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01.
その日は朝から夏空が広がっていた。
濃い青い空の下、佐奈は自転車をこいで職場に向かう。
ペダルを踏むリズムと同じに、ショートボブの黒髪が揺れた。
「今日も暑いのかなー……」
まだ朝早い時間だというのに、ぎらぎらと照り付ける日差し。
佐奈は手を翳して空を見上げた。
「さすがにクーラーないのはきついよね……でも無理か……」
独り言を呟きながら、職場の門を通り抜けた。
佐奈の職場は児童養護施設だ。
教会の隣に建てられているさほど大きくはない施設『さくら園』に、さまざまな理由で集まった子どもたちが暮らしている。
佐奈もそこで育ったひとりだった。
幼いころ、暴力を振るう父から逃げるように母と二人で家を出た。
いくつかの町を転々とした後、この施設にたどり着いた。
その母も佐奈が高学年のころに他界し、佐奈にとっては『さくら園』こそが自分の家のように思っていた。
高校を卒業したら就職するつもりで、佐奈は商業高校を選んだ。
園から通学できる範囲ではなかったため、新聞配達の奨学金を利用しながら高校に通った。
就職活動の頃、他の会社で内定をもらったものの、自分が育った施設で働きたいという思いが強くなり、無理を言うような形でさくら園で事務の仕事をすることになった。
もともと子どもの世話などが好きだったこともあり、仕事の手が空いたときには施設の子どもたちの遊び相手をしたり勉強を見てやったりで、あっという間に一日が終わってしまう。
土日に施設に顔を出すこともしょっちゅうだった。
自分の時間なんてほとんどないような生活だったが、それでも佐奈は今の暮らしに十分すぎるほど満足していた。
「あ、今日は新しいカウンセラーの先生が来るんだっけ……」
月のスケジュールが書き込まれた黒板を見ながら、佐奈は小さな事務室の自席に腰を下ろす。
「佐奈ちゃん、おはよー」
すぐさま、施設の子どもたちが数人で事務室に顔を出した。
「おはよー。……中学校って今日終業式でしょ? 昨日だった小学生と遊んでたら遅刻するよー」
「だーいじょうぶだって」
「ねー佐奈ちゃん遊ぼうよ」
今日から夏休みの小学生の子どもたちが佐奈の手を取る。
「うーん、今日新しいカウンセラーの先生が来るから、それまでに今日の分のお仕事ちょっとしとかなきゃなの。夕方には遊べるから、ごめんね」
仕事をはじめて四ヶ月が経ったとは言っても、まだまだ慣れない事ばかりだ。
イレギュラーな仕事が入ると、その分時間が掛かってしまう。
「えーつまんない。夕方には遊んでね」
「うん、大丈夫。約束ね」
と、事務室を出て行く子どもたちに手を振った。
「カウンセラーの先生……とりあえず園長先生と中を案内して、……あとはどうするんだろ」
先日渡された『麻野宏紀先生』と名前が書かれたメモを見ながら頬杖をつく。
「……聞いておいたほうがいいかな」
と、園長の席に目をやる。
事務室には園長のデスクもあったが、園長がそこに座っていることはほとんどなかった。
子どもたちとともにリビングルームにいたり、庭の手入れをしたりと、暇にしているようなことがない人で、電話などの取り次ぎがあるときには、佐奈はいつも園長を探し回ることになるのだった。
リビングルームを覗き、その窓の向こうの中庭を眺めた。
木の陰で動く人影を見、窓を開けて声をかける。
「園長先生!」
「あら、佐奈ちゃん。おはよう」
佐奈の声に、草むしりをしていた手を止め、壮年の女性が振り向く。
「おはようございます」
子どもの頃からの知り合いのため、佐奈が就職してからも園長は佐奈を子どもの頃と同じように名前で呼ぶ。
佐奈にとってはそう呼んで貰えることがうれしかったし、ありがたかった。
