真ん中の座卓

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真ん中の座卓

   酔っ払いが多い町だから、色々あると思うよ。  佐野さんは新橋にある、行きつけの大衆酒場について話をしてくれた。  入り口には縄のれんがぶら下がっており、赤提灯がともる、財布にやさしい値段で酒とつまみや一品料理を出してくれるような、一般的な「サラリーマンが喜ぶオアシス」みたいな感じだそうだ。  カウンター席とテーブル席、それから予約してくれた団体用に座敷があり、いつもガヤガヤと賑わっているという。 「ただねえ、座敷には、左、真ん中、右って座卓が並んでいるんだけれども……」  真ん中にある座卓だけ、どんなに混んでいても客を案内しないそうだ。 「というか、常に『ご予約席』って白地に黒い文字で書かれた、立て札が置かれたままになっているんです」  二次会かなんかでやってきた、もうすっかりできあがった集団が入ってきたときも「あそこの座敷、空いていないんですか?」と訊かれて「すいません、予約席なんです」とカウンターで飲み物を作る女将さんが、謝っているところをしばしば、佐野さんも見たことがある。 「僕も気になって、店でホッピーを飲みつつ『あそこは、いつも予約だなあ』ってひとりごちたところ、たまたま相席していた人が『ああ、あれはねえ……』って教えてくれたんだよ」    相席していた、ランニングで短パン姿の老人は、店の常連だという。奥さんが亡くなり、ひとりで夕飯を食べるのも寂しいし、面倒だからと晩酌ついでに食事をして帰るそうだ。名前を、ゲンさんという。  ゲンさんは「真ん中は……出るんだよねえ」と両手を顔の前でだらりと下げながら前置きし、佐野さんに予約席になったきっかけついて話してくれた。  ゲンさんがまだ奥さんも健在で、佐野さんぐらいの年齢だったころ。  店でひとり、刺身の盛り合わせと白菜漬けをつまみにビールを飲んでいたら、座敷から「すいません、すいません」と連呼する声が聞こえてきた。  見ると、まだ当時は客を通していた、真ん中の座卓でしきりに若いサラリーマンが土下座を繰り返している。 若者の周囲ではにやにやしながら彼を小突く先輩、もしくは上司と思われる人間が赤い顔をして座っていた。  どうやら、飲み会にかこつけた「つるし上げ」をしているようだった。  土下座する若者はまだ新人だろうか、背中を丸め、うずくまるようにして土下座を繰り返している。その姿が面白いのだろう、彼らはゲラゲラと笑い、タバコの煙を吹きかけたり、枝豆の殻を頭に乗せて、当時はまだ現役だったガラケーで写真を撮ったりしていた。  ゲンさんは、自称「江戸っ子気質」で、沸点が低いらしく一言怒鳴って追い出してやろうと思い席を立ったが女将さんに「やめなさいよ」と制された。  酔っ払って説教して、謝らせるなんてひどいことをすると思ったが、自分にとっては客であり、ゲンさんにとっては赤の他人だ。 いい加減にしろと注意したとしても、酔った勢いで暴力をふるわれてはたまらないし、店にも迷惑だから、こらえてほしい。 女将さんも、ゲンさんに対して眉間に皺をよせながら頼んでいた。 見ると、周囲も嫌そうな顔で真ん中の座卓を見ている。  悔しいけれど、ゲンさんも哀れみの視線を若者へ向けるしかすべがない。    遠巻きにする空気と、酒が入ったせいで調子に乗っているらしき彼らは、若者にむかってジョッキに塩辛とわさびと入れ、そこへピッチャーに余っていたビールを注いだものを突きつけ、一気飲みしろと強要した。  若者が「やめてください」と断ると、次は仕事ぶりや、人格について大声で否定し始めた。聞くにたえない言葉で、ゲンさんも耳をふさぎたくなるほどだったという。  そんなやりとりが、一時間ほど続いたときだった。  若者がすっと立ち上がり、靴も履かずに、店の外へと飛び出してしまった。  無言で、まるで逃げるように早足で。  機嫌良く酩酊し、つるし上げにしていた周囲は追いかけることもなく、赤い顔で、へらへらとしている。 「なんだ?あいつ、逃げ出すつもりかぁ?」 「まさかあ、そんな度胸なんてないでしょう」 「明日になったらまた、真っ青な顔で来ますよ。ひゃははは」  苛立つような会話と、どこか自分たちを強く見せようとする感じがわかる雰囲気に、周囲がみな呆れ、静かになった。 「すいませんねえ、お騒がせして。支払いはあいつにさせますから」 「気分悪くさせてごめんなさいねえ、全部、あの無能が悪いんで」 「おばちゃんこっちピッチャーちょうだいよ、大至急ね」  無神経に注文する彼らに、女将さんが「はいはい」と苛立ちをおさえて、受け答えたときだった。  キキーッ!  ……ドスン、ゴロゴロゴロゴロ。  キャアアアアアアアアア!ウワアアアアアアア!  けたたましいクラクションと、重く鈍い衝撃音、同時に大勢が発する叫び声が外から聞こえてきた。 「事故か?