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30.
「なに……してるの? 梢……?」
さくら園のシスターが梢の手を掴むが、梢はそれを振り払おうとする。
「やだ、お願いだから、行かせてよ!」
「佐奈ちゃん、梢ちゃんが出てくって……まだ治ってないのに」
慌てたようなシスターの言葉で、梢は佐奈がそこにいることに気づいた。
「佐奈……」
「なん……で? どこに、行くの?」
佐奈の心臓がどくどくと音を立てて、上手く言葉が出てこない。
門の外に出ようとする梢の前に立ち塞がっているものの、膝が微かに震えた。
「あたし、帰らなきゃ。やっぱり、あの人、あたしがいないとだめだって、言うの。あたしがいいって、言ってくれるから……」
「だ、だめだよ、どうして? だって梢のこと……こんな……」
頬の腫れは引いていたが、まだ唇が切れた痕が生々しい。
その傷に寒気を感じて、佐奈は思わず奥歯を噛みしめる。
「それは、あたしがいけないの。彼の言うこときいていれば……」
「そんな……そんなのおかしいよ! 何したって、そんな……おかしいよ……!」
思わず声を荒げた。
その声に梢が一瞬驚いたような顔をするが、ふいっと佐奈から視線を逸らして唇をかみ、佐奈の脇を通り抜けようとした。
「佐奈には、わかんないよ」
その言葉に、かっと頭に血が上る感覚を覚えた。
いけないと思いながらも身体が勝手に動く。
瞬間、佐奈の手は梢の頬を叩いた。
乾いた音が響き、手のひらがびりびりと痛む。
「あ……わたし……」
「……佐奈」
佐奈の後から車から降りてきた麻野が声をかける。
「梢……ごめん……ごめんなさい……わたし……」
その場にぺたりと座り込んだ。
梢の頬を叩いた手が震える。
「やだ……わたし……ごめんなさい……」
「佐奈。落ち着いて」
肩を抱きかかえた麻野の言葉も耳に入らない。
「や……どうして……ごめんなさい……ごめんなさい……」
急激な胃の痛みと吐き気に襲われ、倒れこんだ。
目が覚めた時。
佐奈はあのクローバーを見つけた夏の日と同じに思えた。
部屋を見渡すと、梢が泊まっていた客間ではなく、子どもたちの部屋であることがわかった。
まだ胃の痛みが残っていて、すぐに起き上がることができない。
ゆるりと手を上げて左手首に巻かれた腕時計を見ると、まだ午前中ではあり、そう長く寝込んでいたわけではなかったことに安心して、小さくため息を零す。
それからまた目を閉じて、今朝の出来事を頭の中で反芻してみる。
あんなふうにパニック状態になったのは、初めてだった。
何がそうさせたのか、佐奈は自分でもよくわからなかった。
手で顔を覆って涙が出そうになるのを抑える。
……梢は、どうしただろう?
寝ている場合ではない、と思い出して起き上がった。
胃の痛みに顔を歪めながらも立ち上がり部屋を出る。
食堂に行くと園長とシスターが食事の準備をしていた。
「佐奈ちゃん! 具合はどう?」
「あ……すみません、お騒がせして……大丈夫です」
園長は手を拭きながら佐奈の側にきて、顔を覗きこんだ。
「あらあら、そんなことなさそうね、顔色が悪いわ」
「あの、梢は…梢はどうしました? あのあと……」
「梢ちゃんは、お部屋にいるわ。大丈夫、いるから」
佐奈に言い聞かせるような園長の言葉に、ほっと安堵の息をつく。
「……よかった……わたし、梢に謝らなきゃ……」
「梢ちゃんも、そう言っていたわ。……お部屋に、行ってごらんなさい」
園長は穏やかに目を細める。
「……はい、そうしてみます」
「大丈夫よ。お昼、用意しておくから、お話しが終わったらまたいらっしゃいな」
「あ……ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げてから、梢がいる客間に向かった。
ドアの前で一呼吸してから、目を閉じて声をかけた。
「……梢」
すぐには返事がなかったが、部屋の中で人が動く気配はあった。
「……さっき、ごめんね。わたし、ひどいこと……」
と、言葉の途中で突然ドアが開く。
「佐奈…っ……」
そのまま梢は佐奈に抱きついてきた。
「こ、梢……?」
怒っているだろうとばかり考えていたので、いきなり抱きつかれた佐奈は面食らった。
「あたしこそ、ほんとにごめん。佐奈にひどいこと言って。佐奈は、わかってるよね」
「……うん、梢……お母さんみたいで。……絶対、止めたかったの……でも、痛かったよね。ごめんね」
梢は佐奈に抱きついたまま、首を横に振る。
「あたし……あたし、もっと、幸せになりたい」
梢は泣きだしたようだった。
涙声でとぎれとぎれに話す、その背中を佐奈は手のひらで撫でた。
「そうだね。……私も、そうだよ。みんな、そうだよ」
今だって、幸せじゃないわけではない。
だけど、今以上を求めても悪いことは何もないはずだ。
そう考えた時に佐奈の頭に思い浮かんだのは、麻野の顔だった。
「でも、佐奈が友達じゃなきゃ、ダメなんだって、思ったの」
「……ありがと。わたしもだよ」
梢の明るさが佐奈の背中を押してくれたことが、今まで何度あっただろう。
「ていうか、佐奈、具合大丈夫?」
梢はふと身体を離して佐奈の顔を覗きこむ。
「ん、まあ、なんだろ、ちょっとパニック起こしたみたいで……」
