父娘

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同僚の三船の業務を引き受けなければ、俺は今日、定時で帰ることができただろう。それでも今俺が終電に揺られているのは、ひとえに奴と俺とで生きる環境が大きく違うことが理由としてあげられる。 奴には守るべきものがあり、帰るべき場所がある。それが俺には無いだけだ。正確には、無くなった、だが。 電車を降り、ほとんどシャッターの降ろされた駅のホームを出る。日付が変わって数分たっただけの暗い夜道を、俺は無心で歩いている。九月も終盤に差し掛かるのに、あいも変わらず身体に纏わりつく生暖かい空気が鬱陶しい。音も、風も、人の気配も無い。抜け殻のようになった精気のない男、つまり俺が、ただそこにいるだけだ。 少し歩くと、塗装の剥がれた小汚いアパートが見える。ここ数年、寝て起きてを繰り返しただけの俺の家が、そこにある。 陰鬱な面持ちで郵便受けまで歩を進める。202の数字が消えかかった、紛れもない俺の家のポストは、今朝と同様にいくつものカラフルな封筒で埋め尽くされていた。はみ出たいくつかの封筒は色褪せ、黄ばみ、醜くなっている。一番手前にある、鮮やかな群青のそれは、おそらく今日投函されたものなのだろう。褪せない色が、それを物語っている。俺はそのすべてを無視して、まっすぐに自分の部屋に向かう。腕時計をちらと見ると、日付は22の数字を示していた。 「あと少し、か」 俺はそれだけ呟くと、鍵を開けて家に入るなり、シャワーも浴びずに眠りに落ちた。浅い眠りは、数年前の思い出したくもない記憶を呼び覚ます。 特徴らしい特徴もない俺の唯一の自慢は、家庭だった。美しい妻と利口な娘は俺には勿体ないほどの宝だった。言わずと知れた愛妻家としての俺の日々は、今思い返せばひどく充実していて、同時に虚言や欺瞞に満ちあふれていた。 離婚の原因は妻の不倫だったが、妻が不倫に至った理由はいまだにわからないままだ。酒も煙草も嗜むことなく、家庭への愛を貫き続けた俺が、なぜ愛想をつかされたのかは、数年経った今でもわからない。今更になって考えようとも、もはやあの時の俺のことなんて、自分でも覚えているはずがなかった。 覚えていることはたったの二つだけだった。一つは妻の顔で、もう一つは娘の顔だ。 不倫が発覚した瞬間の、妻の浮かべた表情をよく覚えている。焦りや後悔など無い、純度の高い怒気をまっすぐに表したその顔を、忘れるはずがなかった。その表情のうちに、どこか歓喜のようなものが、僅かながらに混じっていた気がしたことも、俺は覚えている。妻を咎めるつもりでいた俺の算段が狂い始めたのは、間違いなくこのときだった。 娘の顔も思い出せる。結局、関係改善を諦めた俺が、せめてもの報いをと起こした家庭裁判で手に入れた親権は、効力を発揮することなく無に帰した。娘は、妻を選んだのだ。中学に入ったばかりの娘の、両の眼に涙を浮かべながら、俺を睨みつけるようにしていた顔は、今でも夢に見る。俺は権利を行使しなかった。娘のその顔を見て、無理強いできるはずもなかった。 それから俺は家を出て、すぐに今のアパートで暮らし始めた。仕事を苦とも楽とも思わなくなったのは、間違いなくその時だろう。 ほとんど狂ってしまった俺の生活とは裏腹に、俺自身はこれまで以上に規則正しく動く歯車のように、会社の業務に貢献するようになった。 残業を、なるべく多く引き受けた。業務に徹していれば、いくらかは気がまぎれるような気がしたからだ。 目覚まし時計をかけていたわけでもないが、俺はルーティンワークのように七時前には目を覚ました。シャワーを浴びて脳を働かせる。雑にアイロンのかかったシャツを羽織ったその時、俺は気づいた。今日は、土曜日だった。 さて、どうしたものかと俺は少し考える。