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31.
その日は仕事を早めに切り上げ、麻野が迎えに来る前に梢の携帯電話の契約を変更するために携帯電話ショップに二人で出かけた。
「梢。……もし、彼が来たら、どうする?」
「もう、どうもしない。大丈夫」
力強い言葉とは裏腹に不安げな表情を見せる。
梢は彼に自分の居場所を伝えてしまったのだろう。
まだ少し迷いはあるのかもしれない、と佐奈は思った。
「しばらくいるんでしょう?」
駅前の携帯ショップを出て、さくら園へ戻る。
もう日は落ちていて、少し風が冷たい。
二人ともパーカのポケットに手を入れて、並んで歩いていた。
「うん、しばらくさくら園で手伝いしながら、住まわせてもらえるって」
「そっか。良かったね」
「うん。こんなでも、いいのかもしれないなって。さっきから考えてた」
「うん?」
「なんかさ、中学高校の頃と変わらないじゃん、さくら園にいたら。そういうのってダメじゃないかなって思ってたけど。変わらなきゃって」
「……うん」
佐奈も身に覚えのある感覚だった。
さくら園の職員は皆、子どもたちを愛してくれていた。
だけどどうしてかその小さな世界から早く抜け出したいという気持ちも強かったことは否めない。
そのために高校からは奨学金制度を利用して寮での一人暮らしをしていたのだが、卒業にあたって少しでも恩返しになればと思い、またさくら園に戻って仕事をするようになったのだった。
「でもさ、少しずつでもいいのかなって。さっき園長先生やシスターとしゃべってて、思ったりしてた」
「……そっか」
少しずつ。
それでもいいのかもしれない。
少しずつ、自分の気持ちを上手く表わすことができたら。
梢と話をしながら、ふと想い浮かぶのは麻野のことだった。
「なんかあったら……彼が来たりしたら。それでも、守ってくれるって言ってくれてさ、園長先生もシスターも。あんなおばあちゃんのくせに」
と、笑う。
「おばあちゃんは失礼でしょ」
と言いながらも、佐奈もつられて笑ってしまった。
「園長先生なんて、薙刀? 長い棒振り回すやつ、できるらしいよ。知ってた?」
「えっ、うそ、知らないよー、そんな特技があったなんて」
佐奈が目を丸くすると、梢は面白そうに笑う。
「だよねー? それで追い払ってくれるんだって」
「それは心強いね」
「ねー。……佐奈もさ」
薄暗い玄関先でふと立ち止まった。
その梢の横顔は俯き加減ではあるが、どこか吹っ切れたような清々しい表情に見えた。
「ん?」
佐奈の返事に、梢が佐奈の顔を見る。
視線が合わさると、梢は穏やかな微笑みを浮かべた。
「自分の気持ち、……佐奈はしっかりしてるんだから、ほんとは」
「……うん」
梢の言う通りだ、と佐奈は思った。
何があったとしても、もう自分の想いは決まっている。
「しっかり、しときなよ。あたし頭悪くて上手く言えないけど。大丈夫だよ」
と、佐奈の背中をとんとんと叩いた。
「……ありがと、梢」
「さ、あたしごはんの支度手伝うことになってるから、中入るね」
「うん、わたしはちょっと礼拝堂にいる」
そう手を振って別れた。
小さなステンドグラスがはめ込まれた扉を押し開けて、礼拝堂の灯りをつける。
淡い灯りの中、中央奥に聖母像が浮かび上がって見えた。
このさくら園の子どもたちを見守ってくれている、そう園長に教わってきた。
ふう、と佐奈は小さくため息をついて、中央の通路から一番後ろのベンチの端に腰を下ろした。
間もなく麻野が迎えに来るだろう。
朝の話は他愛のない身の上話のつもりだったのかもしれない。
……だけど。
好きだと言っても上手く伝わらない。
自分のどこか曖昧な態度が、麻野を不安にさせているのなら。
胸の奥がぎゅっと苦しくなる。
誰も傷つけたくないのに。
どうしたら傷つけずにいられるのか、佐奈にはわからなかった。
「……佐奈?」
扉が開く微かな音とともに、麻野の声が聞こえた。
「先生……、早かったですね」
振り向くと、そっと扉を閉めてこちらに微笑みかける麻野がいる。
「体調は、もう大丈夫?」
「はい、もう平気です。すみません、心配かけてしまって」
「……座ってもいい?」
「あ、はい」
と、佐奈は通路側に一人分のスペースを空け、麻野はそこに腰を下ろした。
「……ねえ、佐奈」
「はい」
「今日ずっと、君のことを考えてた」
「えっ……と、はい」
返事に困ってそんなふうに答えると、麻野は小さく笑った。
「小さくてかわいくて、真面目で、自分だっていっぱいいっぱいのくせに人の心配ばかりして。そういうところにすごく惹かれて」
そんなふうに言われると、佐奈の頬はふわっと紅潮する。
「僕は君を愛しているけど。……君も好きだって言ってくれるけど」
ゆっくりと、言葉を選ぶように話す麻野の横顔を見上げた。
麻野は少し俯き気味に、佐奈の顔は見なかった。
「前にも言ったように、僕は佐奈を幸せにはできないから。ちょっと僕の気持ちを押しつけすぎちゃったなって思ってる」
