れていたらしく、浴槽はあふれんばかりの泡で満たされている。 「いいにおい」  甘いフルーツのような香りが充満しているバスルームで、まずはシャワーで身体を流してから、浴槽に入った。  向かい合わせになって浴槽に身体を沈めると、彼の手が肌に触れてするすると胸元を撫でていく。  泡の中に沈んでいるけれど、もう何度も抱き合っている私の身体のことはわかっているとでもいうように、彼の指先は胸の先端を探り当てて摘み、爪の先で軽く引っかく。 「あ……っ……」  反対の手で私を引き寄せて、その手は腰から脚の間へと滑っていく。  私は少し脚を開いて彼の指がその中に入ってくるのを待った。 「ぬるぬるしてる……」  そこが水とは違う感触があるのは自分でもわかった。 「うん……ほしいの、中に……」  彼の肩に腕を回して身体を密着させて、口元を近づけた。  彼は私の脚の間で指を前後にゆっくりと滑らせるように動かして、私を溶かす。 「ここの、中?」 「そう……いっぱいに、して」  私はそう囁いて彼の唇を舐めた。  彼はその私の舌を貪るように舌で絡めとって唇を重ねる。 「ふ、んん…っ……」  彼の指が割れ目にねじ込まれて声が漏れる。  興奮してきたらしい彼の指の動きが強くなって、浴槽の水面が揺れて泡が飛ぶ。  私は少し暑くなってきたからお湯から出て、泡まみれの身体のまま浴槽の縁に座って足を開く。 「つむぎ、めっちゃエロい」 「そういうの、好きでしょ?」  彼は返事はしないでそのまま私の脚の間に顔を埋めた。 「あ……!」  そこを舐め回して音を立てて吸いつく。  浴槽の縁からずり落ちそうになるのを堪えた。  膝がガクガクと震えてくる。 「も、だめぇ……」 「ああ、もう、挿れたい」  口はそこから離さないでせつなげな声を上げる。 「ゴムしないとだめ」 「取ってくる」  彼は一旦浴槽から出て、洗面台にあるはずのコンドームを取りに出て行く。  私は小さくため息をついて、冷たい壁にもたれかかった。  すぐに戻ってきた彼が自分に準備をして、浴槽に入ってきて性急に身体を重ねる。 「んん……あ……」 「ああ……すっげー気持ちいい」  私の腰を強く抱き寄せて揺すりながら、自分の腰を打ちつける。  お風呂のお湯がじゃぶじゃぶと音を立てて波立った。 「あっ……あぁんっ……」  バスルームに自分の甘えたような声が響くのを聴いて、私は少し声を大きくして喘ぐ。 「あっ、あっ、すごい……いいっ……」  こういう声や言葉で彼が一層興奮するのを知ってる。 「あーダメだ、いきそう……ベッド行こう、つむぎ」  と言いながら腰の動きは止まらない。 「んっ、んっ、も、無理……」  私はまた浴槽の中へと身体を動かすと、そのままふたりともお湯の中に入ってしまう。  彼の上にまたがるような形でお湯の中で腰を揺すった。 「ほらぁ……も、止まんない…っ……」  ちゃぷちゃぷとお湯が跳ねる。 「つむぎっ……それヤバい……」 「あぁん、いっちゃう! いくぅ…っ……!」  彼と繋がっている部分がびくびくと震えて、身体が一瞬強張ったあとに力が抜けて行く。 「あ、ヤバいヤバい…っ……すっげー気持ちいい」 「はぁ……ベッドに、連れてって」 「一回出よう」  身体を離して立ち上がる。  先に彼がシャワーで泡を流して、私も自分でシャワーを浴びた。  大きなバスタオルで身体を包んで、髪をまとめていたゴムを取りながら部屋に入る。  叶野さんは私を抱き寄せてバスタオルをはぎ取り、ベッドに押し倒した。 「すっげーかわいい」  確かめるように脚の間をまさぐり指を出し入れする。 「んん……」  荒々しく唇を重ねて舌を絡ませた。 「んっ……ぅんん…っ……!」  二度目の絶頂は簡単に訪れる。 「っあぁ……あ……!」  唇を離すと口の端から唾液がこぼれた。  まだ身体が落ち着くことのないまま、彼と深く繋がって突き上げられる。 「あぁ…っ……あっ、あっ、あっ……」  彼の肩にしがみついて、律動に合わせて声を上げた。  ベッドが揺れてギシギシと音を立てている。  ふとなんの脈絡もなく、朝のイヤホンの彼が思い浮かんだ。 「ね、どこに出したらいい?」 「ん、叶野さんの好きなとこで、いいよ」 「マジで? 口、とか?」  はあはあと荒い息をして彼は私を見下ろす。 「いいよ」  そう返事をしたら、彼の動きが一層激しくなったように感じた。 「ああ、もう、一緒にいこう…っ……あーいくっ……!」  その瞬間身体が離れて、そして口元に熱いものを当てられる。 「あ……」  口を開けるとどろっとした液体が飛ぶように入ってくる。 「あー……ヤバいそれ、エロい」  口の中のその白濁した液体を彼に少し見せるようにしてから、口を閉じて飲み込んだ。  苦いような、食べ物にはあまりない味が口の中に残る。 「水、飲みたい」  余韻もそこそこに私は起き上がって、洗面所に行ってコップに水を注いだ。  ふと顔を上げると裸の自分が映っている。  胸の先端のあたりが少し紅い。  コップの水を一気に飲み干して、手の甲で口元を拭って部屋に戻る。 「おいで」 「うん」  ベッドに寝そべる彼の隣に腰を下ろすと、その腰を引き寄せられて彼の腕の中に包まれる。 「んー」 「つむぎヤバいな、エロくて」  ベッドサイドにあったリモコンでテレビをつけると、大きな画面にアダルトビデオの映像が流れる。  女の子の喘ぎ声がやけに大きく聞こえて、ボリュームを下げる。 「誰のせい?」 「俺か」  と声をあげて笑う。  付き合って二か月と少し、男の人と付き合うのもはじめてだったし、セックスをしたのも彼がはじめてだ。  他の人がどんなふうにセックスをするのかなんて知らない。  こうやってラブホテルに来た時に少しアダルトビデオを目にする機会ができたけど、そう違うこともないかなと思う。 「もうすぐ時間?」  時計を見ると『休憩時間』の二時間まであと三十分だ。 「そうだな、もう一回シャワーする?」 「うん、してくる」  彼から身体を離してベッドから出て、バスルームに向かった。  時間ギリギリに部屋を出て、手をつないでエレベーターに乗り込む。 「帰ったらテスト勉強しなくちゃ」 「マジ? 大学ってテストあんの?」  叶野さんは高卒でアルバイトからはじめて、バーテンダーの資格を取って今のお店に就職したという話を聞いたことがある。 「あるよ。来週はテスト週間なの」 「へぇー、大変だな。バイトは?」 「行くよー。働きますよ」 「でもテストなら悪いから誘えないかな」 「そういうこと考えるんだ? 叶野さん」 「一応なー」  アルバイトのある日にいつもこうやって逢っているわけじゃない。  週に一回あるかどうかだ。  休みの日に逢ったこともなかった。  エレベーターが一階に着いて扉が開く。  フロントには誰もいないはずだけど、今日は珍しく人がいて何か作業をしているようだった。  特に客の応対をしたりするホテルじゃない。  だけど特に興味があるわけではないから、そちらを見もしないでそのまま通り過ぎるつもりだった。 「……あ」  視界の端に見えたのは、朝のイヤホンの彼のようだった。 「え?」  私の声に叶野さんが反応する。 「ううん、ごめん、なんでもない」  私は振り返って確かめることもしないで、叶野さんと手を繋いだまま外に出た。  