いつもならば休日の空いた時間も自宅業務に充てるのだが、今日に限ってはその仕事もなかった。珍しいことに俺は、時間を持て余している。 「少し早いが……」 呟き、Tシャツにカーゴパンツを着用してから、スリッパを履いてアパートの郵便受けまで降りた。ポストから幾枚もの封筒を取り出しては、左手のビニール袋に詰めた。中にはパチンコ店のチラシや保険会社からの通知書もあったが、それらを器用に避けては、あの色鮮やかな、小さな封筒だけを取り出して、詰める。無心で、詰める。 全ての封筒がビニール袋に収まると、ポストはだいぶすっきりした。すぐに部屋に戻り、元はミネラルウォーターが入っていた空のペットボトルと、ライターをカバンに詰めて、また家を出る。月に一度しか使わない軽自動車のエンジンをかけ、ガソリンメーターを確認してからそれを走らせた。 分厚い雲が空を覆い隠した、お世辞にも良いとは言えない天気の下、俺は車を走らせる。都合が良かった。俺は今からすることを、お天道様の下でしたいとは思わない。不気味に淀んだ曇り空は、俺の心をそのままうつしているかのようだった。 これでいい。こうするのが、きっと正しい。娘の顔を思い出して、俺は俺を肯定する。 娘から手紙が届くようになったのは、離婚してから実に半年が経った頃からだった。俺の新しい住所を伝えた覚えはなかったから、きっと会社の連中が教えたのだろう。同僚の三船か山瀬か、大岩かはわからないが、いずれにせよ勝手なことをしてくれたものだと、心底そう思う。 忌々しくも俺は、はじめて寄越された娘の手紙を嬉しく思い、涙を流しながらそれを読んだ。少なくとも娘が、今幸せに暮らしいていると知り、俺は安堵の心で満たされた。その時はまだ、その裏に潜む黒よりも黒い、名前のない感情には気づいていなかった。 さて、手紙を寄越されたのならば返事を書かねばなるまいと、俺はまず便箋を買うところから始めた。しかし多忙極まる業務により、俺が便箋を購入したのは、はじめて手紙をもらった1週間後のことになった。 そしてその間、手紙は毎日届いていた。 一つとして同じ手紙はなかった。毎日変わる内容はほとんど日記のように、その日にあったこと、感じたこと、知ったことがつらつらと記されていた。消極的なことや、悲観的なことは一切書かれることはなかった。娘が幸せであることを、必要以上に思い知らされた。 そして俺は、名前のない感情が心に渦巻いているのを明確に感じはじめた。 嫉妬というには大それた、しかし憎悪というにはあまりにも矮小なその感情は、娘の手紙を読むたびに、俺の娘への愛を喰らうかのように這い出てはやってきた。 気づくと俺は、娘の幸せを願うことはなくなっていた。 娘は俺のもとで幸せになるはずだった。人の血の通っていないような、あの憎き妻のもとでは幸せなんて手にすることはできないはずだった。それがどうして、俺だけが不幸に苛まれる。なぜ俺は今、六畳一間の汚い箱の中で、娘のよこした手紙を読んでいる。 「ふざけるな」 震えた声が、どこか遠くから聞こえた気がした。手中の便箋はいつのまにか、火葬した後の人骨のようにバラバラになって、床の上に散乱していた。 俺はその日以来、娘の手紙を読んでいない。 照葉樹林を車で走り抜けると、すぐに海が見えた。大きく開けた太平洋の上にたたずむ雲の隙間から、太陽の光が差し込んでいる。神々しく、荘厳なその景色に俺はなにを感じるわけでもなかった。 砂浜から少し離れた、適当な砂利道に車を停める。封筒が詰められた袋と、ライターとペットボトルの入った鞄を手にして、海に向かって歩き出した。テトラポットの合間を縫うようにして波打ち際まで行き、空のペットボトルに海水を詰めた。 ばさり、と袋から手紙を砂浜に落として、飛ばされないように一箇所に固めた。 すぐにライターに火をつけ、手紙を燃やす。