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辺りはもうすっかり薄暗くなっていた。
「日が暮れるのが早くなってきたな……」
いつもなら晴彦さんが今帰りかい?と言って声をかけてきてくれて一緒に帰っていた時間だ。
今思えば、私が帰る時間に合わせてくれていたんだろう……
どこもそうなのだがこの辺も治安が悪い。
ついこの間も近所で強盗殺人事件がおきたばかりだ。
晴彦さん…私のことを何気に守ってくれていたんだな。
隣に誰もいない夕暮れ時の帰り道が、とても長く感じた……
「今にも泣きそうな面して歩くな。」
……えっ……
なんで…いるんだろう……?
「公家貴族のご令嬢が、こんな時間に人力車も馬車も使わずに一人で歩いているとはどういうことだ?」
木にもたれながら、私を待ち構えるように立っていたのはあの男だった。
「鮎川さんこそなんで?」
「まさか毎日歩いて学校を行き来してるんじゃないだろうな?」
「まあ…足腰は丈夫な方なんで……」
「そんなことを言ってるんじゃない!!」
大声で一喝されたもんだから体が縮こまってしまった。
「おまえの家は嫁入り前の娘を傷ものにする気か?!」
そんなことを怒りながら私に言われても……
私は産まれた時から櫻子姉様と比べられていた。
私だって子供の頃はそんなに不器用ではなかったと思う。
でもなにをしても完璧な櫻子姉様に届くわけがなく……
お父様から毎日のように厳しく叱責されるもんだから、段々とやる気が失せていった。
家の経済状況が厳しくなってくると、櫻子姉様と私に対する態度は露骨なまでに差が開いた。
女学校を優秀な成績で卒業した櫻子姉様にはその後も師範を家に呼んで花嫁修業を続けさせた。
女学校に通う私には人力車に使う金さえも惜しんで、櫻子姉様に残りの私財をつぎ込んだのだ。
家の存続をかけたその期待を、一心に受けなければならなかった櫻子姉様も辛かったと思う。
そして私は、お父様やお母様にとってはまるで空気のような存在になった─────
「お父様とお母様が可愛いのは、今も昔も、櫻子姉様だけなのです……」
お母様は未だに、櫻子姉様の部屋で泣き崩れている。
お父様は卒業など待たずにすぐに嫁にいけと、毎晩のように私を強く急かしてくる。
きっと、婚約破棄されることを恐れているのだろう。
櫻子姉様ではなく、不出来な私だから不安なのだ。
櫻子姉様だけが私のことをわかってくれていた。
あの家で安らげる場所は櫻子姉様だけだったのに……
「……あんな家、帰りたくないな……」
櫻子姉様がいなくなってから一週間しか過ぎていないのに、私の心は弱りきっていた。
「なるほどな。分かった。」
男は私の腕を掴むと、強引に引っ張って歩き出した。
私の家とは逆方向だ。
どこに行くつもりなのかと聞こうとしたら、開けた道に車が止まってあってビックリした。
車なんて街中でもそう走っているものではない。所有しているのなんて余程の名士だ。
運転手がこちらに気付くと後ろの席のドアを開けた。
「これって鮎川さんの車ですか?!」
「だったらなんだ?」
凄い…車に乗れるだなんて夢みたいだ。
人力車とはまるで違うその乗り心地に、さっきまで沈みまくっていた気持ちが嘘のようにワクワクしてきた。
「鮎川さんっ今からどこに行くのですか?」
「連れて帰る。」
「連れて帰るって…なにをですか?」
「おまえを俺の家に連れて行く。そんな家にはもう戻らなくて良い。」
知らなかった…人間て余りにも予想外のことを言われると頭が真っ白になるんだ。
思考が動き出すまで瞬きをすることさえ忘れてしまった。
それって…一緒に住むってこと?
まだ結婚もしてないのに?
本気の本気で言ってるのっ?!
「おまえの家には俺から連絡しておく。文句は言わせない。学校へは俺の家から車で送り迎えさせる。わかったな?」
とんでもないことを言われているのになにも言い返せない。
だってこの男の周りの空気が物凄い威圧感を放っている……
なにを言っても跳ね返されそうだ……
それになんだろう……
そんなに嫌じゃない…むしろちょっと………
泣きそうになりながら歩いていたあの道で、この男の顔を見た時、私はホッとしたんだ……
こんな口の悪い超失礼な男、大っ嫌いなはずなのに。
でも……
私は一人じゃないって思えたんだ─────
「あのっ……」
「なんだ?」
「貴光さんとお呼びしてもいいですか?」
男が驚いた顔で私のことを見た。
狭い車内でじろじろと見てくるもんだから頬が赤くなってしまった。
男の人を下の名前で呼ぶのは恥ずかしいけれど、ちょっとでもこの距離を縮めたい……
「ヒヨコの好きにしろ。」
貴光さんは素っ気なくそう言うと私から視線を外し、外の風景を眺めた。
私のことは相変わらずヒヨコと呼ぶんだな……
貴光さんの家は、眼下に港を見渡せる高台に建っていた。
素敵…洋館だ───────
煉瓦造りの壁に目が覚めるような鮮やかな緑の屋根。
屋根の瓦は魚の鱗のような丸い形をしていた。
窓は白く、細かな装飾がされていてそれ一つで芸術品のようだった。
屋根の上を見ると、鳥の形をした人形が夜風に吹かれてクルクルと揺れていた。
広い庭もまるで異国の地のようだ。見たことのない綺麗な花が沢山咲いている……
「ヒヨコ、なにボーっと突っ立ってる。こっちだ。」
「あの、貴光さん。ここには御家族と住んでいるんですよね?」
「ああ。母親と住んでいる。」
こんな時間にいきなり私なんかがお邪魔していいのだろうか……
見合いの席で露骨に私を嫌がっていた姿を思い出した。
帰れって塩を撒かれそうだ……
色ガラスの付いた重厚な扉を開けると、明るくて開放的な玄関ホールがあった。
左右に別れた両階段から、真っ白なフリルエプロン姿の異国の女性が降りてきた。
あれ…この女性って、今日会った貴婦人?
貴婦人も私に気付いて驚いた表情を見せた。
「貴光さん、私っ今日学校の帰りにこの方のイヤリングを拾って上げて……」
「知っている。母があんな時間から女の子が一人で帰るだなんて心配だと言うから、車で様子を見に行ったんだ。おまえ、英語が話せたんだな。」
「ええ…まあ。」
そうだったんだ。
こんな偶然てあるんだ……
……あれ?今…母って言わなかった?
「見合いの席にいたのは父の本妻だ。俺は妾の子だ。」
えっ、ええ───────っ!!
じゃあこの異国の貴婦人が貴光さんの本当のお母様なの?!
てことは貴光さんは半分異国の血が混じっているんだ……
どうりで最初に会った時からどこか異国の雰囲気が漂っているなと思った!
私があれこれと驚いている間に、貴光さんは私が今日からここに住むことになった経緯を英語で説明していた。
貴婦人の顔がパアッと明るく輝いた。
「よこそヒヨコ!わたしことは、ルーシーよんでくらさいっ!」
ヒヨコじゃなくてヒナコですと言うより先に、結構な力で抱きしめられてしまった。
ボリューム満点の胸に埋まって苦しい……
「母は日本語が不慣れだ。英語で話し相手になってくれたら助かる。」
「Think me to be a friend.」
そう言ってルーシーさんは可愛くウインクをした。
友達だと思ってって……
私が思っていた姑像とは余りにもかけ離れたルーシーさんに少し戸惑いつつも、これから始まるここでの新生活に心が踊った。
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