「あんな大きな声出すから、体がビックリしちゃったのかもね」
と、笑う。
目元はまだ濡れていたが、いつも通りの梢の笑顔に佐奈はホッとする。
「そうかもね。……ね、お昼ごはんできてるって。一緒に食べよう?」
「うん。……あとで、携帯番号変えに行かなきゃ……全部、変えて、……やり直せるかな、あたし」
「梢なら、できるよ」
佐奈の返事を聞いてにっこりと笑う、梢の笑顔が少し羨ましく思えた。
「仲直り、できたみたいね」
佐奈と梢の二人で食堂に行くと、園長が笑顔で声をかけた。
「はい」
「うん、もう大丈夫」
「佐奈ちゃん、おなかは大丈夫? 倒れる時、おなか痛そうにしてたから」
「あ、はい……ちょっと胃が痛くなって。パニック起こしたせいだと思うんですけど」
「あり合わせだけど、野菜スープにしたわよ。軽く食べたらお薬を飲むといいわ」
「すみません、ありがとうございます」
「あ、麻野さんにメールとかした? 心配してたよ」
「あ……そうだね、まだ連絡してなかった」
また余計なことで心配をかけてしまった、と自己嫌悪に陥る。
「わたし、麻野先生に心配かけてばかりで……」
「え、そうなの? どうしたの?」
梢は目をパチパチとさせて首を傾げた。
「なんか……うん……いろいろと。もっと明るい性格だったらなあって思ったりして」
「へえー。……麻野さんってやさしい?」
「あ、うん。……すごく、やさしいよ。いいのかなって思うくらい」
そう返事をした時に、今朝の麻野の言葉を思い返した。
『佐奈のことは……わからないときが多くて』
自分のすべてを受け入れてくれている、と思っていたのは自惚れだったのだろうか。
「そうだよねえ、やさしそうだよね」
うんうん、と頷きながらスープを口に運ぶ梢を横目に、佐奈は俯いてしまう。
「いろいろと……わたしにできることなんて何もなくて。どうしたらいいんだろうって」
麻野が背負っている闇の深さと重さを推し量ることはできても。
共有することは容易いことではない。
自分にそれができるだろうか。
「え…っと、それって、何? 付き合えないかもって話?」
「え、ううん、そんな、そんなことはなくて」
佐奈の頭には全くなかった言葉に驚いて首を横に振る。
「でもそれって、そう受け取れたりもするよ? 麻野さんにそんなふうに言ったりしちゃってないよね?」
「や、……だめかな、そういうの」
何度か口にしてしまったことはある。
そんなことから、今朝の麻野の言葉に繋がってくるのかもしれない。
頭の片隅にそんな不安がよぎった。
「あんまり、いいことじゃないと思うんだけど。でもあたしの言うことだからちょっと大げさなのかもしれないけど」
「そっかぁ……どうしよう、わたし」
俯いてため息をついた時、キッチンで二人の様子を見守っていた園長が口を開いた。
「佐奈ちゃん」
名前を呼ばれて佐奈は顔を上げる。
「はい」
「礼拝堂に行ってごらんなさい」
と、園長はやさしい笑顔を向けた。
「あ……」
「佐奈ちゃんは、小さな頃から、何か悩んだり気になることがあったときには必ずと言っていいくらい礼拝堂にこもったわね」
「あ、そう言えば、ほんとそう。何時間もあそこにいたことあるよねー」
まだ小学生の頃、礼拝堂でぼんやりと考え事をしているうちに眠ってしまい、施設の皆に探されたこともあった。
「あ、はい……そうですね。礼拝堂は、なんだか気分が落ち着くと言うか……考えごととか、まとまるような気がします」
「今が、そんなときなんじゃないかしら」
「そうですね……そうかもしれません」
「神さまに、ゆっくりお話ししてごらんなさい」
「そういうもん?」
やや不思議そうな顔をして梢は首を傾げたが、
「うん、そう、わたしは……そう。ありがとうございます、園長先生」
夕方にでも行ってみよう、そう思った。
食事の後片付けは梢に任せて、佐奈は仕事のために事務室に入った。
「あっ…と、先生にメールしておかなくちゃ」
と、携帯電話をバッグから取り出し、麻野にメールを打つ。
『心配かけてごめんなさい。もう元気になりました。梢ともちゃんと話ができました。』
と送信して、机の端に携帯電話を置いてすぐ、着信音が鳴った。
慌てて手に取ったその画面には、麻野の名前が表示されている。
「もしもし? 先生?」
『佐奈? 良かった、目が覚めたんだね。体は大丈夫?』
「はい、すいません、もう大丈夫です」
胃の痛みも薬が効いたのかほとんど治まっていた。
『ごめんね、一緒に居られたら良かったんだけど』
「大丈夫です、こちらこそごめんなさい、お仕事遅れたりしませんでした?』
『佐奈はやっぱり、人の心配ばかりだ』
と僅かに苦笑するのが聞こえた。
「あ、でも、だって、気になるじゃないですか。申し訳ないですし」
『もっと甘えてくれていいのに』
「あの、……充分、甘えさせてもらっちゃってます……本当に、申し訳ないくらいで……今もお仕事の邪魔しちゃって、すみません」
『そんなことないよ。……まあいいや、またあとで」
「あ、はい。あの、夕方は礼拝堂にいるかもしれません」
『ああ、わかった。じゃ、また』
「はい、待ってます」
携帯電話を耳から離し、通話が切れて画面が暗くなるのを見てから小さくため息をついた。
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