朝、講義室に入ると窓際の一番後ろの席にあのイヤホンの彼がいた。  私は少し考えてから、彼の方へと歩いて行く。 「おはよう」  と声をかけても、イヤホンのせいか聞こえていないようで、私の方は見ない。  仕方なく昨日と同じように、イヤホンを引っ張って耳から引き抜く。 「おはよう」 「……何すんだよ」 「あ、しゃべった。ちょっと、隣座っていいかな」  私は空いていた彼の隣の席に腰を下ろした。 「昨日、すすきのにいた?」 「……あんたに関係ないだろ」  そう返されて、私は首をかしげて 「まあ、そうなんだけど」  と返事をする。  確かめたところでなにかあるわけでもない。 「じゃ、いいや」  と立ち上がったときに、 「あれ、彼氏?」  とイヤホンを耳に入れながらつぶやくように言うのが聞こえたから、私は彼を見て少し笑う。 「あんたに関係ないじゃん」  その言葉は、たぶん彼には聞こえていない。 「ねぇ、つむ。さっきイヤホンくんと何しゃべってたの?」  授業が終わって講義室を出ると、後ろから美結が背中を叩いた。 「全然、会話になってないよー。美結、お昼食べに行こう」 「いいけど、どうしちゃったの、つむ」 「なにが?」 「つむ、わりと人見知りだと思ってたけど」  と美結が笑う。  美結が言う通り、私だってほとんど決まった人としか話さない。  『イヤホンくん』のことは言えない。 「んー、なんだろ、だってずっとしゃべったことないのも変かなって」 「別に向こうがしゃべる気ないなら無理しなくても良くない?」 「まあ、そうなんだよねぇ」  結局名前だって知らないままだ。  テスト週間には、テストだけではなくレポート提出の締め切りもある。  手持ちの資料では足りなく感じたものがあり、調べてみると大学の図書館に資料があるようだったので、それを探しに行った。 「……また、いる」  図書館の奥の閲覧席に、あの『イヤホンくん』が見えた。  今まで学内で見かけたことなんて授業のときくらいだったし、特に気がつくこともなかったのに、先日からやけに目につく。  頬杖をついて、なにか分厚い本を見ている。  そしてやっぱり耳にはイヤホン。 「こんにちはー」  わざと彼の視界に入るように、本と顔の間で手をひらひらさせて見せた。  あからさまに彼は嫌な顔をする。 「……何か用?」  イヤホンを片方だけ外して私を見上げた。  私は机を挟んで彼の向かい側に座る。 「クラスメイトじゃん」 「別に、話すこともないし」  嫌そうな顔をするけど、睨んできたりするわけではない。  そもそも目を合わせない。 「そうかもだけど。名前は? 『イヤホンくん』じゃあんまりでしょ?」 「なんだそれ」 「だから、名前なんていうの?」 「……花岡。花岡朔」 「わたしは宮澤つむぎ。友だちはつむとかつむぎって呼ぶかな」 「宮澤さん。用事ないならもう」  イヤホンを耳に入れながら視線を手元の本に戻そうとするから、 「待って待って。どこ出身? 地元?」 「そういうの聞いてなんになる?」 「隠してなんになる?」  私がそう返すと、嫌そうな顔をして大きくため息をついた。 「……東京」  札幌にあるこの大学に東京から来ている人はあまり多くない。  地方出身者ももちろんいるけど、大半は道内出身だ。 「へえぇ、いいね」 「いいか?」 「わたし、めっちゃ田舎だから」 「興味ない」  そう言い放ってイヤホンを耳に入れて、ボリュームを上げるのかスマートフォンを操作した。 「ま、いいや。じゃあね」  椅子から立ち上がる私のことはまったく見ない。  私は少し肩をすくめて、自分の必要な資料があるはずの棚を探しに行った。  週末を挟んで、テスト週間は朝から午後までテストや小論文を書く時間が続く。 「もう疲れたー」  和可菜は学食のテーブルに突っ伏して泣き言をこぼした。 「まだ月曜日だよ」  私と美結とで笑う。 「全然できなかったー。勉強したんだけどなぁ」 「大学のテスト、むずかしいよね」  教養とは言っても高校までの勉強とは少し違う。 「つむ、午後は?」 「第二外国語。フランス語」  お昼ごはんのために買ってあったパンの袋を開けた。  美結と和可菜はお弁当を広げる。 「あたしは中国語だから別々だね」 「フランス語のテスト終わったら図書館行ってくる。明後日提出の近代文学のレポートまだ全然できてないんだよね」  パンをかじりながら肩をすくめると、美結が心配そうな顔をする。 「えー、大丈夫? あたしはもうちょっと」 「あたしもう終わったよ」 「え、和可菜終わったの? 意外……」 「あたし国語はわりと得意なんだわ」 「詰まったら和可菜に聞くわー。感想文とか苦手」  とため息をついて見せると、さっきまでしおらしくなっていた和可菜が笑顔を見せた。 「いいよぉー、教えてあげるよ」  パンを口に詰め込んで、スムージーで流し込む。 「よし、フランス語もまだあやしいからちょっと先に行って勉強してるわ。またね」  と、立ち上がる。 「うん、がんばって」 「またね」  まだお弁当を食べているふたりに手を振って学食を出た。  講義室にはまだ誰もいない。  窓際三列目の席に腰を下ろした。  フランス語のテキストとノートを広げて眺める。  テキストの確認をしているうちに、徐々に学生が集まってきて講義室がざわざわしてくる。  一度顔をあげてドアのほうを振り向いたとき、イヤホンくん……花岡朔の姿が見えた。  その瞬間目が合うけれど、すぐに彼のほうから目をそらす。  その両耳にはやっぱりイヤホンが入っているのが見えた。  私も特に気にすることなくテキストに視線を戻した。    フランス語のテストが終わってみんな一斉に講義室を出るときに 「花岡くん!」  と声をかけた。  だけどやっぱりテストが終わってすぐにイヤホンをした耳には、私の声は聞こえないらしい。  追いかけて肩をたたくとやっと振り向いた。 「フランス語一緒だったんだね、おつかれさま」 「何?」  ほかにも数人同じテストを受けていたクラスメイトたちが私と花岡朔を順に見て不思議そうな顔をしながら、私にだけ 「おつかれさまー」  と声をかけて行った。  その間、花岡朔はうつむいてスマホをいじっている。  イヤホンは外さなかった。 「なんで?」 「は?」  仕方がなさそうに片耳だけイヤホンを取って聞き返す。 「なんで、誰ともしゃべったりしないの?」 「なんであんたに説明しなきゃならないわけ?」 「変わってるなって、みんなそう思ってるから」  それを聞いて、花岡朔は少しだけ口角を上げた。  目元は笑っているようには見えなかった。 「別に、それで構わない」 「面倒じゃないの?」 「あんたみたいなのはそういないから」 「わたし?」 「誰もいちいち気にしないだろ。今までそうなんだから」 「あー……そうだね。でも」 「何」 「ひとりはつまらなくない?」  花岡朔はそんな質問をする私の方がおかしいとでも言うように少し首をかしげて、 「ひとりは自由だ」  と答えた。 「……そっか」 「じゃ」 「あー、うん。また明日」  花岡朔は返事をしないで、またイヤホンを耳に入れて背中を向けた。  夏のギラギラした日差しを木陰で避けながら図書館へと歩く。  ひとりで歩くときは、友だちと歩くときよりも早くなる。  