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28.
そこは暗くて狭い、微かに黴臭いにおいがした。
子ども一人入っているのにやっとなくらいの押入れの隙間に、無理やり押し込められた身体を少し、立て直す。
頬がひりひりと熱を帯びて痛い。
こんなことなら早く外に出てしまえばよかった、と彼は後悔した。
体を起こすと、ほんの少し扉に隙間があるのがわかった。
そっと覗いて、息を呑む。
見知らぬ男の裸の背中越しに、母の顔がちらりと見えた。
聞いたことのないような母の声が扉越しに聞こえる。
……気持ち悪い。
吐き気がこみ上げてくるが、二日ほどほとんど食べ物を口にしていないせいか、胃液さえも出てきそうにない。
音を立てないように、できるだけ押し入れの奥に入り込み、両手で耳を塞いだ。
何も見たくない。
何も聞きたくない。
ここにあるものが全部、消えてしまえばいい。
彼はきつく目を閉じて、ただ時間が経つのを待った。
目を開けると、見慣れた研究室の天井が見えた。
麻野の口からほっと安堵のため息が漏れる。
さくら園での勤務の後、麻野は大学の研究室に出向いていた。
「……悪いこと思い出させちゃったな」
罰の悪そうな顔で、麻野の大学の同期である高橋がノートにメモを取っていた。
「……いや、今さらだから。男が出入りしてたことは覚えてるんだ。大人になれば、何してたのかはだいたい想像はつくだろ?」
麻野はソファのリクライニングを起こしながら、少し笑った。
「ただ、見てしまったのは覚えてなかったな。そんなこともあったんだな……って、そんな程度」
「うん……こういうのって、その……麻野の身体のことに、関係してないか?」
治療の都合上、セックスができないということは高橋にも伝えていた。
「どうだろうな。怪我の治療の医者がそうなることもあるって話をしていたんだし、怪我の後遺症かなと思うんだけど」
「そうか……うーん、順調と言えば順調なんだけど……辛かったら辞めてもいいんだぞ? 嫌なこと思い出すのもしんどいだろうし」
彼がこれから取り入れたいというカウンセリング方法の実験に付き合うという形で、麻野は記憶障害の治療を受けていた。
「全然。順調ならよかった、いい論文書いてもらわなきゃな」
そう言って笑うと、神妙な顔をしていた高橋も苦笑した。
「今日はこれで終わりだけど」
「うん、お疲れ。ありがとう」
と、麻野はソファから立ち上がった。
「いや、こちらこそ。今度、飲みに行こう」
「ああ、じゃあ、次のときにでも」
その返事を聞いてから、部屋を出た。
佐奈が風呂から出たタイミングで携帯電話が鳴った。
画面には麻野の名前が表示されている。
「もしもし?」
『佐奈?』
携帯から聞こえる声に浮き立つ気持ちを抑えつつ、
「はい、先生?」
と返事をする。
『調子はどう? 大丈夫かなって気になって』
「あ……っと、さっきはすみませんでした。もう、大丈夫です」
気分はまだ落ち込み気味ではある。
それを隠すように努めて明るい声を出したつもりだった。
『竹石さんのこと、佐奈は大丈夫?』
「え?」
『ああいう……傷。見ても平気?』
その言葉にどきりとする。
正直なところを話していいものかどうか、少し迷ってから口を開いた。
「あの……あまり平気では……ないです。……どうしても、思い出しちゃって……」
梢の顔を見るとどうしても脚が竦んで膝が震えるような思いをする。
できるだけ梢の前ではそんな素振りを見せたくはなかったが、そのせいもあって、結局梢と話もろくにできていない。
『無理しないでいいんだよ。なんだったらシスターにお任せしてしまってもいいだろうし』
「すみません、こんな話……」
『話して楽になれるなら、聞くし。気にしないで』
少し躊躇ったが、思ったことを正直に話してしまいたかった。
「あ……ありがとうございます……あの……」
『うん』
「昨日、思い出したことが、あるんです。……母が亡くなる少し前のことで……」
『うん』
「……母は、……父に会いに帰ったんです。……わたしを、置いて」
今まで忘れていたのは、自分で自分の記憶を閉ざしていたのかもしれない。
佐奈は頭の中で、麻野に聞いた記憶障害のことを考えながら、震える声で続けた。
「……戻ってきたとき、傷だらけで……ちょうど、梢みたいに……そしてその怪我がもとで……」
その時には気がつかなかった内臓の損傷がもとで、母は倒れた。
そのことは覚えていたけれど、母が父に会いに行ったということは記憶からすっぽりと抜け落ちていたのだった。
「あの時、母を止められていたら……行かないでって言えていたら……」
『佐奈』
昨日と今日、誰にも言えずにいたことを口にしたとたん、佐奈の瞳から堪え切れずに涙が溢れた。
「すぐに病院に行っていたらって……」
今さらどうにもならない。
