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あなたは大学の研究室の同期で、しかし、一年間休学していたらしく、入学年度は一年早いのでした。
休学していたとはいっても、病んでいたわけではなく、単位を落としたわけでもなく、何をしていたかといえば、バイトで貯めたお金で海外へ行ったり日本国内を旅していたとのこと。しかも、その後「やってらんねー」と厭世的になるでもなく、気取るでもなく、平均的な日本の学生としての日常生活に復帰しているスマートな人でした。しかし、同級生でありながら先輩でもあるという、複雑な関係であることは確かです。一般の人にとってはそれくらいは複雑でもなんでもないでしょうが、神経のか細い私にとっては、それだけで混乱してしまいます。敬語を使うべきなのか、どの程度先輩扱いするべきなのか、などから始まり、何の気なしに取り出した話題があなたの気に障って突然怒り出したりしないかなどと心配しては、なんでこんな人が身近な人になってしまったのだろうと、あなたの気配を感じるたびに身構えてしまうのでした。
しかし、あなたはいつも穏やかな笑みを浮かべて「俺は本当は先輩なんだぞ」という態度を取るでもなく、「気にせず同期扱いしてくれ」とも言わず、接する人によって、ごく自然に接し方を変えられるような人でした。そんなあなたといるうちに、みんなはそれぞれ、やや先輩扱いしたり、同期と同じ扱いしたり、時と場合によって使い分けてみたり、そうしてちょうどよい距離でもって接するようになるのです。あなたのそういう美点に気づいたとき、なんだかずるいと思いました。いい人ぶりやがって、でもそれがまったくもって普通に見えるだなんて。あなたは特に必要以上に人から好かれたいようにも見えないし、よく見るとけっこうずうずうしいことも言っているのに、他人と衝突する気配がまるでないのです。いつも人に気を使いまくっては、自分の思っていることを押さえ込み、たまに言ってみては失敗する、そんな私とは大違いでした。
話を少し戻して、あなたと出会う直前の私のことを思い出してみます。さっきも言った通り、そのころ私はひきこもりをしていました。もともと気が弱い性質ではありましたが、あの頃は急激に人との距離のとり方がわからなくなっていたときでだったのです。
「白井さんって馬鹿なんじゃないの」
そう言ってみんなが笑う。そんなの日常的な、あまりにありふれすぎた出来事です。その場で一緒に笑ってはみたものの、その夜突然眠れなくなります。私が馬鹿なら、あんたたちなんて大馬鹿者よ! と心の中で叫んでみます。しかしその叫びは「王様の耳はロバの耳」ですらなく、自分に跳ね返ってくるのです。
「君、歩き方が変わってるね」「声が低すぎるよね」「髪型が猿みたい」
そういった瑣末な出来事を、簡潔に笑って済ませることができたらどんなにいいでしょう。子供がいちいち気にするならわかりますが、いい加減二十歳を過ぎてもそんな習慣が抜けないだなんて、どういうことでしょう。いつの間にか私は、自分はノイローゼなのではないか、と思うようになりました。簡単な算数の計算すらしにくくなっているように思いました。そこで私が選んだのは、悩み多き学生のために学校側がプロの臨床心理士を雇って運営している「学生のための相談室」ではなく、友達の友達が話していた、よく当たるらしい手相占いの店に駆け込んだのでした。
「あなた、けっこうくよくよするタイプじゃありませんか? 根に持つというか」
私がこっくりとうなずくと、
「逆に言うと、粘り強いともいえるんですよね。細かいことに気配りできるともいえる……、でも、今はそういうのが、裏目に出やすい時期なんだと思うわ」
手相占いは、それなりに当たっているのでした。しかし今後どうしていいかということになると、「あまり他人のことを気にしすぎないように」「明るくいけば大丈夫」「運動をして心を解き放ちなさい」など、月並みなことばかり。それで満足できなかった私は、市の図書館で手相占いの本を何冊か借りると、自力での鑑定を試みました。しかし、その結果さらに心配が増え、あれもこれもと気になり、ドツボにはまっていくのでした。
そんなこともあって引きこもってはいたものの、研究室くらい行かないとさすがにやばいだろうと思い、三月三十一日に、リハビリのつもりでお茶部屋へ行きました。四月一日から行くことにして失敗したら、もうやり直しができないと思ってのことでした。
そこには見知った人も数人いましたが、なんとなくそんな人たちと話していると、突然あなたが現れたのです。「誰だ、この人は」と思ってびっくり仰天し、私はあいさつすらできませんでした。あなたもあなたで、私にあえて自己紹介をしようとはしませんでした。あなたが去った後、ほかの人に今の人は誰だったのだと尋ねました。素性がわかると、ややっこしい人が現れたとだけ思ったのでした。それがあなたとの出会いでした。
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