こいぶみ

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 ずっと開封できないでいる手紙があった。差出人の顔も、今となってはおぼろげだ。  自室で机のひきだしを整理していたら、それがあるとは気づかずに、他のものと一緒に無造作に掴んでしまった。古くなっていた封筒は、封を切られるまでもなく、一辺が裂けた。いかなる弾みであったものか、その裂け目から、畳まれた便箋が飛び出しかけた。  水音がする。斑なあたたかさをこの肌に落としながら、木漏れ日が揺れる。やわらかな若葉が陽を透かしていて、下生えの緑は淡い。透きとおった水が平たい岩の上を滑っている。山のなか、きらめく飛沫をあげて流れる沢がある。ひとりのこどもが沢遊びをしている。その輪郭は光にとろけていて、ひとがたであることしかわからない。  抜けかけの便箋を封筒に戻した。自室の静寂を深く吸い込む。これは、幼い頃、転居するその日に渡された手紙だった。そのときに覚えた当惑とおなじものに襲われる。  蘇った当惑の生々しさを受け流すまで、手紙を握り締めたまま、私はその場にうずくまっていた。
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