それを『なに』と、私は呼びましょう

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 沙希が食後に皿洗いを手伝っていると、 「沙希、ちょっと、ちょっと」 と、父親が台所の入り口でこそこそと手招きした。 「何だよもぅ」 と顔を顰める。手を拭きながら駆けつけると、右手をぐいっと引かれる。流石運送業、腕がもがれる勢いだ。後ろで心配そうに吉住が振り返っている気配がした。 「今日、大吾と喋ったか?」 「出掛ける前に寮でちょっと……、てか何で?」  まさか告白したことを父親にまで言ったのだろうか。暑さのせいじゃない汗が、タンクトップの背中を伝う。しかし父親は何だか言い難そうに唸る。 「いやちょっとな、あ~俺がマズイことを……」 「マズイことって、父さん、何を言ったの」  思わず沙希が声を荒げたので、シンクから心配そうに吉住が振り返っている。手を洗って、こちらに駆けつけん雰囲気だ。沙希は彼を安心させるように『だいじょうぶ』と唇をわずかに動かした。 「しー落ち着け。実は……まだ早いとは思ったんだが良い縁談があってな」 「……父さん」  そうだ、あの時も父が持って来た縁談であった。結局それは駄目になってしまったけれど。そのことを思い出して沙希の胸がわずかに痛んだ。 「いやいや勿論! 大吾には断られたさ、父さんも早まったことしちまったって反省しているんだよ」 「……大吾は特に、何も言ってなかったよ」  それについては。そう答えると父親は明らかに安堵したように「そうか、悪かったな」 と頭を掻いてその場をあとにした。残された沙希は台所に戻ることもできず、しばし暗い廊下に一人で立ち尽くしていた。 * * *
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