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   あなたと初めて言葉を交わしたのはいつだったでしょうか。  周囲の出来事に特に興味のなかった私は、みんながあなたのことを「ダイちゃん」と呼んでいることから、十中八九名前がダイスケであろうことは予想がつきましたが、あなたの苗字は特に知りませんでした。なので、机に向かって何か作業をしているあなたを呼び止めるために、私は「ダイスケ君」と言わざるを得ませんでした。男性を名前で呼ぶなんて、随分と久し振りのことで、それだけで緊張してしまいました。 「はい」  一度も私と話したことがなかったからでしょうか、あなたはよそよそしい態度でそう言いました。 「あの、水道水にさびが混じっているみたいなんだけど、大丈夫かな…」  あなたは私をじっと見ると、次の瞬間、 「大丈夫だよ」  と言いました。 「でも、みんな病気にならないかな……」 「よくあることだよ。朝はいつもそうなんだよ。少し流してれば透明になるから」  私がまだ不安そうな顔をしていることを見てとったのか、あなたは、 「なるようになるさ」  と言って、有無を言わさぬ豪快な笑みを浮かべました。そうして、何事もなかったかのように自分の作業に没頭するのでした。  私はあっけにとられていました。しかし、不思議と怒りは沸いてこなかったのです。普段、こんな対応をされたら「失礼なやつだ」と一時間くらい頭に上った血が下がらなかったでしょう。しかしそのときは、何故かそのことが、本当にとるにたらないことに思われたのです。それは初めて、こいつはただ者ではないかもと思った瞬間でした。  そうして、いつもおどおどしていたはずの私は、いつのまにかあなたとごく普通に接するようになっていました。お茶部屋でインスタントコーヒーを淹れ、あなたと他愛のない話で盛り上がりました。自分の笑い声をきいて、「あ、笑ってる」と思ったときには、愕然としました。今まで、「あまり楽しそうにしすぎると、気があるのではないかと誤解されてしまう」あるいは「想いを寄せていることがばれてしまう」などと気になり、男性の前で我を忘れて笑う、などということはなかったのです。どうしたことだろう。何かがおかしい。そんな私の心が揺さぶられる様などまるで知らずに、あなたは少し濃い目のお茶を淹れてくれるのでした。  ゴールデンウィークが終わると、長いズボンを穿くのも億劫になってきます。スカートを穿くのが昔から好きではないので、私はしぶしぶハーフパンツを穿いていました。しかしある日、ソファーで本を読んでいたあなたが、部屋に入ってきた私の足に数秒目を留め、それから視線をまた本に戻したことに気づいたのです。ひきこもり期間中、食が細くなり、五キロほどやせていました。そのせいで、もともとあるのかないのかわからなかったような胸元はますます目立たなくなっていたのですが、しかし足だけは、贅肉が落ちて程よく引き締まったのでしょう。ふくらはぎは、あまりぱっとしない私の中で、多少なりとも他人の目を引くものなのかもしれません。それからなんとなくスカートを穿くことが多くなりました。そんな私を見て「最近どうしたの。急に女の子っぽくなっちゃって」などと古い知り合いから言われるようになりました。 「好きな人でもできたの?」 「別に」  あなたは私にとってなんなのでしょう。どちらかといえば嫌いではありませんが、特に好きだと思ったことはありません。私たちは、毎日研究室で顔を合わせていて、まるで共同生活でもしているかのようで、大げさに言えば疑似家族のようなものです。しかし、私がスカートを穿くようになったのは、明らかにあなたを意識してのことです。考えても仕方ないので、気晴らしに新しいスカートでも買いに行くことにするのでした。  またある日、研究室の数人で学食へ行ったときのことでした。 「昨日研究室に、可愛い女の子来てただろう。あれ、部活の後輩なんだよ」  そのときいたのは、大学院生の先輩と、私とあなたでした。 「大輔を紹介しようかと思ってたんだけど、『あの人、イマイチですよね』って言われちゃってさ」  それを聞いた瞬間に、怒りがこみ上げてきました。あの、ちょっと瘦せてて色白で、目がぱっちりしているだけで大して可愛くもない、若いだけがとりえの平凡な女に、果たしてあなたに「イマイチ」という判断を下す権利などあるのでしょうか。  しかし当の本人は特に表情も変えず、突然、 「白井さんはどう思う? やっぱ僕ってイマイチなのかな」  などと言い出す始末です。急に意見を求められるなどと思っていなかったので、心底焦ります。 「イマイチって、なんか地名っぽいよね。ははは」  私のあまりに的の外れたかつ頭の悪いコメントに、二人は言葉を失いました。そうして、いつの間にか私の全く知らないスポーツか何かのことを二人で話し始めていました。  なぜあなたは私にあんなことを尋ねたのだろう。もしかして私に気があるのだろうか、そんなことを考えていると、先輩が突然あんな話題を出したことすら、さり気なく私の反応を伺おうとしたのではないか、という気さえしてきます。それでは、まともな答えが返せないほどうろたえてしまったことを二人はどう解釈しているのでしょう。そんなことを考えてぼーっとしていたせいか、前から来る自転車にぶつかりそうになりました。 c0c62b6e-ead1-4411-946e-1b32127572e0
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