トートバッグの中でスマホの通知音が鳴った。  立ち止まってバッグからスマホを取り出しかけて、 『ひとりは自由だ』  と言った花岡朔の言葉を思い出して、手が止まる。  ほんの少し目を閉じてからスマホを取り出して、美結からの 『フランス語どうだった?』  という他愛もないメッセージに返信した。  月曜の夜のカフェバーはお客さまがほかの曜日より少ない。 「今日、三十分早くあがっていいよ」  と店長に言われた。 「あ、はい」  普段は切れ間なくカクテルを作っている叶野さんの手も、今日は休む時間もできている。 「月曜だし、みんな給料日前だし」  と叶野さんが笑う。 「そうですね」 「テストなんだっけ? 宮澤さん」 「はい、そうなんです。早く帰って勉強します」  私は肩をすくめて苦笑いをして見せた。  レポートはこのアルバイトまでの四時間ほど図書館にこもって書評などを見ながらなんとか仕上げた。  それでもそのせいで明日のジェンダー論なんてまだ全然勉強できてない。 「がんばって」 「ありがとうございます」  と返事をしたところでお客さまから呼ばれてテーブルに向かう。  叶野さんとの会話はそれっきりだった。  なんとかテスト週間が終わり、その間も何度か花岡朔と同じ講義室でテストを受けたりしていたけれど、話すことはなかった。  ただ、単位取得者をテストの順位で掲示板に張り出す科目もいくつかあり、その中には必ずと言っていいほど『花岡朔』の名前が一番上に記されていて、美結や和可菜と顔を見合わせた。  夏休み中のアルバイトは少し早めのシフトにしてもらって、開店の準備も仕事になった。  開店の一時間前に店に入り、前日の閉店後に食洗器に入れたグラスなどを丁寧に拭いてカウンターに並べる。  店内の掃除をしてテーブルを拭いているときに、叶野さんが出勤してきた。 「宮澤さん、おはよう」 「おはようございまーす」 「準備早いねー」  最後のカウンターを拭きあげて、掃除を終わらせる。 「なんか、足りないとこないですか? 大丈夫ですか?」 「うん、丁寧にやってくれてるよね」 「今までそんなお掃除きちんとしてないから、よくわからなくて。変なことあったら教えてくださいね」 「うん、大丈夫だよ」  と、叶野さんはおだやかな笑顔を見せた。  店長がキッチンから出てきて店の入り口を確認すると、もう何組かのお客さまが待っているようだった。 「準備どう?」 「大丈夫です。開けますか」 「うん、時間もいい頃だし」  時計を見ると開店時間の五分前だ。  店長はBGMのためのオーディオの電源を入れ、私と同じフロア担当の先輩である高橋さんがレジの点検をした。 「じゃ、お店開けまーす。みなさんよろしくお願いします!」  店長の声が店内全体に響き、 「はい! よろしくお願いします!」  と従業員みんなが返事をするのは、この店のオープン時間の決まりごとだ。  そして店長が出入り口の鍵を開けて、お客さまをお迎えする。 「いらっしゃいませ。こちらのお席にどうぞ」  次々と入ってくるお客さまを席に案内してオーダーを聞き、キッチンやカウンターの叶野さんに伝え、それを運ぶ、いつもの仕事が始まった。  退勤時間は二十二時だ。  ちょっと疲れを感じて時計を見ると、あと二十分ほどだった。 「宮澤さん、疲れてきた?」  ちょうどその様子を叶野さんに見られていたようで、彼が少し笑う。 「あ、いや、……まあ、少し」  私はちょっと肩をすくめる。 「今日は俺も早番なんだよね」  と、小声になる。  もう叶野さんと交代するバーテンダーの社員さんは出勤してきていた。 「……そうですか」  と返事をして、私がほんの少し笑顔を作って見せると、彼は満足そうな表情を浮かべた。  いつものように裏口の扉の側で待つ。  今夜は蒸し暑い夜だ。  黙って立っているだけでも汗が出てくる。  思っていたよりも長い時間を待たされてから、ようやく叶野さんが扉から出てきた。 「ごめん、なかなか抜けられなくて」 「今日はいっぱいでしたもんね」 「行こうか」  と、私の手を取って指を絡めた。  手を引かれて入ったのは、花岡朔を見かけたラブホテルだった。  このホテルには数回来たことがある。  職場から遠すぎず近くなく、入り口が小路にあるから人目につきにくい。 「よかった、あいてる」  フロントには誰もいない。  ルームキーが二本残っていて、部屋の写真のパネルがふたつ点灯していた。 「どっちでもいい?」  どちらも似たような内装だ。 「うん、どっちでも」  叶野さんがさっと鍵を抜いてエレベーターに向かうとき、通りすがりにフロントの呼び出しベルを鳴らしてみた。 「ちょ、つむぎ」  叶野さんが慌てた様子で私を窘める。 「誰かいるのかなって思って」  そのままエレベーターに乗り込みフロントの方を見ると、扉が閉まりきる寸前になって、面倒そうな顔をして花岡朔がフロント奥のドアを開けて出てくるのが見えた。 「誰か来た?」  叶野さんには見えてなかったようだ。 「ううん、誰も」  と首を振って応えて、背伸びして唇を重ねた。  すぐに舌が絡まってきて、彼の手が服の上をまさぐった。 「エレベーターって防犯カメラとかついてるんじゃない?」  唇を離して箱の中を見回してみる。 「つむぎからキスしてきたんだろ?」  彼は唇を少し舐めてから指で拭くような仕草をした。  エレベーターが止まって扉が開く。  廊下の左側にあるドアの灯りがついていた。 「行こう」  彼は私の手を引いて部屋のドアを開ける。  そのドアが閉まりきる前に抱き寄せられてむさぼるようなキスをされた。 「あん……」  手はカットソーの中に入って胸を揉みしだき、背中に回ってブラのホックを外した。  ガチャッと音を立てて鍵がかかり、すぐ横で部屋の精算機の音声案内が流れている。 「お金、入れないと」  私が少し顔をずらして言うと、頰に彼の唇と舌が触れて唾液で濡れる。 「うん、今やる」  私を抱きすくめたままボディバッグから財布を取り出そうとするけど、片手しか使えないでいるから少しもたつく。  精算機からは催促の音声が流れた。 「大丈夫?」 「うん」  仕方なさそうに私から手を離して料金を支払い、それからまた私を引き寄せる。 「すっげーやりたくてさ」  私のカットソーをまくり上げてブラをずらして胸をあらわにし、そこにしゃぶりつく。  スカートをたくし上げてお尻をつかむようにして揉んだ。 「あ、……」  そのままベッドへ移動して、押し倒される。  ショーツの中に指をねじ込み、割れ目をなぞったそのときだけ、柔らかな動きに変わる。 「あん、あっ……」  指先でじっくりとそこをなぞり、撫でまわす。 「気持ちいい?」 「うん」  一度その指を彼が自分で舐めて濡らしてから、ショーツの中、奥に挿入する。 「あぁ…っ……」  激しくかき回されて、もう少しで絶頂を迎えそうなところで止められる。 「は……」 「ね、俺のも気持ちよくしてよ」  カチャカチャとベルトを外して、ジーンズの中では窮屈そうになった彼自身をあらわにした。 「あー、うん」  私は彼のそこを握って、上下にしごく。 「ああ、めっちゃ気持ちいい。ねぇ、舐めて」  ジーンズとトランクスを下ろして枕に頭を乗せて横たわる。  