可燃材そのものである手紙はすぐにその炎を大きくして、自らの体を紅く、そして徐々に黒く染めていった。 俺はそれをじっと眺めていた。もう何度この光景を見てきたかわからない。書いたすべての手紙が、一読もされることなく燃やされていると知ったら、娘はどう思うだろうか。ただそんなことを、俺は考える。答えは出ない。出るはずもない。 カラフルな封筒と便箋のすべての色が黒に統一されたのを見計らって、俺はペットボトルに入った海水を上からかけ、鎮火した。 来月もまた、郵便受けがいっぱいになれば同じ作業をしなければならない。気の滅入った心持ちで、俺はまた車を自宅まで走らせた。 アパートの駐車場に車を停め、部屋に戻ろうと足を踏み出したその時。俺の部屋へ行くための階段を遮るようにして停められた、一台の赤いカブが目に留まった。郵便配達専用のそれに違いなかった。 ざり、と俺はアスファルト上の足を少し後ろに動かして、その場から離れようとする。だが、時はすでに遅かった。 「あ、山手さん」 黒いサイドバッグを提げた、名の知らない郵便配達員の若い女が向こうからやってきて、こちらに気づいた。俺はどうも、とひとこと言うだけで、そそくさとその場を後にしようとした。しかし配達員は俺を拘束するかのように言葉を放り投げてくる。 「やっと受け取られたんですね、手紙」 配達員の女は、まるで俺がそのことについて触れられたくないことをわかっているかのようにそう言った。適切な答えが出てこない俺は、ああとかうんとか言って、お茶を濁すしかない。 「ちゃんと読んだ方がいいと思いますよ。あれ、娘さんからの手紙でしょう?」 こちらの事情もお構い無しに、ずけずけと言うこの女に俺は苛立っていた。これ以上、何か言おうものなら郵便局に苦情を入れてやってもいいとさえ思えた。 「あの」 俺はあくまで、落ち着き払った口調で言う。自分より一回りも若い輩に対して、いい歳をした男が怒鳴り散らすようなことは、あってはならない。 「帰ってもらえませんか」 それは、心の底から出た純粋な願いだった。だが。 「嫌です」 女はそう言って、ふんと鼻を鳴らした。堂々とした姿勢に、目はまっすぐに俺を捉えている。俺はいよいよ我慢できなくなり、つい声を荒げる。 「なんで……!」 語気が強まるのがわかる。一度深呼吸をし、目を瞑る。俺は自分が落ち着いたことを確認してから、配達員の眼差しを自らの目で捉える。そして、言う。 「あなたは俺に、何を望んでいるんですか?」 「手紙、読んであげてくださいよ」 「読んでますよ」 「嘘」 配達員の女はそう言って、くすりと笑った。ほとんど嘲笑のようなその笑みに、俺は諦念じみたものを感じさせられる。一月も手紙をポストに溜め込んでいるのだ。そんな男が手紙を全て読んでいないことなど、火を見るより明らかだった。 「わかりました」 俺は配達員の横を通り、郵便受けに向かって歩き出した。そしてその中を確認すると、先刻彼女が入れたのであろう山吹色の封筒が、たしかにそこに収まっていた。 「では今からこれをここで黙読します。それで満足ですか?」 配達員は満足そうににこりと笑って、 「ええ」 と言い、停めていたカブに背を預けた。 俺はため息をつく。読みたくもない手紙を読まされる、しかも、名も知らない郵便配達員の目の前で。俺は今すぐにでも部屋に走り込みたかったが、一度嘘をついた女を前に、再度嘘をつく気にはならなかった。娘の手紙は容赦なく灰にするくせに、こういう時だけは罪悪感は働くらしい。 俺は封筒を破り、便箋を取り出した。 およそ五年ぶりに読む娘からの手紙だった。その字はかつての娘のそれより形が整っていて、一見した限り、密度も濃くなっているように感じる。 「お父さんへ、元気ですか?」 から始まった手紙は、冒頭のその言葉同様、内容もまた他愛のないものだった。