「あの、今日来るカウンセラーの先生のことなんですけど……」
「ええ、何かあった?」
額に滲んだ汗を拭きながら、佐奈がいる窓の側に近付いた。
「いらっしゃったら、園の中案内して……その後はカウンセリング室に通すだけでいいんでしょうか?」
佐奈の手にあるメモによれば、週に二回子どもたちの様子を見にくることになっているようだった。
「ああ、その話ね。佐奈ちゃんは知らないかしら? 麻野君もここの出身だから、案内は大丈夫よ」
「あ、……あー、あの麻野さんですか?」
「そう、あの麻野君」
と、園長はにっこりと微笑んだ。
佐奈がさくら園に来た頃にはもうここから出てしまっていて、大学生になっていた人物だった。
何度か園長に会いに来ていたから、佐奈も顔は知っていた。
長身で整った顔立ちをした青年を遠目に見て、幼いながらもドキドキしたことを覚えている。
成績優秀で、大学院まで行ったという話は、園長から聞いたこともあった。
「優秀な方なんですよね」
「性格も穏やかで、やさしい子よ」
「……そういう方だと、うれしいです」
佐奈の返事を聞いて、園長はゆっくりとうなづく。
「お昼前には来ると思うわ」
「そうですね、……あ、麦茶作っておかなくちゃ。じゃあ、失礼します」
ぺこん、と頭を下げてリビングを出る佐奈を、園長は笑顔で見送る。
「……あの子は、まだ長袖を着てるのね……」
佐奈の背中を見送っていた園長はぽつりと呟きながら、また庭に視線を移した。
子どもたちが庭に植えたひまわりが夏空に向かって咲き揃っていた。
佐奈が午前中に済ませたい仕事を終え、時計を見たときに玄関のチャイムが鳴った。
「あ、来たかな」
席を立ってインターホンの受話器を取る。
「はい」
「今日からカウンセラーで伺うことになっていた麻野と申しますが」
受話器越しに落ち着いた男性の声が聞こえた。
「あ、はい。少々お待ちください」
初対面の人間に対しては誰しも多少の緊張はするが、佐奈にとっては初対面の男性ほど緊張する相手はいない。
しかし社会に出るということは、苦手なことでもきちんとこなさなければいけない。
佐奈は自分にそう言い聞かせて、ふうっと大きく深呼吸をしてから玄関に向かった。
「こんにちは」
玄関に出ると、すらりと背の高い細身の男性が立っていた。
チノパンの上に深いグリーン系のチェックが入った半袖シャツを羽織っている。
ややカジュアルではあるけれど清潔感のある服装をしていた。
「はじめまして、麻野と申します」
「あ、わたし事務職の松井佐奈と申します。よろしくお願いします」
ぺこっとお辞儀をして顔を上げると、麻野はやさしげな微笑みを浮かべていた。
端正な顔立ちに、上辺にだけシルバーのフレームがついた眼鏡をかけている。
ややもすれば神経質そうに見えるかもしれないが、穏やかな微笑みがそんな印象を打ち消していた。
昔に遠くから見た時よりもずっと綺麗な顔立ちをしている、と佐奈はどこか落ち着かない気持ちで麻野の顔を見上げ、すぐに俯いた。
「松井さん、今年就職した人だよね? 園長先生から聞いてるよ」
麻野を中に通し、リビングルームを通って園長が待つ応接室に向かった。
「あ、はい、そうなんです。まだ慣れないことばかりで……何かとご不便をさせてしまうかもしれませんがよろしくお願いします」
「僕もここでの仕事ははじめてだからね。同じようなものだよ」
そう言って笑う麻野につられるようにして佐奈もぎこちなく笑顔を作った。
「そんなに緊張しないで。僕もここで育ったんだ。兄弟みたいなもんだと思ってよ」
開け放ったリビングの窓から見える庭で遊ぶ子どもたちの歓声に、麻野は目を細める。
庭では照りつける日差しの中、ビニールのプールを出して子どもたちが水遊びをしていた。
「あ、はい……園長先生からよく聞いてました。やさしくて面倒見がよくて、成績もとても優秀だったって」