私はまだ服を着たまま、そこに唇を寄せた。 「ぅん……」  口に含んで頭を上下に動かす。  舌で転がしたり強く吸ったりすると、 「あー気持ちいい」  と彼は嬉しそうな声を上げる。  そのとき、不思議と彼の熱と反比例するように私の身体が冷たくなっていく感じがした。  私は訳もなく笑いが込み上げる。 「ふふ」 「つむぎ?」 「なんか……バカみたいだなって」  口を離して指で拭う。 「えっ、えっ?」  叶野さんは目をパチパチとさせて私を見る。 「だって、セックスしたいだけなんだもん」 「は?」 「わたしが、とかよりも。女子大生とセックスするのが楽しいんでしょ?」 「えっ、いや、えぇ」  私の言葉の意味がわからないというように頭を掻く。  露出した下半身はさっきまでの熱がみるみる下がっていくようだった。 「もうおしまい。バイバイ」  外されたブラを直してカットソーを下ろす。  自分のその指が冷たかった。 「ちょ、待てよ、マジで言ってんの? バイトどうすんだよ」 「バイトは行くよ」 「本気かよ、そんな、そんなこと」 「誰かに言うの? 宮澤つむぎとセックスしてましたって? バカじゃん」  思いつく言葉を並べてまくし立てた。  叶野さんはぽかんと口を開けて聞いているだけみたいだった。 「はぁ?」 「そんなの、叶野さんの立場なくなるだけだよ? 既婚なのに新人バイトに手出したとか、なんて思われるかわかんない?」 「う……」 「叶野さんが黙っていれば、わたしも黙っててあげる。……じゃあね」  精算機の退室ボタンを押すと、かちゃんと金属音を立ててドアの鍵が開いた。 「叶野さんも早く出た方がいいよ」  と言って後ろは振り返らずに部屋を出た。  エレベーターに乗り込みすぐに扉を閉めるボタンを押す。  壁にもたれて一階に着くのを待った。  扉が開いたときに全部のフロアのボタンを押してから箱から出た。  早足でフロントに向かって、呼び出しベルをせわしなく鳴らす。  さっきよりは早くフロント奥のドアが開いて花岡朔が顔を出した。 「ちょっと、かくまって」  私の顔を見て驚いた顔をして目をぱちぱちと瞬かせたその表情は、いつもの無表情よりも少しあどけない少年っぽさが見えた。  ついさっき叶野さんもこんな顔をしたけど、印象の違いにひとりで笑ってしまう。 「は? なんであんた……何笑ってんだよ」 「ちょっとね。いいから、そこ入れて」  花岡朔はいつものしかめっ面に戻ってエレベーターの方を見て、そしてフロントカウンター横のパタパタと開くスイング扉を開けた。 その中に私はかけこむ。  エレベーターの位置を示すランプは、私がボタンを押したせいでひとつひとつ止まっていて、今はまだ三階で止まっている。 「ありがと」 「なんなんだよ、あんた」  フロント奥のドアを開けると、その向こうは事務室であり休憩室でもあるらしい。  花岡朔以外には誰もいないようだった。  そう広くもない部屋に事務机と椅子と、ソファとローテーブルがひとつずつ。 その向こうに給湯スペースの小さなキッチンと、小さな窓があった。  炭酸飲料のペットボトルが事務机に置いてあるのは、彼の飲みかけなんだろう。  机の上には小さなモニターがひとつあり、誰もいないフロントロビーの様子が映っていた。  空調が客室と比べるとあまりよく効いていないようで少し暑く、扇風機が首を振って回っていた。  私は古くさいソファに腰を下ろして、大きくため息をついた。  時々扇風機の風が髪を揺らす。 「別れてきたんだ」  ソファの背に深くもたれて天井を見上げた。  白い有孔ボードの天井に蛍光灯が二本ずつ並んで、青白い光を放っている。 どこを見ても無機質な部屋だ。 そしてそれはどこか自分と同じように思えた。 「俺に関係ない」  花岡朔は事務椅子に座ってほんとうに嫌そうな様子でため息をつく。 「そうなんだけど、聞いてよ」 「俺を巻き込むな」 「友だちでしょー」 「違う」  その時、机のモニターの中でエレベーターの扉が開いた。 「あ」  出てきたのは男性ひとり。  画質が良くないからはっきりはしないけれど、叶野さんに間違いない。 「彼氏じゃね?」  キョロキョロとしながら出て行くのがわかった。 「もう彼氏じゃない」  私はモニターから目をそらす。 「あっそ」  相変わらず関心がなさそうな顔で、花岡朔はモニターを眺めている。 「……わたし、ほんとに田舎の小さい町で」 「興味ない」 「ひとりごと」 「……あっそ」 「いわゆる底辺校っていう高校しかなくて。進学するなんて考えたこともない人たちばかりで」  花岡朔は退屈そうにスマホをいじり出す。  私は構わずにしゃべり続けた。 こんなに自分のことを誰かに話したことはなかった。 『ひとりごと』という形ではあったけど、どこかで花岡朔は聞いてくれるように思えた。 彼のことなんてほとんど知らないんだから、根拠なんてないけど。 それでも私はゆっくりと話し続けた。 「でも私は勉強が楽しかった。知らないことを知るのが楽しかった。……変な子ってよく言われた」 勉強するのが良い子だって価値観は小学校までだった。 「高校の先生が進学を勧めてくれて……親も全然、そんなふうに考えてなかったんだけど、まあ、なんとかこうやって大学生になれた」  少し喉が乾いてきたから、バッグからペットボトルの水を取り出して飲んだ。  ペットボトルには保冷カバーをしていたけれど、もうすっかりぬるくなっていた。 「バイトもはじめて、なんか、口説かれて。結婚してたけど……大人の男の人ってどんなかなってくらいで」 「……まあ、別れてよかったんじゃね? 既婚者なら」  花岡朔は私のことは見ないで、机に頬杖をついたままぼそりと呟いた。 「そんなの、なんできみにわかんの」 「なんでって」 「別に、好きだったわけでもないけど。だけど、何が正解だとか、わかんないじゃん」 「まあ、そうだけど」  彼は面倒そうに肩をすくめた。 「そもそも、好きでもないのに付き合うとか、そういう感覚わかんねーな」 「別に……好きになったって、どうにかなるわけでもないし……奥さんから奪いたいとか思ってもいないし。期待したって何もないなら、最初から期待なんてしない方がいい」 私が首をかしげると、彼は小さくため息をつく。 「……そうやって感情殺して他人に合わせて、楽しいか?」 その言葉を聞いて、心臓がどきりと音を立てた。 「……別に、そんなことないけど」  そんな意識はなかった。  感情を殺してるとか、他人に合わせてるとか。  私の何を知ってそんなふうに言うんだろう。 「普通はもうちょっと」 と言葉を切る。 「きみに『普通』とか言われたくないし」  不思議な感覚が押し寄せて、私を飲み込んでいくような気がした。  腹が立つ、ってわけではない。  ただ胸のあたりがちくりと小さく痛んだ。 「ま、俺には関係ないけど」 「……そろそろ帰るね。あ、部屋の掃除するの? ほとんど使ってないけど、ベッドカバーは取り替えた方がいいかも」  と、私は立ち上がる。  彼はちらりと視線を私に向けただけで返事はしなかった。 「あー、フロントから出たらヤバい?」  入ってきたドアに手をかけてから立ち止まって花岡朔を見ると、 「裏口あっち」  花岡朔が指さした方向にもうひとつのドアがあった。 「ありがと。