それを『なに』と、私は呼びましょう

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 その知らせを聞いたのは小六の晩秋、ソフトボールの大会から帰って来た時だ。沙希は四年生時の事故の影響で無理はしない程度に参加している。聞いたのは大吾本人ではなく沙希の父親からであった。早くシャワーを浴びて皆に試合の話を聞いて欲しい。本当の血縁者は、沙希には父親しかいないのだけれど。父親は一見すると髭まみれで、初見の人に『マフィアのドンです』と紹介するのが定番の笑いのタネとなっている。沙希が幼い頃に母を亡くしているが、男手一つで頑張って来たと思う。沙希の家は運送業をしている。個別に宅配はしないが、大きな運送会社の下請けで、県を跨ぐ時などに活躍している。従業員は家族同然でいつも家の中に誰かしらいた。玄関で靴を脱ぐのに難儀していると、廊下をギッシギッシと鳴らしてやって来たのは父親だった。最近とみに太って社長らしく貫禄が出たなぁなどと思う。 「二十日後、空けておけ。皆で盛大に結納のお祝いするからな」 「ユイノー?」 「婚約の儀式のことだ」 「は? 誰の」 「だから大吾だ、大吾のに決まっているだろう」  『大吾』というのは古谷大吾(ふるや だいご)という当時二十二歳の青年である。沙希よりちょうど十個年上である。元々社員の子どもだったが、父親の方は沙希が小さい頃にタンクローリーとの衝突事故で亡くなっている。沙希の父親はそのまま大吾を引き取り、高校卒業後、従業員として雇用している。この間大型免許を取ったばかりである。沙希とは産まれた時からずっと一緒にいる、お兄さんのような存在だ。 「品野運送からの縁談でな、そこの家の次女との話がまとまったんだ。……何だ、お前聞いていないのか?」  沙希は脱ぎかけていた靴に、再び足を通す。前屈みのまま俯いた。耳に掛けていた黒髪が顔の近くに音もなく落ちる。小学校高学年から今までずっと、沙希はショートヘアを貫いているが、夏から今までで少し伸びて来ていた。 「聞いてた、そういえば」  大嘘だけれども。そう答えて勢い良く立ち上がった。しめたことに、荷物はまだ降ろしていない。家に着く直前までチームメイトのみっちゃんこと藤田光代(ふじた みつよ)が『家に泊まれ』と言っていた。 「父さん、私。宿題一つ忘れてたわ。これやらないと明日学校行けないから、友達の家泊まってやって来る」 「何ぃ? 忘れてたのか、仕方がない奴だな。まぁ俺からの話はさっきのだけだから、気張って行って来い」 「分かった」  そう答えるとわずかに頷いて、夕闇の中を自転車も使わずに駆け出した。六年生になった沙希は、後遺症があるとはいえ、足にはそこそこ自信があった。やや走るうちに空は星で一杯に埋まった。濃紺の星空だ。もう少し小さい頃、高校生の大吾に連れられて自然科学博物館に行ったことが何度もあった。そこにあるプラネタリウムで、沙希は星を覚えたのだ。上向いて白い息を吐き出すと、 「なんで」 と誰にも聞かれるでもなく言葉を呟いた。白い吐き出した息は、まるで踊るように翻って闇夜に掻き消えた。もう、冬が近いのだ。そんなことに今気づくなんて。涙を流しそうなほどのさぁ、あぁ、そう。そういうの。沙希は自分が勝手に大吾に好かれていると、思い込んでいた。年齢も、立場もそぐわないというのに。かといって、沙希の方が兄のように育った大吾のことをどう思っているのか。本当のところよく分からなかった。とりあえず寂しい。婿に行くというのであれば、いなくなってしまうではないか。 「大吾」  幾度か名前を呼びながら足はひたすら止めなかった。ああ、しんどい。しんどいなぁ。めんどくさい、もぅ。ヘトヘトに疲れて来たところでみっちゃんの家の灯りが見えて来てやっと歩みを緩めた。 「沙希?」  自伝車を引きながら、街灯の下で声を掛けて来たのは岸田洋次だった。些か驚いたように近寄って来る。カラカラと自転車の音だけが静かな住宅街に響く。そういえば試合にも応援に来ていてくれた。 「あ、れ? お前帰ったんじゃなかったの?」 「ようじぃ」  鼻を啜りながら近づいて行ってその腰にしがみついた。自転車を支えている洋次は避けることができない。最初びっくりしたように右手で牽制された。 「ヤメロ! 鼻水をつけんな」 と、冷たく答えながらも、振りかざした右手で、突然優しく頭を撫でてくれた。洋次には年の離れた妹がいて、こういった子供っぽい態度に慣れっこなのだろう。宿題なんて嘘だ。でも、あの場から逃げ出して、大吾に逢わないですんでホッとした。結局その縁談はご破談になったのだが、その時の記憶が、今でも沙希を締めつけるようだった。 * * *
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