友達のりっかちゃんの話が面白かったとか、そろそろ体育祭が開催されるとか、そんなことがつらつらと、やはり日記のように書かれているだけだった。文字や文体こそ変われど、内容は五年前のそれと変わっていなかった。それが可笑しくて俺は、少しだけ笑った。 ずずり。蛇がとぐろを解くような、そんな音が聞こえた気がする。懐かしい感覚だった。懐かしくて、不快で、心臓を締め付けられるような、そんな感覚。あの名前のない感情がまた、俺の中を這っている。気分が悪くなって、俺はほとんど文字の表面をなぞるようにして、さっさと手紙を読み終えようとした。どうせろくなことは書いていないからと、俺は意味を咀嚼することなく言葉を取り込み続けた。気づくとそこには、最後の一文がただ横たわっているだけだった。 変わっていた箇所を、一つだけ見つけた。手紙を締めくくる一文は、かつては一度も見なかった言葉で紡がれていた。 「お返事、待ってます。恵子より」 蝉の声が聞こえた。夏はもう終わるというのに、その蝉はお構い無しに、孤独に鳴いている。優しく靡いていただけだった風が、急にその勢いを増した。配達員は、俺が便箋を封筒に戻すのを確認してから、帽子を手で押さえて、 「娘さん、何って?」 と、相も変わらず不躾な質問を俺に投げかけた。もはや無視する気にもならなかったが、俺はそれについてどう説明していいかわからなかった。なにせ中身はほとんどただの日記で、わざわざ手紙として書くような内容でもなかったからだ。俺は、一番印象に残ったフレーズをそのまま言うしかなかった。 「お返事待ってます、って」 「へえ!」 女は驚いたようにそう言うが、その表情はわざとらしくて仕方がない。返事を待つだなんて言葉は、決して珍しくもなんともない。 「でも、返事は書かないんでしょう?」 「えっ」 女がそう言い、俺は間抜けな声を上げてしまう。図星を突かれたからというのも理由の一つではあるが、何よりも、この生意気な配達員が返事を書くことを強要してこないことに驚いたのだ。彼女はくすくすと笑いながら、続ける。 「だって、あなたが本当に手紙を読みたくないなら返事を書けばいいだけじゃないですか。『もう手紙を寄越さないでください』って」 意地の悪い笑みを浮かべた女を、俺はどんな顔で見つめていたのだろう。 「あなたがそれをできないのは結局」 言葉の途中でカブから背を離し、彼女はこちらに身を寄せる。俺の胸ほどもない小柄な身長の女は、上目遣いのその笑みを不気味なほどに歪ませ、俺を動けなくした。 「娘との関係を断ちたくないからでしょう?」 「何を、言って」 「ふふふ」 くるり、と女は身を翻す。提げたバッグが大きく弧を描いた。俺は背中に嫌な汗が浮くのを感じた。 「冗談です」 彼女は、先ほどとは打って変わった若々しい笑みを残し、さっさとカブに乗り込んで去ってしまった。俺はただ呆然と、手紙を片手にその後ろ姿を眺めていた。 扉を閉めてからどれほどの時間が経ったかはわからないが、俺は靴も脱がずにずっと玄関に立ち尽くしていた。 「あなたは娘との関係を断ちたくないだけ」 郵便配達員の言葉が頭の中で巡っている。なぜ俺はあのとき、そんなはずはない、と即答できなかったのだろうか。俺は本当に、娘との関係が断たれることを恐れているのだろうか。いや、そんなことはありえない。ありえない、はずなのに。 だがもし仮に、万に一つもありえないとしても、本当にそうなのだとすれば。俺はもう何年も娘を拘束しているということになる。 否、娘を拘束し続けていることは間違いないのだ。娘は手紙の最後にこう言った。 「お返事、待ってます。」 と。きっと娘は俺から返事が返ってこない限り、手紙を投函することをやめはしないだろう。では、俺はどうするのだろうか。このままずっと、娘の手紙を灰にし続けるのだろうか。