……またね」  ドアを開けるとすぐに外だ。  三段ほどの階段を下りて、小路から大きな通りに出る。  自宅のマンションまで地下鉄で四駅あったけど、今夜はこのまま歩くことにした。  もう夜遅い時間だけど、人通りは少なくない。  少し歩幅を大きくして人の間を縫うように歩いた。  夜の街の中では曇っているのか晴れているのかもわからない。  ただ湿った生暖かい空気が肌にまとわりつく。  飲み会帰りなのか少し酔ったような陽気な人たちの中で私はうつむいてどんどん歩いた。  ひとりは自由だ。  今が何時でも、どこにだって行ける。  角を曲がってふと顔を上げたとき、ビルの間にうっすらと煙った白い三日月が見えた。  曲がりなりにも『彼氏』と別れたというのに、涙も出なかった。  夏休みの間はまったく大学に行かないのかと思っていたけど、他大学の先生が来る特別講義や短期間の集中講義などもあって、それに付随するレポート提出などもあり、思ったよりそう暇でもないという印象だ。  一人暮らしの私にとっては、コンビニの食事よりも安く種類も豊富なので大学の食堂をよく使うこともあり、昼間は大学に行くことも多かった。  そして花岡朔もそうなのだろう。  図書館や食堂で見かけることもあったけれど、相変わらずイヤホンをずっと耳に入れたまま、他の誰かと話している姿は見たことがなかった。  私も、今までと同じように花岡朔に話しかけることもなかった。  自分のことを理解するのは自分以外にいない。  彼のことは彼にしか理解できないし、彼も他人に理解してもらおうなんて思っていないんだろう。  そこでふと気づく。 「わたし、なんであの人のこと考えてるんだろ」  朝目が覚めてぼんやりした頭で考えていた。 ……不思議だ。  今まで感じたことのない感情が胸の奥にくすぶる。  これはなんだろう。  だけど今なら気がつかなかったことにできる。  そう思ってそのことを考えるのはやめた。  下宿タイプのマンションで光熱費も一律料金なのをいいことにエアコンをしっかり効かせた部屋から、一歩外に出て 「あっつ……」  と思わず声に出してしまうほどの朝。  生まれ育った町では夏は霧が出やすくて、湿度はあってもひんやりとした日が多かった。  じりじりと照りつく太陽を、手をかざして見上げた。  雲一つない真っ青な空。  部屋を出るときには日除けのために羽織っていたチェックのシャツをすぐに脱いで、タンクトップのワンピースの腰に巻きつけて結ぶ。 この気温では日除けよりも少しでも涼しくなる方を優先したい。  信号待ちの間にリュックから日焼け止めを出して腕に塗った。  歩きながらゴムで髪を無造作にまとめる。 「つむじゃん、おはよー」  地下鉄の出入り口がある交差点を渡っているときに後ろからトンと背中を叩かれた。 「あ、おはよー」  振り向くと美結の笑顔があった。 「暑いねー」  美結は背中まであるロングヘアを耳の後ろでふたつに結んでいる。 「札幌っていつもこんなに暑いの?」  街路樹の影に出入りしなから歩く。  ビルの間は少し風が吹くけど、熱風以外のなにものでもない。 「つむは釧路の方だっけ? そっちよりはやっぱり暑いかもねぇ」  釧路とは違う小さな町ではあるけど、町名と『釧路の方』と言っておけば、だいたいはそれ以上聞いてこない。  そんなものだ。 「うん、たまに暑い日もあるけどさー」 「そうなんだー? 天気予報でにわか雨って言ってたけど、ほんとかなぁ」 「えー? 全然、そんな感じじゃないよね」  見上げてもやっぱり雲なんてない。 「ねぇ、つむ。話変わるけどさ」 「うん?」 「一人暮らしどう? さみしくなったりしない?」 「あー、わたしはそんなでもないかなぁ」  人によってはホームシックになることもあるみたいだし、夏休みに入ってすぐに実家に帰ったクラスメイトもいた。 「なんともないならいいんだ。変なこと言ってごめん」 「ううん、全然」  大学構内に入って、講義棟までまだ歩く。 「あ、あの人、なんだっけ」  反対側から歩いてくるのは、花岡朔だ。 「花岡朔」 「そうそう、それだ。相変わらずだね、あの人」  結局、美結は花岡朔のことを『あの人』と呼ぶ。  彼は変わらずイヤホンをしてうつむき加減で歩いていた。 「同じ授業かな」 「そうじゃないかな」 「つむ、しゃべったことあるんだよね? どんな人?」 「ええー、なんか、……変わってる、かな」  簡単な言葉で言えば、やっぱり『変わってる人』と言うのが一番手っ取り早い。 「それはみんなそう思ってるよぉ」 「だよねぇ」 「なんでいつもひとりなんだろ」 「うーん」  彼の『ひとりは自由だ』という言葉を説明しようとして、やめた。  彼のことは彼にしかわからない。 「……ま、いっか」  美結が肩をすくめて笑う。 「うん」  なんだかんだと話題にすることもあるけど、基本的にはみんな他の人に無関心なんだ。  だけど、お互いに深追いしないことが楽だと思うことも多い。 「あとでさ、スタバ行こうよ。新しいフラペチーノ飲みたい」 「あ、いいね!」  新商品が出たという情報はSNSで見た。 「あれ、でもつむってバイト辞めたんだっけ? お小遣い大丈夫なの?」 「うん、少しの間だけって約束で仕送り増やしてもらったよー」  結局あのあと何度かバイトに行ったけれど、私の顔を見てビクビクしている叶野さんを見てたら、呆れるのを通り越して気の毒になってしまって、辞めてしまった。  美結にも和可菜にも、叶野さんとのことは言ってなかったから、ただ勉強と両立するのが難しかったとだけ話した。  次のバイトを探さなくちゃいけないけど、勉強で忙しいとか言い訳をして親に甘えてしまっている。 「それなら良かったじゃん」  今日は美結とは違う講義だから、講義棟の中で別れる。 「あとでね。会えなかったらライン入れるわ」 「わかったー」  小さく手を振って別々の講義室に入った。  講義室に入ってぐるっと見回して、花岡朔がいるかどうか確認する。  今日はいないようだ。  クラスメイトとは言っても美結と同じでいつも一緒の講義とは限らない。  適当な位置の席に座って、テキストやノートを机の上に準備して一息ついたところで先生が入ってきた。  講義は少し眠たくなった時間もあるけど、なんとか昼まで持ちこたえて、今日の講義が終わった。  講義室を出ると、ちょうど隣の部屋の講義も終わったところで、少し疲れた顔をした美結と、その何人か後ろに花岡朔の顔が見えた。 「おつかれー」  私は美結に声をかけたけど、目は花岡朔を追っていた。  いつもどおりのイヤホン。  私の声は聞こえていない。 「あ、おつかれー。てか、疲れた。眠かった」  美結が大きなため息をつく。 「わたしもー。ごはんどうする? 食べてから出かける?」 「うん、お弁当持ってきちゃったんだ」  実家住まいの美結はほとんど毎日お弁当を持ってきていた。 「じゃ、食堂行こうか。わたしはなんか買う」  空調の効いた講義棟から外に出ると、 「あっつ!」  と思わずふたりで声に出してしまうくらいの暑さ。  その後ろから花岡朔が通り過ぎて行った。  図書館の方向へ歩いていく背中を視界の端で見送って、ギラギラとした太陽の下を美結と食堂に向かった。  昼食を済ませて、大学から歩いて札幌駅の商業施設に向かう。  