おい、ちょっと見てきてくれ」 「う、うん……」  カウンターで刺身の盛り合わせを作っている大将に言われ、女将さんはエプロンも外さず出て行った。ゲンさんも慌てて、後を追う。  まさか、と先ほどまで威勢良く罵倒していた彼らも顔を見合わせ、慌てて靴をはき、飛び出した。  目の前は、いつもの騒がしく、焼き鳥やタバコ、酒のにおいがしてついフラフラと道草したくなる雰囲気が、すっかりかき消されていた。  電柱にぶつかり、ボンネットがぐちゃぐちゃになったタクシーがもうもうと黒い煙をあげていた。  運転席から、だらりと垂れ下がる片腕には、つうつうと赤い血が流れて、道路へしたたり落ちている。 「おい!あ、あれ……!」  さっきまで威勢良く酔っ払い、大声を出していた彼らのなかで、いちばん年長と思われるごま塩頭の男が、道路を指さした。  タクシーの先、店の斜め向かいにあるコンビニ前で、男が倒れている。  泥酔して倒れているわけではないことは、ゲンさんにもわかった。  白いワイシャツは血で赤黒く染まり、四肢が不自然にぐにゃりと曲がっている。仰向けになった顔は青白く、うつろなまなざしでコンビニの店内を見つめていた。口からは吐瀉物と、血が混ざったものが吐き出されて道路に流れ出して、嫌な色の水溜まりを作っている。  ゲンさんも目の当たりにしたが、もう亡くなっていることは誰が見ても明らかだった。  まだ将来もある、未来や可能性もいくらでもあったに違いない若者が罵倒され、土下座させられ、全てが嫌になって飛び出した先で轢死している。  若者が歩んできた人生に、笑顔になれることはあったんだろうか。  じわじわと視界がにじみ、こみ上げる悲しさと同時に、先ほどまでつるし上げにして、面白がっていた光景が流れてきて怒りが湧いた。  後ろでは「うわああああ!」と遅れて、叫び声があがった。 振り返ると、そこには先ほどまで真ん中の座卓で若者を罵倒し、酩酊していた彼らが、歯の根もあわないほど震えている。 「あれ、もう、やばいっすよね……」  ごま塩に、無精ヒゲの男が話しかけた。 「俺はただ注意しただけだ、そうだ、そうだよなお前ら?」  あたふたするごま塩に、若い奴らも「そ、そうでしょ、そう」としどろもどろになりながら、同意していた。 「と、とにかく、俺は課長の指示に従っただけですからっ!」  無精ヒゲが千鳥足で路地を出て、駅へ向かおうとしていた。そのあとを追いかけるように、金髪の男が、「待ってくださいよ!」と続く。 「おい、お前ら待てっ!」  へっぴり腰で追いかけようとしたごま塩だったが、足がもつれてうまく歩けない。  そのうちに「きゃああああっ!」と、倒れている若者の周りで、悲鳴があがった。コンビニ前に出来た人だかりが、ばらばら、ばらばらと崩れていく。    ずるり、ずるり、ぐしゃぐしゃぐしゃ。  ずるり、ずるり、ごきごきごき。  なにかが擦れる音と、鈍く砕けるような音が交互にして、人だかりはめいめいが手に持っていたガラケーをしまい、ちりぢりになって、駅に向かって逃げていく。  ずるり、ずるり、ぐしゃぐしゃぐしゃ。  ずるり、ずるり、ごきごきごき。  ずるり、ずるり、ぐしゃぐしゃぐしゃ。  ずるり、ずるり、ごきごきごき。  ぐじゃぐじゃ、ごきごき。  人だかりを崩した先に、ゆっくりと起き上がる、若者の姿があった。  まさか、生きているのか?  ゲンさんは目の前で、起き上がり、振り向いた若者と目が合った。  ……すいません。  若者はそう言って、がくんと膝を折りうずくまった。  ごま塩頭が「あ、あ、あああああ!」と叫んで、尻餅をつく。ぷうんと、濃いアンモニア臭が漂ってきた。  若者は、土下座をする姿のまま、こと切れていた。  あれ以来、真ん中の座卓で飲んでいると、若者が謝る声が聞こえてくるという。  すいません、すいません、すいません。  すいません、すいません、すいません。  罵倒した彼らも、どんな神経をしているのかその後一度だけ店に来たが「まだいる!あいつ、まだいる!」と叫んで、出て行ったそうだ。  佐野さんも「僕はもともと、そういうものは信じないほうだけれど、やっぱり気味の良いもんじゃないな」と付け加えた。  実際、その座卓で試しにつまみを注文し、飲んでみるかと思ったが、ゲンさんに「やめとけ」と制されたそうだ。 「冗談半分に刺激するもんじゃない、楽しく飲むことも知らないで亡くなったんだ、供養してやるのが筋じゃないのか?」  そう諭されて、佐野さんは後日予約席にと、女将さんに仏花を渡した。  以来、すいませんという声は控えめになったそうだが、「あそこはしばらく、予約席にしますよ。自分への戒めにもね」と女将さんは言ったそうだ。  もし、あんな場面がまた目の前で起きたら次は容赦なく、怒って店から放り出すつもりらしい。  佐野さんとゲンさんは、今でもその大衆酒場へ行くそうだ。
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