0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
「そういう時は、餅を撒けばいいんだよ」
ピンク色のチューインガムを噛みながらウェインが言った。
「モチってなんだよ」甘ったるい臭いに息を吹きかけながら尋ねる。
「知らないのか? ジャパニーズライスケイクだよ」
「米のケーキ?」日本人は何にでも米を使うと聞いたが、ケーキにも使うとは初耳だ。「で、それを撒くっていうのかい。スペインのトマティーナみたいなものか」
「さしずめ、モッチーナだな」
ピンクの風船が割れて、ウェインの口の周りに広がったその時、僕の頭の上に何かが落ちてきた。鳥のフンか。溜め息交じりに空を見上げるが、それらしき姿はない。ただ、飛行機雲が七本、平行に軌跡を描いているだけだ。
「やられた」言いながら、頭のてっぺんをウェインに向ける。
「なんだ、餅じゃないか」
ウェインが手を伸ばして、僕の頭の上のそれをつまんだ。
「うわっ。これは柔らかすぎるな」
溶けたチーズのような糸が、僕の頭とウェインの指先を結んでいる。その真ん中辺りを指でつまんで引っ張ると、やはりチーズのように伸びた。うまそうだ。腹の底に湧いた衝動のまま、口の中に放り込んだ。指についた分も歯でこそぎとり、右手は自由になった。
「お前、何で食べてんの?」
「だって、ケーキだろ」
「違うって。餅は撒くって言っただろ。ジャパンでは、毎年何万人もの老人が、餅を食べたことが原因で死んでるんだぜ。熟練した食い手ですら命を落とすんだ。若い連中が、何十万、いや何百万人も犠牲になってるに決まってる」
僕は焦ったが、手遅れだった。口の中で増殖を続けるモチは、歯にも舌にも喉にも広がって、薄い膜を張っている。このままでは窒息してしまう。
「おういおう」
「どうしようって、どうしようもないよ。鼻で呼吸しながら、餅が肺を詰まらせる瞬間を待つしかない」
「何、餅で遊んでんの」
「あれ、レミー先輩。なにやってんすか、こんなとこで」
「仕事だよ、仕事。それより、餅で遊んじゃだめだって」
「違うんすよ。こいつ、餅を口に入れちゃって」
「あらら。とりもちは?」
「なんすか、とりもちって?」
「とりもちだよ。Take the MOCHIだよ。餅を取る道具だよ」
「そんな道具があるんすか」
「当たり前だろ。ジャパニーズが、どうやって餅と共存共栄してきたと思ってんだよ。それこそ、論理的必然ってやつだ」
「ああくくああい」僕のことなどそっちのけで盛り上がる二人の気を引きたくて声を上げようとするが、言葉はますますモチに絡め取られ、鼻での呼吸にも息苦しさを覚え始めた。ウェインの肩を叩いて、喉を指差す。先輩とやらにも身振り手振りで訴える。ようやく二人は、僕に憐みの視線を向けた。
「何? 『早くください』って言ってるのか。先輩、とりもちって、どこに売ってんすか」
「DIYストアとかじゃねえの」
「了解っす。おい、行くぞ」
「ちょっと待て」
「何すか?」
「そもそも、その頭の餅、どこから降ってきたんだ? おかしくないか」
「確かに」
確かにじゃない! 今、まさに窒息しようとしている人間を前に、原因追求なんて呑気なことをしている場合じゃない。
だいたい、こいつは何なんだ。事情通を気取っているが、うさん臭いことこの上ない。
「いいかあ、ああくいおおよ」
「事件当時、頭上の空はどんな様子だった?」
「そういえば、飛行機雲が七本、平行に走ってたっす」
「それは、等間隔だったか?」
「完璧に」
「それは、テロ警戒の信号フライトだな。もしかすると、不審な人物が見えて、マーキングするために餅を投下したのかもしれない」
「どういうことっすか」
「いや、考えたくないことだが……。なあウェイン、彼は君の友人か」
「え? ええ、まあ。それなりに」
ちょっと待て。軽くないか。
「本当の意味で友人と言えるか」
「そう言われると……知り合い、ぐらいの感じすかね」
いやいやいや、幼馴染みだよ。出会ってから十五年になるよ。
「じゃあ、警察に突き出そう」
こっちが喋れないと思って、勝手なことを! ウェイン、頼むから止めてくれ。
「でも、今のままじゃ窒息してしまいます。窒息すれば、貴重な情報が手に入らなくなってしまいます」
改まった口調でウェインが訴える。こちらを一瞥してウィンク。なるほど、ウェインは先輩の話に乗ったふりをして、この場から僕を連れ出そうとしてくれている。おおウェイン、君こそわが友。この恩は、いつかセクシーな形でお返しする!