ビルの間から、遠くに入道雲が出ているのが見えた。 「和可菜も呼ぶか」 「バイトじゃなかったっけ?」  夏休みの子ども向けイベントのバイトに行くという話をしていた気がした。  一週間は休みなく仕事だったはずだ。 「そうだったねー。今日はフラペチーノ美味しいだろうね」 「ほんと、もう汗出てくる」  駅構内に入ればそれなりに暑さはしのげるだろうけど、そこまではもう少し歩かなければならない。 「和可菜は学校の先生になりたいって言ってたよね」  ふと思い出して口に出してみた。 「そうそう、それなら教育大だったんじゃないのかなって思ったけどね」  と、美結は苦笑いするけど、本気でそう思っているわけでもない。 「でもそういう具体的な目標あるのは、いいな」 「つむはないの?」 「とりあえず大学って感じで……いや、勉強はいっぱいしたけど。でも大学から先のこと考えてなかったなぁ」  数学が少し苦手だったから文系で、『北海道で一番いい大学』を目標にして勉強していたら、運も良かったのか合格できた。 「あー、あたしもだよぉ」  と美結が笑う。 「でもちゃんと考えておかないと、就職とか困りそうじゃない?」  サークルや部活に入っていない私たちには、上の学年の人と接する機会はあまりなく、就職活動というものもまだ具体的にどういうものなのかもよくわからない。 「そだねぇ」  と返事をしたとき、ぽちりと頭の上に何か小さなものが当たる感触がして、空を見上げた。 「あっ、ヤバい」 「えっ、あ、これヤバい」  さっきまで熱風だったのが急にひんやりと冷たい風に変わる。  今まで青く晴れ渡っていた空は、みるみるうちに黒く大きくなった積乱雲に覆われていく。  まだ太陽は隠れていない中、雨粒がバラバラと落ちて来て太陽の光に反射してキラキラと輝いていた。  周りの人たちはあわてた様子で建物の中に入っていく。 「あたしたちも急ごう」  と走りかけたとき、自分の部屋の様子を思い出した。 「や、ごめん、ちょっと待って。わたし、洗濯物ベランダに干してた」  朝早めに起きて洗濯したというのに、全部台無しになってしまう。 「きゃー、ヤバいじゃん、それ」 「ごめん、今日やめるわ。ごめん!」  雨粒がアスファルトの上で跳ね返る音があっという間に大きくなって、自分の声も聞こえにくくなる。 「しょーがないよ! あたし中入るね」  もう駅ビルは目の前だ。 「うん、ごめん! またね!」  大きな声で美結と挨拶をして別れ、すぐに来た道を引き返す。  雨の中を走っているうちに、どうしてか花岡朔のことが思い浮かんだ。  彼が今どこにいるのかなんてわからない。  濡れた前髪が貼りついた額を手の甲で拭う。  あとからすぐに水滴が頭の上から額を伝って流れ落ちてくる。  大学の門の前を通り過ぎてマンションに向かっていたのに、一度足を止めて、大学の構内へと駆け出す。  前もよく見えないまま走って、水たまりに入ってしまって盛大に水しぶきを上げた。 「きゃっ……やだーもう……」  雨を含んだワンピースのスカート部分は脚に貼り付いて動きにくくなるし、サンダルもすっかり濡れて足が滑る。  私は図書館の方に向かって歩いていた花岡朔の背中を思い出していた。  図書館に入って、走るのをやめた。  水滴が滴る髪をかきあげて、手で顔を拭く。  バッグにはハンカチも入っていたけど、小さなタオルハンカチでは顔を拭くくらいしかできない。  ハンカチで水滴を少し拭いてから、階段を上がって図書館の閲覧室にそっと入っていくと、そう奥まっていないところで花岡朔を見つけた。 「いた」  まっすぐに彼に向かって歩いていくと、珍しく彼が私に気づいた。  目を丸くしてイヤホンを外す。 「あんた、何やってんの」 「花岡、朔……探してたんだ」  私はまだ息が弾んでる。 「なんで」 「……わかんない」 「わかんないってなんだよ。ていうか、すっげー濡れてんだけど」  ハンカチで拭いたけれど、それでも髪からはぽたぽたと水が滴ってるし、ワンピースも濡れてない部分なんてない。  透けにくい色の服でよかった。 「雨降ってきて」 「そうじゃなくて」 「なんか、……わかんないけど」  思わず声が少し大きくなって、周りの人の視線を感じた。 「ちょっと、こっち」  花岡朔は仕方なさげに立ち上がって、歩き出す。  私は黙って彼について歩いた。  語学関連資料の棚が並ぶその奥に、小窓がついたドアが四つ並んだ壁が見えてきた。 「ここなに?」 「語学自習室。知らないの?」  と言いながら、スチール製のドアを開ける。  小さなスペースにモニターが設置された机と椅子があり、ふたり入るとかなり狭い。 「狭くない?」 「そんな水びたしの人と喋るなんて目立つことしたくないんだよ」  と言われて、私は渋々中に入った。 「ここなら音も漏れないし」  とドアを閉めた。  防音室独特のほのかな圧迫感を感じる。 「で、何?」 「なにってのは、ないけど……強いて言えば、きみがどんな顔するんだろうって」 「なんなんだよ、……変なやつ」  呆れたような顔でため息をつく。  驚いたり呆れたり、どちらかと言えばネガティブな表情ばかりではあるけど、最初に思ってたよりもいろんな表情を見せる。 「きみに言われたくないよ。だけど……なんなんだろう」  私は壁にもたれかかってペタンと床に座り込む。 「わたし変だよね」 「そう言ってんだろ」  花岡朔は椅子に腰を下ろした。 「部屋のベランダに洗濯物干しっぱなしなのに。なんできみを探しはじめちゃったのか」 「バカかよ」 「ほんと、バカみたい。……自分でもわかんなくて」  あの日から、この人のイヤホンを引き抜いた日から、自分の中でなにかが変わりはじめた。  それまで気にすることもなかったこの人を目で追い、それだけじゃなく声もかけて嫌な顔をされて。  それでも、気になった。 「なんできみのこと、こんなに気になっちゃうの? どうしたらいいの?」 「知るかよ」  胸の中が苦しい。  ズキズキと痛むのはどうしてだろう。 「これは、好きってことなの?」 「はぁ? 俺に聞くなよ」 「だって、よくわからない。好きとか、恋とか」  彼に言われた『感情殺してまで他人に合わせて』と言われたのを思い出す。  今までどんな気持ちで他人と接してたんだろう。  この人といると、自分ではどうすることもできない不思議な感情があふれ出す。  そのことに今、気づいてしまった。  もうなかったことにできないくらいに、大きくなっている。 「俺は、あんたみたいのは好きじゃない」  そう言いながら彼は椅子から降りてしゃがんで、床に座り込んだままの私と目線の高さを合わせる。 「そうかもしれないけど」 「……あんたは、俺を無理やり引きずり出そうとする。……あのときから」  少しうつむいて、つぶやくように話す。 「……イヤホン?」  あの日、あのときはただの気まぐれだった。  だけど、あの日から心も環境も変わっていったのは私だけじゃなかったのかもしれない。 「急に目の前に現れて、全部、変えようとする。迷惑だ」 「そんなの、違う。きみはそのままでいい」 「だけど実際こうやって繋がってしまった。ひとりでいいって思ってたのに。ひとりでいようと思ってたのに」  と、私を睨むようにして目を合わせた。  