佐奈の言葉に、麻野は苦笑いを浮かべた。
「たいしたもんじゃないよ。園長先生は大げさだからね」
そのうちに応接室のドアの前に着く。
佐奈が扉をノックすると
「どうぞ」
と言う園長の声がふたりに聞こえてきた。
「失礼します。麻野先生をご案内しました」
「ありがとう、佐奈ちゃん。麻野君、お久しぶりね」
「ご無沙汰しております」
「わたし、お茶入れて来ますね」
会釈をする麻野から一歩下がったところにいる佐奈がそう言うと、
「ええ、ありがとう。お願いするわ」
と園長がやはり先ほどと同じく柔らかな微笑を浮かべた。
話し好きの園長が麻野を離さなかったおかげで、佐奈は事務室と応接室を三回も往復することになった。
「一緒に座っててもよかったのに」
と、麻野は笑ったが
「あ、いえ、だって仕事もあるし……でもやっぱりカウンセリング室にご案内もしなくちゃだし……」
佐奈が困った顔をするのを見て、麻野がまた笑う。
「えっと、こちらです。……って、知ってますよね……」
「うん、僕がいた頃とほとんど変わってないからね、ここも」
そう言って開けた部屋は、壁が一面作り付けの棚になっていて、本やファイルのようなものがぎっしりと詰まっている。
その反対側の壁につけるようにして、スチールの机があり、椅子が備え付けられている。
そのほかに小さなソファがひとつ。そこには大きなくまのぬいぐるみが座っていた。
ぬいぐるみ以外は装飾品はなにもない、簡素な部屋だった。
さくら園に来る子どもたちは、虐待などの身体的精神的な傷を負ってくる子どもも少なくなかった。
また、両親と離れて生活していることからストレスが溜まることもある。
そのような子どもたちのために、専門的知識を持ったカウンセラーが定期的に子どもたちの様子を見るということが必要だった。
「もうちょっと和める感じの部屋のほうがいいよね、子ども相手なんだし」
部屋を見回して、このくまだけじゃねえ……と呟きながら、麻野は机に備え付けられた椅子に腰掛けた。
「そうなんですよね……わたしも昔、そう思ってました」
佐奈が窓を開けると、生温い風が入り込んでくる。
「松井さん、何かかわいい飾り物持ってない? もちろん、使ってないものでいいんだけど」
「あ、……わたし、あんまり物持ってないんですけど、……帰ったら、探してみます」
高価なものは買えないけれど、百円ショップにあるようなものでも工夫すればかわいいものができるかもしれない、と考えた。
「無理にとは言わないけど、もうちょっと子どもたちが落ち着けるほうがいいように思うんだ。質素なのはしかたないけど、ここまで味気ないのもちょっとね」
麻野は立ち上がり、棚のファイルを手に取る。
「……ずいぶん古い資料も残してあるんだな……ここの人たちはみんな物を捨てられないタイプだしな」
肩をすくめてため息をついた麻野が手に取ったそれは、入所している子どもひとりひとりのカルテだった。
日に焼けて黄ばみがかっているものは、何年も前のものらしいことがわかる。
前任者や、それよりもっと前から残してあったものらしい。
佐奈はぼんやりと麻野がファイルを手に取るのを眺めていた。
「ああ、松井さんごめんね、仕事の邪魔してしまって。今日は夕方までここにあるものを把握して、少し整理していくことにするよ」
麻野が急に佐奈の方を見たので、佐奈は何も悪いことをしていた訳でもないのに思わず慌てて目を逸らしてしまう。
「あ、いえ、……何かあったら呼んでください」
失礼します、とお辞儀をして部屋を出て行く佐奈を見送ってから、麻野はまた棚に視線を戻した。
「……まついさな、か……」
麻野はゆっくりとした口調で佐奈の名前を呟き、目を細めた。
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