29.

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 シングルサイズのベッドが、二人分の重さに耐えかねるようにぎしっと音をたてた。 「……あっ……」  自分の口から出た甘い声の思いがけない大きさに驚いて、佐奈は口元を手で覆う。  佐奈の脚の間に顔を埋めたまま、麻野が少し笑った。 「この部屋だと、あんまり声出すと隣に聞こえちゃうかな」  その言葉の吐息が佐奈の肌を擽り、その身を捩らせる。 「あ……や…やだ……」 「いつもよりは、我慢したほうがいいかな、声」  麻野の指が、たっぷりと蜜を湛えた場所にゆっくりと差し込まれる。 「んんっ……」  佐奈は口元に手をあてたまま、そこに与えられる快楽に酔った。  何もかも、忘れてしまいたかった。  そんなふうに考えることに対する罪悪感さえも。  それでも、閉じた瞼に浮かぶのは、梢と、同じように傷を作った母の顔だった。 「佐奈……?」  喘ぎ声が嗚咽に変わったのを、麻野はすぐに気づいて顔を上げた。  佐奈は何も言えずにただ、両手で顔を覆う。  麻野は小さく溜め息をついて、佐奈の震える肩を抱き寄せた。 「…ごめんなさい……」  麻野の胸元にしがみつくようにして、小さな声で謝る佐奈の髪を、麻野の指がそっと撫でていく。 「謝ることなんかないよ。さっきも言っただろう? 泣きたいときには泣いてもいいんだって」 「わたし……どうしていいのか……わからない……」  麻野の胸に頬をつけると、シャツに涙が染み込んでいく。  佐奈はふと、肌を晒しているのは自分だけだということに気付いた。  それは、麻野がまだ自分には全てを許していないことのように思えて、抱きしめられているにも関わらず一人きりになったような感覚に陥る。  何も言えずに麻野のシャツの胸元を握りしめると、また麻野の手がそっと髪を撫でる。  それでも、佐奈は流れ落ちる涙を止めることができずに、声を上げて泣いた。 「わたし、こんなに泣き虫じゃないはずだったんですけど……」  どれくらいの時間泣いていたのか、自分でもわからなかったが、ようやく落ち着いて麻野の胸から顔を離しながら呟いた。 「僕はよく泣き顔を見てる気がするんだけど」  麻野はそう言って苦笑しながら、裸の佐奈の肩にタオルケットをかけた。 「す、すいません……なんだか、先生の前では我慢できないんです。……おかしいですよね」 「それだけ僕に、心を許してるって思ってしまっていいのかな」 「……わたしは、そうかもしれません……あ、あの、シャツ…濡らしちゃって……」 「ああ、気にしないで。すぐ乾くから」 「ごめんなさい……」  麻野は、佐奈のすべてを許し、受け入れてくれている。  それは佐奈にもわかっていた。  ただ、その逆はどうだろう、と思う。  麻野は佐奈にどこまで彼自身を見せているのだろうか。  それを聞いてみたいと思いながら、口には出せないでいる。 「佐奈」  名前を呼ばれて、口をつぐんだ。 「僕は、佐奈が求めるなら、できるだけ君の傍にいたいんだ。できないことならしないけどね」  その言葉に、また、佐奈の瞳に涙が溜まっていく。 「……どうして……」 「え?」 「どうして…そんなに、やさしくしてくれるんですか? わたしは、先生に何もできてないのに……」 「別に、何かしてほしくて傍にいるわけじゃないよ」 「でも…でも……だって、わたしは……」  麻野が言うように、いつかは離れることになるのであれば、そんな女に対して、こうまで愛情を向けられるものなのだろうか。  佐奈にはそれが理解できなかった。 「わたし、何もできないのに……」 「言っただろう? 僕は今以上を望む気はないんだ」 「そんなこと……だって……」  辛いことがあった分、穏やかな生活というものに強い憧れを抱いて育ってきた。  それは、誰だって望んでいいはずだ、と佐奈は思う。 「佐奈は何もしなくてもいい。そこにいるだけでいいんだ」 「でも」 「佐奈。疲れたんだろう? そろそろ、休んだらいい。……朝までここにいるから、心配しないで」  その言葉は、佐奈を気遣っているようでいて、これ以上この話を続ける気はないという宣告でもあった。 「……ありがとうございます……着替え、しますね」  佐奈はタオルケットを身体に巻きつけたまま、立ち上がった。  腕の中で小さな寝息を立てて眠る佐奈を、麻野が見つめていた。  シングルベッドでは狭いのではないかと佐奈は心配していたが、それでも麻野が押し切る形でふたりで眠ることになった。  佐奈の髪を指先でそっと撫でる。  麻野が少し動いたところで目は覚めないくらいに佐奈は熟睡しているようだった。  身体を起こして壁の時計を見上げると、日付が変わった頃だった。  そのまま佐奈の寝顔を見下ろして、小さくため息をついた。  カーテンの向こうはまだ暗い。  