とはいえ、どんな恩返しも生き延びてから。モチは既に口から喉、食道を降りて胸の上あたりまで張り出してきている。肺に達すれば、窒息死が待っている。
「待て、ウェイン。餅というのはな、理由なく使われたりしないんだよ」
「何のことですか」
「日本語には、餅は餅屋という言葉がある」
「餅のことは餅屋に任せておけ、ってことですよね」
「違う。餅は餅屋に対して使うのが、最も効果的だという意味だ。餅を以て餅屋を制す、というわけだ」
「えっ? こいつが餅屋ってことすか」
ちょっと待て、ウェイン。口調が戻ってるぞ。先輩のペースに飲まれるんじゃない。どうして僕がモチ屋なんだよ。
「ことはそう単純じゃない」
単純だよ。モチ屋じゃないんだよ。
「彼は餅屋ではない」
なんだよ、分かってるんじゃないかよ。僕もあなたを先輩と呼ぼう。声は出ないけど。
「彼はもち肌だ」
「え?」
え?
「知らないのか。もち肌だよ。文字通り、餅のような肌、という意味だ」
「それが何だっていうんすか」
「考えてみろ。餅みたいな肌だぞ。餅みたいに柔らかく、餅みたいに弾力があって、餅みたいによく伸びる肌。究極の柔軟性を獲得した肌は、もはや肌にして肌にあらず。それは変装の道具にもなる。ウェイン、しっかり見ろ。彼は本当にお前の知り合いか」
「そう言われてみれば、右の目の下……こんなところにほくろなんてなかった気がする」
いやいや、あったあった。幼稚園の頃からずっとあった。本気で言ってるのか、ウェイン?
餅が肺に到達した。いよいよもって、危険な状況だ。二人のバカみたいなやりとりに付き合っている暇はない。僕は二人を置き去りにして、DIYストアに向って走り出した。
「逃げた! 人混みに紛れて変装する気だ!」
そんな与太話に耳を貸している場合じゃない。今はとにかく、とりもちを手に入れるしかない。だが、とりもちについての具体的な情報は、何も得られなかった。モチを取ることができそうな物……だめだ。想像もつかない。
その時、ウェインの言葉が蘇った。
「そういう時は、餅を撒けばいいんだよ」
DIYストアでモチを撒き、それがくっつかなかった物、それこそがとりもちに違いない。
走ったせいで、モチが肺全体に広がってしまったのが分かる。酸素が遮られて頭の中が痺れ、わんわんと唸り声を上げている。これは、油断すると意識が飛ぶ。
店の入り口に立った僕は、おもむろに頭の上に手をやった。頭の上のモチは固まりかけていて、てっぺんのところにヒビが入っている。早くしなくてはならない。両手で掴んで勢いよく引っ張ると、頭皮が丸々剥がれる音がして、頭から血が吹き出した。
朦朧としていた意識が、痛みで鮮明になる。これはチャンスだ。とりもちを特定するんだ。
僕は、頭髪と頭皮と血にまみれたモチを、フロアに向って放り投げた。固まっていたのは表面だけで、モチはフォンデュに使うチーズのように店中に飛び散った。悲鳴を上げて逃げ出す人々が、とろけるモチと頭髪と頭皮と血に包み込まれ、床に突っ伏していく。棚に陳列された商品も、あるいは赤く、あるいは黒く染まり、蜘蛛の巣に絡め取られたかのように、その場から動かなくなった。
そう、何も動かない。僕の放ったモチの鎖から逃れ、自由を得るものの姿は、何一つとしてない。
モチを避けながら店内を歩き回っていると、再び意識が遠のくのを感じた。酸素も血も足りない。限界が近い。
――とりもちはないのか。
その時、背後から声がした。振り返ると、突然なぐられた。
「何してくれてんだよ! 店ん中、こんなにモチモチにしちゃってよ!」
モップを持った男は、器用にモチを絡め取っていく。
見つけた!
僕は男の持つモップに食らいついた。
最初のコメントを投稿しよう!