「あ……あの、それは……」
胸の奥がざわつく。
聞きたくないような、でも曖昧にしてはいけないような。
「うん、少し距離をおいてもいいのかもしれないって……そんなふうに考えてた」
「え……?」
現実になって欲しくはなかった予感だった。
ほんの少しだった考え方のズレが大きな溝になっていく。
「それは……わたしが、悪いのですか?」
「違うよ。そうじゃない」
麻野は佐奈を見ないまま、首を横に振る。
「でも、わたしがもっと……もっと、自分の気持ちを表せることができてたら……」
「ごめんね、佐奈。そうじゃない。だって僕は君を幸せにできない。君に負担をかけるくらいなら、今までより少し離れた方がいいかもしれないって」
「そんなこと……そんなこと、ないです」
「……いつも、そうなんだ。ある時突然、どうしたらいいのかわからなくなる」
麻野が小さくため息をついた。
「君を愛しているけど、……今までの恋愛よりその気持ちは強いけど。だけど、佐奈を束縛する権利なんかない」
佐奈の喉がからからに渇いてしまったように、上手く声が出てこない。
ただ、麻野に伝えたいことは頭の中ではっきりとしていた。
「僕は佐奈に幸せになってほしいだけなんだ。だから……」
佐奈は一度こくんと唾を飲み込んで口を開いた。
「わたし……わたしの幸せは、わたしが決めます」
「だけど」
「わたし、……うまく笑えなかったり、困った顔ばかりしちゃって、先生を困らせてしまっていたって、思います。ごめんなさい」
「それは、佐奈のせいじゃない」
「でもわたし、先生が好きなんです。先生のそばにいたいんです。……ずっと、そうしていたいって思います」
その言葉に、麻野は今はじめて佐奈の顔を見た。
佐奈はまっすぐに麻野の目を見つめる。
自分よりも誰よりも重い闇を抱えて、今以上の幸せは求めないと言い切るけれど。
愛する誰かと共に生きる幸せくらい求めたっていい。
その誰かが自分だったらいい。
佐奈はそう強く願う。
その願いが叶うなら、麻野の過去も未来も受け止められるだろう。
深く息を吸って、言葉を続けた。
「そりゃあ、最初は……ちょっと強引だなって思って、困ることもありました」
佐奈がやや唇を尖らせてそう言うと、麻野は声は出さずにただ苦笑した。
「ごめんね」
「でも、先生は、わたしのことを愛してるって言ってくれましたよね。……すごく、嬉しかった。そんなふうに言ってくれた人はいなかったから」
守ってくれる人はいる。
このさくら園の職員たちも、親友の梢も。
だけど、ひとりの女性として愛されることをはじめて経験し、喜びを感じていた。
「………」
「先生がわたしに言うように、わたしも先生に幸せになってほしいです……もし、……自信はないんですけど」
と、言葉を切った。
自惚れていると思われるかもしれない。
そう考えると続きを口にするのは躊躇われた。
それでも、佐奈は目を閉じて深呼吸を一度してから、麻野の目を見つめた。
眼鏡越しの瞳はやさしげで、そしてひどく寂しそうに見えた。
佐奈は思わず、膝の上で指を組んでいた麻野の手に自分の手を重ねる。
「わたしといることで先生が少しでも幸せだと思ってくれるなら。わたしが、麻野先生を幸せにしたいです。……いけませんか?」
「いけない、ことはないけど。でもそれでは君の幸せを奪ってしまう」
佐奈はゆっくりと首を横に振った。
「それが、わたしの幸せなんです」
そう言い切る佐奈を見つめる麻野の顔がゆっくりと穏やかに、そして驚嘆の表情に変わっていった。
「……なんだか、びっくりした」
「え?」
「佐奈の気持ち、改めてきちんと聞いて。こんなに強い子だったなんて」
「い、いけませんか?」
麻野はゆっくりと首を横に振って、穏やかに微笑んだ。
その瞳には先ほどまでの寂しそうな色はもう見えなくて、佐奈はほっとする。
「ううん、とてもいいと思った」
「……ほんとに?」
組まれていた麻野の指がほどけて、その上に重なっていた佐奈の手の上にそっと手を重ね、包み込む。
その温もりに胸がいっぱいになって、目を閉じて深く息を吸った。
「もし……佐奈が一緒にいてくれたら、きっととても心強くて、……僕も、強くなれるような気がする」
「……先生が、教えてくれたんですよ。……好きって思う気持ち」
自分を愛してくれる人と一緒にいることができること。
大切そうに肌に触れられること。
狂おしいほどの口づけも。
麻野と過ごしたすべての時間が、今とても愛しく思える。
「そうなのかな。……佐奈、また泣いてる?」
そう問われた瞬間、佐奈の瞳から堪えきれずに涙の粒が零れ落ちた。
「……先生は、まだ勉強が足りないんですよ」
「え?」
「暖かくて、幸せでいっぱいな気持ちのときにも、涙が出るんです」
まだ涙を零しながら微笑んだ佐奈の顔を、麻野は今までで一番美しいと思った。
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