だからこそ後悔の念に押しつぶされそうになる。
そしてそれ以上に、母は自分よりも父を忘れられなかったのか、父をもう一度選ぼうとしていたのか。
今となっては真実はわからない。
絶望のあまり自分で記憶に蓋をしてしまったのだろうかと考えた。
『そうか』
「だから……怖くて……梢が……梢もいなくなったらって……でも、うまく言えなくて」
そしてその感情は恐怖に代わった。
……誰も傷ついてほしくないのに。
あの後、父は傷害致死罪で逮捕され、その後のことはわからない。
知りたいとも思わなかった。
それでも自分には、父と母の血が流れている。
暴力の恐怖で人を縛りつけようとした父と、それに従うしかなかった……それでも結局離れることができなかった母。
自分はどちらと同じになるんだろうと考える。
どちらにしても、苦しい思いをすることには変わりなかった。
『シスターが病院に連れて行ってくれたんだよね?』
「はい……でも……」
『どうして佐奈が泣くの? やっぱり心配?』
溢れ出る涙は止まらなかった。
「……心配、もあります。でも、やっぱり……怖いんです。……わたし、自分の気持ちばっかりで、……嫌な人ですよね……」
『そうか。いや、そういう経験があるなら、仕方が無いだろうね。……ねえ、佐奈』
「はい」
『今から、会いに行ってもいい? ちょっと遅い時間だけど』
「えっ……」
『会いたいんだ』
「あの、わたしは平気ですけど、先生は大丈夫ですか?」
時計を見ると、夜の十時を過ぎたところだった。
『うん、大丈夫。今、大学から帰るところだったけど、このまま向かうよ』
「でも」
『佐奈。佐奈がひとりで泣いてるなんて、我慢できないんだ』
「……すみません」
『謝らないで、これは僕の我儘だから。二十分くらいで着くよ』
「はい……」
電話を切って、そのままベッドに突っ伏して泣いた。
涙は止まることなく溢れ出る。
自分がこんなにも我慢をしていたことに、佐奈は少なからず驚いていた。
程なくしてインターホンのチャイムが部屋に響いた。
佐奈はあわてて玄関に向かう。
「佐奈」
ドアを開けると、普段と変わらない麻野の穏やかな微笑みに、佐奈の瞳からまた涙が零れる。
「大丈夫……もう、大丈夫だから。一緒にいるから」
そっと抱き寄せられて、佐奈は麻野の腕の中でただ頷くしかできなかった。
ベッドの上で、麻野の腕に抱かれたまま涙を流した。
佐奈が落ち着くまでの間、麻野はただ髪を撫でるだけで佐奈を抱きしめている。
「……わたしって」
「うん」
「こんなに……先生に甘えてしまって。ちょっと、恥ずかしいです」
顔を上げて苦笑しても、まだ涙は零れる。
「気にすることないよ」
「自分でも、驚いちゃいます。今までは、そんな相手もいなかったし……しっかりしなくちゃって、思ってました」
「弱気になったりする時には、誰かに甘えてしまうのも悪いことじゃないよ」
中学生くらいになってから、佐奈は人前で泣くことは滅多になかった。
弱い人間になりたくなかった。
弱いと思われたくなかった。
自分でも虚勢だとわかっていたけれど、周囲に対して『一人でもしっかり生きていける』ことの精一杯のアピールだった。
それなのに、麻野と付き合うようになってからというもの、些細なことで涙ぐんでばかりだった。
「ごめんなさい……こんなふうに泣いたら、困りますよね……やだなあ、わたし……」
自分はこんなにも弱くて脆い人間なんだと思い、溜息をつく。
「あ、そういえばお茶も出さないで……」
「いや、お構いなく」
今ごろ? と笑って、麻野は佐奈の頭を撫でた。
「えっと、まあ……今ごろ、ですよね」
少し身体を離して、佐奈は肩を竦めた。
「でも、気分が落ち着いてきたってことかな」
「あの……そう、ですね。……ありがとうございます」
「うん?」
「側に……いてくれて」
「うん。今は、一緒にいるから」
その言葉にほっとしながらも、胸の奥に引っかかるものがあった。
……今は、か……。
俯いていた顔を上げると、麻野の顔が近付き、そして唇が重なった。
ごく自然にそれを受け入れ、瞼を閉じる。
唇を合わせるだけの軽い口づけでも、佐奈の体の奥に小さな火が点る。
「……こんなことしちゃ、悪かったね」
唇を離して、麻野が苦笑する。
「……先生……」
佐奈の手が、麻野のシャツの胸元を握った。
その手に麻野の手が重なる。
佐奈には、その手が佐奈の言葉を促しているように思えた。
「……わたし……キス……してほしい、です……」
掠れるほどの小さな声で言ってから、俯く。
体の奥で生まれた熱は佐奈の理性まで支配していて、もう佐奈にはどうすることもできない。
俯いたままの佐奈の顎を、麻野が指先でそっと上げる。
「いいよ。佐奈が欲しいのなら」
そう言って、唇を重ねた。
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