日が昇る前、いつもより少し早い時間に目を覚ました。 「……先生、眠れなかったんじゃないですか?」 「大丈夫だよ。……薬飲まなくても、わりと眠れたと思うし」 「あ、す、すみません、こんな、泊まる予定なんかじゃなかったですよね」 「構わないよ」  そう言って微笑む麻野の顔を見上げると、胸の奥がちりちりと痛んだ。 「……あ、わたし、朝ご飯の用意しますね。まだ、時間大丈夫ですか?」 「うん。でも、いいんだよ。コンビニ寄ればいいんだし」 「大丈夫です、すぐできますから」  と、ベッドから降りようとしたところで、手を引かれて後ろに倒れ込んだ。 「きゃ……」 「……ごめん」  麻野に背中から抱きすくめられて、動きが取れなかった。 「先生……?」  麻野の言葉の意味が分からずに、聞き返す。 「何もしてやれなくて……」 「そんなこと……こうやって、一緒にいてもらえただけで、わたし……とてもうれしいし、すごく、落ち着けました」  佐奈は、自分の肩を抱きしめる腕にそっと手を乗せた。 「でも僕は、君を泣かせてばかりだ」  麻野の表情は、佐奈にはわからなかった。 「そんなこと……先生のせいじゃないですから……」  それでも、麻野の前ではよく涙を見せてしまっているのは事実だった。 「もっと上手く、佐奈を愛せてたらいいのに」  その言葉の意味が佐奈にはよくわからなかった。 「……先生……?」 「……あのね、佐奈」 「はい」  少し言いにくそう間を開けてから、口を開く。 「……僕は、ちょっと、人の気持ちがわかりにくいところがあって」 「え?」 「訓練というか……勉強はしたから、ある程度は表情とか読めるようにはなって。日常生活にも支障はないんだけど」 「……はあ……」  どう相槌を打っていいのかわからずに、曖昧な返事になる。 「佐奈のことは……わからないときが多くて」  ふと、佐奈の肩を抱いた腕に力が籠る。 「え……あ……ごめんなさい……」 「どうしたらいいんだろうって、ずっと考えてて」  自分でもわかっていた。  ずっと子どもの頃から、思うように表情が作れないでいた。  同年代の大多数の女の子のように心の底から笑ったり喜んだり、怒ったり。  普通ならば当たり前で簡単なことなのだろうが、それができない自分がもどかしくて、自己嫌悪に陥ることも多かった。 「あの、でも、先生がいてくれて……わたし、うれしいです。ほんとに……先生には、泣いたりした顔を見せてしまって、心配かけてるって思うんですけど」 「そうだね……それも心を許してくれてるってことなら、いいのかな」  耳元でふっと笑うような吐息を感じたが、麻野がどんな表情をしているのかは佐奈にはわからなかった。 「ごめんなさい、わたし……」 「ごめん、佐奈のせいじゃないから」 「でも」 「変な話しちゃったね、ごめん。……朝ごはんにしようか。手伝うよ」 「あ……はい……」  佐奈の肩を抱いていた腕が解けて、離れる。  振り向いたときには、麻野の表情は普段と同じに穏やかな表情に見えた。  冷凍保存してあったご飯と味噌汁で簡単な朝食を用意して、二人で小さなテーブルについた。 「さくら園まで、送っていくよ」 「あ、でも、帰りが……」 「迎えに行く」 「えっ……」 「だめ?」  麻野の悪戯っぽい微笑みに、思わずつられて苦笑する。 「やっと笑った」 「や、だって……でも、昨日の今日で、申し訳ないですよ」 「いいんだ、やりたくてやってるんだし」 「はあ……あ、ありがとうございます」  その後はそれぞれシャワーを浴びて身支度をし、麻野の車に乗り込んだ。 「早すぎない?」  時間はまだ八時になっていない。  しかしさくら園は校区の端に位置しているため、小学生も中学生も登校してしまっている。 「いいんです、することはいっぱいあるんだし……先生の方はお仕事大丈夫ですか?」 「この時間なら、一度帰って支度できるよ。気を使わせちゃったかな」 「あ、いえ、そんなことないです」  慌てたように返事をする佐奈の様子を見て、麻野は苦笑した。 「……僕は佐奈を困らせてばかりだな」 「そんなこと……」 「でも、今、困ってるんだろう? そのくらいはわかるよ」 「だ、だってそれは……」 「ごめん、今のはちょっと茶化しちゃっただけ」 「や、やだな、先生……意地悪です……」 「ごめんね。さ、もう着くよ」 「あ、ありがとうございます」 「また夜に、迎えに来るよ。定時よりは遅くなっちゃうけど……六時過ぎには来られると思う」 「すいません」 「いいんだ。近くになったら電話するよ」 「はい」  さくら園の玄関口に車を停めたとき、そこに何人かの人がいるのが目に入った。 「あれ……」 「……あれは、竹石さん?」  佐奈は何か嫌な予感がして、助手席のドアを開けた。
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