あの非人道的でただ魂を摩耗させ続けるだけのような作業を、何年も何年も繰り返していくのだろうか。 ぎり、と奥歯を噛み締め、俺はすぐに靴を脱いだ。小さな家の中を駆け、テレビ台の引き出しから手のつけられていない便箋の束を乱暴に取り出す。ちゃぶ台の上にそれを広げ、足元に落ちていたボールペンを手に取った。 「……うっ」 吐き気を催す。俺は嫌な汗をかいていた。また、だ。あの感情が、今度は容赦なく俺に噛み付いてきた。俺は震える手で、ペンを走らせる。急いで書く字はきれいだなんて言えるはずもないが、そんなことに構っている暇はなかった。この手紙を書き終えない限り、俺はあの配達員の女の言葉に囚われ続けることになる。 俺は、考えた。一人の出来損ないの父親として、娘のことを考えた。娘はもう、俺のことを忘れてしまうべきだ。ただ血が繋がっているだけの、赤の他人に囚われるべきじゃない。俺が父親として娘を幸せにしてやれる最後のチャンスがあるとすれば、もうここしかない。娘は俺を忘れて、はじめて幸せになれることを、俺は知っている。 突然、手元の字が滲んだ。きっと、俺の汗が滴り落ちたに違いない。そうでないとおかしい。 「くそっ」 俺はそう言って新しい便箋を取り出すが、発した声は震えていた。 「なんで……俺は……!」 配達員の声が聞こえる。配達員の歪んだ笑みがフラッシュバックされる。それらをかき消そうとすればするほど、便箋は濡れていく一方だった。 手紙を書き終えたのは、便箋が最後の一枚になってからだった。たった二文だけの、時候の挨拶なんてあるはずもない醜悪な手紙を持って俺は、再び車を走らせる。数年来足を踏み入れることのなかった町へ向かう。かつては「ただいま」の声とともに扉をあけていたはずの我が家を目指す。消えてしまった、俺の帰る場所へ。 今日中にこの手紙を、娘に読ませる必要があった。娘が今日の分の手紙を書き終える前に。俺が燃やしてしまう手紙を、一枚でも少なくするために。 およそ一時間かけて着いたかつての我が家のポストに、俺は封筒にすら入れていないあの粗末な手紙を投函し、妻に見つからないよう急いでその場を後にした。 不思議と、俺の心は澄んでいた。はじめて父親らしいことをしたと、心からそう思えた。俺はひたすら、先ほど書いた手紙の内容を反芻していた。 「いつも手紙をありがとう。だけど、これからはもう送ってこなくていいです。父より」 また、終電に揺られていた。先週、残業を引き受けてくれたからと、三船が俺の業務を引き受けてくれようとしたが、俺はそれを断った。特に理由は無かった。 ただ、自宅を目指して寝静まった真夜中の住宅街を歩く俺の心は、決して鬱屈としたものではなかった。日曜日だった昨日、娘からの手紙は郵便受けになかった。 はじめて俺の言葉が娘に届いたことが嬉しかった。もう、いっぱいになった郵便受けを見なくていいことが、そしてあの毒を持った大蛇のような感情に恐れなくていいことが、嬉しかった。 俺はこの日、本当に独りになったのだ。 娘は、しかしそれを許さなかった。 「なんで……」 アパートに帰り着き、郵便受けを確認すると、そこには見慣れてしまった手紙が一通収まっていた。淡い桃色の封筒を手に取り、破り、中身を取り出す。そこには、二日前に俺が書いた手紙と同じように、大きな文字でたった二文が書かれているだけだった。 「ごめんなさい。でも私いま、反抗期ですから。恵子より」 もう、あの感情は俺を襲ってはこなかった。じわりじわりと、手紙の字が滲んでいく。 次の日、俺は定時で帰った。ただし真っ直ぐに家には向かわなかった。文房具屋に寄り、便箋と封筒を買ってから俺は帰路に就いた。
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