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 ものの本によると、今私があなたに対してかなり個人的で特別な感情を抱いている、このようなときには、その相手に自分にはないものを求めているそうです。そうだとすると、あなたが持っているものはなんなのだろう。目の前にいる特に何かありそうでもない人見て、考えることがあります。一方、自分にないものについては、多すぎて連想するのも嫌になります。私は自分のことが好きではないのです。  でも、私が自分を嫌うほど、みんなは私のことを嫌いなようではありません。多分それは、私は常に自分よりも他人のことを優先しているからでしょう。それは立派なことでも美しいことでもなく、生き易さを求めるうちに、自然とそうなったまでです。特に人目を引く個性があるわけではなく、才能があるわけでもない私に、他にどうすることができたでしょう。中途半端な自己主張をして陰口をたたかれるくらいなら、「私はいいんです」と一歩引いてはいはい言っている方が風当たりが少ない。そんな可哀想な私も、まあ仕方がない、人生長いのだからいつか自分らしく生きられる日がくるのかもしれない、と淡い期待を抱いていたのでしょうか。そうして待っているうちに、自分がなくなってしまう日がくるとしたら、それはそれで仕方のないことだと諦めていたのかもしれませんが。  中学校時代の友人に、「私はあんたみたいに勉強しかできない人とは違うんだから」と言われたことがありました。あの頃私は、彼女のことを「相棒」と呼んでいました。絵に書いたような優等生である私にこんなことを言ってのけるのは、相棒だけでした。勉強がよくでき学級委員などにもよく奉り挙げられる、一見優等生の私が、実はそれくらいしか取り柄がなくて悩んでいたことなど、ほかの誰にも想像できないことでした。しかし彼女は、一目みるなりそのことを見破ったのでした。それはまるで「あなたオーラを読んでいるんじゃない?」とでも言いたくなるほど唐突でしたが、彼女は特にそういう能力があるわけではなく、「なんでわかったの?」と後で尋ねると、「なんか窮屈そうだし」とひとこと言っただけでした。私が自分自身ではない何かを演じ続けることによって、毎日やっとのこと生き延びていることに気づいているのは彼女だけでした。私ににとって勉強を頑張ることは、まるでいかがわしい宗教にすがるようなことでした。将来のことを考えてのことではなく、ましてや勉強が好きだったわけではありません。世間体を取繕うためですらありませんでした。ただなにかにすがっていないと、生きていけなかっただけなのです。  好き嫌いが激しい私は、振りは別として、本気で必要以上に人と仲良くすることはないのです。挨拶くらいはしますが、気の合わない人とはなるべく口をきかないように日々努めます。研究室のお茶部屋などで嫌な人に会ってしまったら「あ、先生と話し合いの時間が……」などと適当なうそをついてさっさと抜け出してしまうような人間です。そうやって注意しているのにも関わらず、いつしか疲れ果て、四年生に上がる前の春休みは、丸まるひと月アパートに引きこもっていたのでした。  そんな私ですから、恋愛感情ともなると、話はさらにややこしくなるのです。神経が必要以上にか細い私には、あまりに誰かに夢中になってしまうと「気の利いた話をしなくては、できるだけ楽しく過ごさなくては」と気負ってしまう、もしくは「後で一緒にいた時のことを思い出して、一人取り残されたような気になって途方に暮れてしまうのではないか」と心配になり、この人といるのは正しいことなのだろうか? とつい疑問に思ってしまうのです。「なにそれ?」とあなたは言うのでしょうか。あなたと一緒にいたとき、しばし私がこういった問題で苦悩していたことなど、あなたは知る由もないでしょうね。それとも、「だったらそんなに好きにならなければいいのに」と、他人事のように笑って片付けてしまうのでしょうか。しかし、「あの人ちょっといいな」「なんかちょっと楽しかった」くらいでは、一緒にいてもただの時間の浪費にしか思えない。私は「中間」を見つけることができない、不器用な人間なのです。完璧なものを求めすぎている、といえば聞こえがいいですが、単にわがままなだけともいるでしょう。 a53ed02b-6016-4d99-b826-54d6931728f0
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