こんなふうに見つめ合うのは、はじめてだ。  少しずつ、ふたりの距離が近づく。 「ひとりは自由だから?」 「そうだ。だから」 「でも孤独だよ」 「別に構わない」  そう言いながら、こんなにまっすぐに私を見つめるのはどうして? 「わたしも、そうだから」 「あんたは、友だちもいるだろ」 「そうだけど……友だちもいるけど、だけど、……さみしい」  その瞬間、ぽろぽろと涙がこぼれて止まらなくなる。  美結が朝、『さみしくない?』って聞いてきたのは、一般的な一人暮らしについて言っただけだと思うけど、あれから頭のどこかに引っかかっていた。  関心が薄い、深追いしない関係は穏やかで居心地がいいけど、ほんとうの自分を知る人はいない。  それでいいと思っていたし、それが『普通』なんだと思っていた。  今『さみしい』という言葉を口にしたとたん、その感情に飲み込まれてしまう。  感情というものに支配されたくなくて気がつかないふりをしていたのに、完全にコントロールを失ってしまった。 「俺は、さみしくない」  わかりあえるとは思わないけど、ほんとうの花岡朔を知りたい。 「だから、一緒にいたい」  少しずつ距離が縮まって、前髪が触れ合う。  吐息が頰をくすぐる。  その頰を伝う涙を指で拭くけど、こぼれて止まらない。 「意味がわからない」 「もっと、きみを知りたい」  知らないことだらけだ。  名前と出身地しか知らない。  そんなのはこの人を作るごく小さな情報でしかない。 「知ってどうする。わかってもらおうなんて思ってない」  だけど、近づきたい。  この感情が恋じゃないなら、なんになるんだ。  涙と同じようにあふれてくる。 「わかりあえないかもしれないけど」 「すぐに飽きる」 「違う。だってヒトは毎日新しくなるから。飽きるなんてない」  こつんと額が合わさった。  鼻先も触れそう。  たまらず目を伏せる。  どうしてか胸が苦しくて、左手でまだ濡れたままのワンピースの胸元をぎゅっと握った。 「俺はあんたに興味ないし、仮にあんたと俺とつきあったって上手くいくはずない」  こんなに私を拒絶する言葉を並べるのに、こんなに近くにいるのはどうしてだろう。 「そんなの、わかんないじゃん。答えなんかまだない」  生きていくのに、正解と間違いがあるのだとしたら、今の私はどっちなんだろう。  それなりに一生懸命に勉強して、北海道では誰もが知っている大学に入った。  だいたいの人はそれで正解と言うのかもしれないけど、まだ努力すれば東京の大学も行けたとか、高卒で地元で就職して早くに結婚するのが幸せだったとか、あるかもしれない。  そんな仮定なんて考えてたらキリがない。  だけど、正解を決めてしまいたくもない。 「わかんないことを知りたいんだ、わたし」 「あんたほんと、……変なやつ」  ふわりとやわらかな唇が触れて、重なる。  目を閉じて、その感触だけを確かめる。  ただ触れるだけのキスが、今までではじめてのキスのようだった。  心臓が高鳴り頰が紅潮していくのがわかる。  雨に濡れて冷えた頰に、まだこぼれる涙があたたかく感じた。 「……なんで、キスしたの」  そっと目を開けると、相変わらずの仏頂面がいる。 「あんたを黙らせるため」 「そんなにおしゃべりじゃないよ」 「黙れよ」  と、もう一度唇が触れ合って、重なって、もっとほしいと思う。  手を伸ばして彼の首元を引き寄せると、深いキスに変わる。  何度となく角度を変えながら、お互いを求めた。  唇が離れたときには、息が上がっていた。 「……信じらんない」  私は胸を上下させて、ため息をついた。 「何が」  花岡朔はほとんど表情を変えずに、小さく首をかしげる。 「絶対、はじめてじゃないよね?」  今までの……前の彼としたキスなんてなんだったんだと思うくらいに、頭の中がとろけてしまいそうなキスだった。 「……そんなの、知らないままにしとけよ」  そっと細まった瞳は、はじめて見る柔らかな表情だった。 「そんな顔するんだ」 「どんな顔?」 「なんか……やさしい顔」 「そうか?」  と、またいつもの仏頂面に戻る。  それでも鼻先が触れあうくらいの至近距離は変わらない。 「ねぇ」 「何」 「……きみのこと、全然知らないけど」 「それなのにこんなことしてるの変だと思わない?」  彼の手が肩に触れて、掴む。  そこから二の腕をそっと撫でた。  雨に濡れて冷えた身体に彼の乾いた手は暖かい。 「変だよ。だけど」 「だけど、……変なやつだし、うっとうしいし、めんどくさい。だけど、……目が離せない」 「……それ、わたしのこと?」 「あんたがそう思ってるかもって」 「そんなの、きみが自意識過剰なんじゃない?」 「……変なやつ」  がまんできずに首を伸ばして唇を重ねた。  彼のぬくもりやキスをほしいと思う。  自分の中にそんな欲望があるなんて知らなかった。  前の時はただあの人の好きそうな女の子を演じてみせてただけだった。  そんなのと全然違う。  この感情が恋とか愛とかなのか、はっきりとはわからない。  ただの性欲だと言われたらそれまでかもしれない。  唇を少しだけ離した。 「……でも、きみがいい」  花岡朔に対して湧き上がるような感情は、今まで感じたことのないものだ。  また唇が重なる。  彼に対してだけ、こんなにコントロールもできない身体の深いところから熱くなるような感覚になる。  唇を触れあわせたまま、 「あんた、バカかよ」  と言葉とは裏腹に、彼はやさしい穏やかな声でささやく。 「バカみたいって思ってるよ。でも」 「……止まんない」  止まらない。  あふれ出るこの感情も、その感情に突き動かされるこの行為も。  肩にかけていた彼の手が首元に触れて、頰に触れる。 「俺もバカだな」  耳元に指先で触れて、耳たぶをなぞる。  私の髪をかきあげて耳にかけて、首筋にそって降りていく。  タンクトップの肩に指先をかけて、少しためらうように撫でてから、そこをゆっくりと下げた。  ブラトップのタンクトップワンピースだから、簡単に胸元があらわになる。 「あ……」  胸元を彼に見られているというだけで、ふわふわとめまいがして身体の奥深い部分の温度が上がる気がした。  そこを指先がやさしく滑り、私を溶かしていく。 「んん……」 「もう感じてんの」 「だって、きみが、そんな」  言葉の隙間で唇が重なるから、とぎれとぎれになってしまう。 「……朔」 「え?」 「名前、教えただろ」 「じゃ、わたしのことも、『あんた』じゃなくて」  唇を離して少し沈黙してから、 「……つむ」  と微かな声でささやく。 「……やばい、それ」  いきなり親しい人しか呼ばない呼び方をするのは、反則だと思う。  そしてその瞬間に朔の手が私の乳房をつかんで揉んだ。 「あっ、あっ……」  思わず鼻にかかったような甘えた声が漏れたけど、わざとらしく大きな声にすることはしなかった。  そんな演技なんてする余裕もなかった。  朔は指先で胸の先端をつまみ、軽く引っ張ったり爪の先でひっかく。 「や、あ…っ……」  両手でぎゅっと乳房を包んでつかむけど、力加減はやさしい。  こんな部屋といえるほどの広さもない小さな小さな箱のようなスペースで、ほんとはもっと落ち着いてベッドなんかでしたいことだけど、でも、今がいい。 「ねぇ」 「んっ」 「ここでいいの?」  と、朔は私が考えてたことと同じことを聞く。 「いい。……やだ?」 「ほんとは、やだ」 「でも、今じゃなきゃ」 「……今」  朔の手が腰を伝って、床にぺたんと座っている私のおしりと腿を撫でる。 「今、……ほしい」  かすれた声が耳の中で響く。  私の膝の間に朔の膝が割り込んで、膝裏に手を入れて私の膝を立てた。  そしてスカートの中に朔の指先が滑っていく。 「ん、あ…っ……」  ショーツに触れて、少し笑う。 「や、なに?」 「全部濡れててよくわかんない」  さっきのどしゃぶり雨で、下着までぐっしょりと濡れていた。 「……中、いい?」 「ん、……いい。っあ……!」  返事をしたとたん、ショーツの中に朔の指が入り込む。 「これは、雨のせい?」  指先を割れ目に沿って滑らせて、そこはすぐにぬるぬるとした感触に変わる。 「ちが……朔が、……ああっ……」  入り口あたりを中指の腹でやさしく撫でられて、でもその奥がもっと触れてほしくて痛いくらいに感じたとき、朔の指先がその中へと挿し込まれる。 「やば……いく、かも」  ぞくりとする感覚は、こわいわけじゃない。 「マジ? 早くね?」  と言いながら、朔の指先は私の奥を探り、刺激する。 「だって、朔が……朔…っ……!」  私の中でうごめく指が、自分でも知らなかったある場所を探り当てた。  その瞬間悲鳴のような声を上げてしまう。 「やだやだ、いっちゃう…っ……いくぅ……!」  目をぎゅっと閉じて首をいやいやと左右に振っても、波にさらわれるように絶頂へと連れて行かれる。  一瞬のような、長い時間がたったような、時間の感覚がわからなくなる。  目を開けたとき、涙がこぼれた。 「大丈夫?」 「大丈夫じゃない……こんなの、はじめて」  と息を切らせて首を振ると、朔は少し意地悪そうな笑顔を浮かべた。 「へぇ」 「あ、悪い顔した。やだ」  ふいっと横を向くと、その頰を撫でて、軽くつままれる。 「ねぇ」 「ん」  さっきもこんなふうに言葉をかけあった。  お互いに同じ言葉を繰り返しながら、心が重なっていくんだろう。 「俺でいいの?」  前を向き直すと、すぐ目の前でまっすぐに私の目を見つめる朔の瞳に吸い込まれそうな錯覚におちいる。 「うん。……朔じゃなきゃ、やだ」  二度目の恋のはずなのに、はじめての恋みたいだ。  朔のTシャツの胸元をぎゅっと握った。  朔は椅子の上に置いた自分のリュックの中に手を入れて少しごそごそしてから、小さな小袋を取り出す。 「あ、持ってんの?」 「一応、マナー?」  今までの朔から考えたら、すごく意外だけど。  朔はちらりとドアを見てから、ジーンズの前を開けて自分に準備をする。  私はそれを見て自分でショーツを下ろした。 「見せて」 「やぁ……」 「何今さら」  冷ややかな声でそう言って私の脚を開く。 「朔は、はじめてじゃないんだ?」  ある程度はわかってるような手つきだ。  私の問いには鼻で笑って 「あんたもだろ?」  と返してくるから、私は唇を尖らせるしかない。 「そうだけど」  朔はそんな私の唇にまたキスをする。 「挿れるよ」  私の腰を引き寄せて、愛液でとろとろに濡れた場所に彼自身をあてがい、ゆっくりと少し窮屈そうに押し進める。 「あ……すご……深ぁ……」 「きっつ」 「わざとじゃ、ないもん…っ……」  ギリギリまで引いて、また奥まで押し込む。  ゆっくりとその動作を繰り返して、身体がなじんでいく。  こんな狭い場所では体位を変えることも難しいけど、今はそんな愉しみよりも身体を重ねてひとつになることだけで絶頂を感じられる。 「もうだめぇ……あたま、おかしくなっちゃう…っ……」 「もともと、おかしいだろ、つむ」  力強い抽送を繰り返して、朔の額に汗が浮かんでくる。 「ちが…ぁ……朔の、せい…っ……」  朔が私を抱き上げて向かい合わせに床を座る形になった。  私の腰を揺すりながらキスを繰り返す。  この短い間に何回キスしてるのかわからない。  最初のキスからほとんどずっと唇を重ねているように思う。  それでもまだ、もっと重なりあいたい。  こんな感情は今まで感じたことがない。 「……も、わけ、わかんない」 「俺もだよ。わけわかんない。なんで、こんなことしてんのか」  肌がこすれあう水気を含んだ音、キスをするお互いを舐め合う音、ふたりの息遣い、私の喘ぎ声、かすかな汗の匂い。  それら全部がこの小さなスペースの中で私たちを煽情する。  この小さな箱のような部屋だけが生きている世界のように思えた。  朔は私を床に寝かせて脚を大きく開き、私に覆いかぶさるような体位で腰を揺する、そのスピードが増していく。  私の頭はどうしても壁につかえてしまうけど、そんなことも気にならなかった。 「……でも、も、限界」  深く浅く口づけなから、つぶやく。 「も、だめぇ……また、いく…っ……いっちゃう……っ!」  私の身体が跳ねた瞬間、 「くっ……!」  朔も小さく声を上げて、私の奥で動かなくなった。 「は……ティッシュ持ってる?」  荒い呼吸のまま、朔がつぶやく。 「え? バッグかなり濡れてるから、どうだろ……」 「これ困るんだけど」  私の中から薄い膜に覆われた彼自身を引き抜く。 「やだ、ゴムは持ってたくせに」  床に無造作に落としたままだったバッグを引き寄せて数枚だけ残っていたポケットティッシュを取り出して朔に渡す。 「こんなつもりじゃなかったし」  あと始末をしながら、朔は肩をすくめてため息をついた。 「わたしだってそうだし。……でも」  朔は乱れた服を直して、立ち上がる。 「……好き、かも?」 「なんで疑問形なのよ」  私は唇を尖らせながら、朔について立ち上がって服を整えた。  整えたところでまだ濡れたままなことには変わらない。  半分脱いだおかげで余計に冷たく感じる。 「あんたがそう言うかと思って」 「あっ、また『あんた』って言うし」 「出よう」  ドアの小窓から外を覗いてから、ドアノブに手をかけた。 「ちょっと人の話聞こうよ?」  ドアを開けてこの狭いスペースから出ると、ちょうど人はいないようだった。 「あ、雨やんだ」  窓の外は、朝と同じ晴れ渡った青空が広がっていた。  さっきのどしゃ降りが嘘みたいだ。 「私、とりあえず帰るわ。この服じゃどうにもならない」 「だろうな」  閲覧室まで出ると、何人かの学生が机に向かって勉強したり本を読んだりしていた。  ちらっと私たちの方を見る人もいるけど、ただ動くものに反応した程度で、関心があるわけではない。  そこを素通りして階段を降りる。  外に出ると、まぶしい日差しに思わず手をかざした。  さっきよりはいくぶんか涼しい風が心地よい雨上がりの匂いを運ぶ。  自分の目の前の世界がまっさらに洗いあがって、新しい景色に変わったような気がした。  ふと隣を見ると、朔もまぶしそうに空を見上げていたけど、耳にはいつものイヤホンがない。 「うち来る?」  と誘うと、呆れたような顔をして、 「……あんたほんと、変なやつ」  なんて言ってから、やさしげに目を細めた。  
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