美しい世界

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美しい世界

 時間の流れなど人が勝手に決めたものだ。朝起きて、学校や職場に向かい、仕事をこなし家路につく。家についてからは各々の時間を過ごし、落ち着いたら眠りにつく。  このサイクルが日本の社会において常識的だとされているが、はたしてそうなのだろうか。こんなサイクルは、人が自分の都合で勝手に決めつけたものでしかないのではないか。  現に僕は平日の昼間なのに、学校にも行かず無料の動物公園の展望デッキでのんびり日向ぼっこに興じている。冬の穏やかな日差しに誘われて、どこかでのんびりしたいと思い辿りついたのがこの場所であった。僕は心地よい日差しに照らされながら、初めてここに来たときのことを思い返していた。  初めてここに訪れたのは先月である。正式名称は夢咲公園という市営の施設で、動物公園や展望デッキ、小さな売店などがある。  この場所自体は家からは何駅も離れているし、大学の最寄り駅からも離れている。そんな一見、見つけようがないこの場所を見つけたのは、僕の些細な趣味のおかげである。趣味と言えるほど立派なものではないのかもしれないが、僕は知らない場所を散歩することが好きなのだ。 知らない場所の散歩というより、散歩そのものが好きなのかもしれない。頭をからっぽにして、気の向くままに行きたいところに向かう。そういった無意味な行動を僕はこよなく愛していた。 さらに自慢することではないが、僕は重度の方向音痴である。そのため適当に道を行けばほぼ確実に知らない道に行くことができた。一見短所のように思える能力も、状況によっては長所へと成り替わるというわけだ。 そして初めて夢咲公園に着いたときも、僕はあてもなく降りたことのない駅で下車したのだ。知らない土地をうろうろしているうちに動物公園という看板を僕は捉えた。ここでこの看板に出会ったのもなにかの縁だ。そう思い三十分程迷子になりながら、この公園へとたどり着いたのだ。 最初は動物公園というのだから、入場料を払うものかとばかり思っていた。しかし入場口などは存在せず、気が付いたら右手にマーモセットという小型のサル舎が存在した。特に料金所のようなものは見つけられなかった。そこでようやくこの施設が無料であるということを察したのだ。 公園内には動物園特有の、獣臭さのようなもので満たされていた。夢咲という綺麗な言葉からは、かけ離れた場所だなとそのときは呑気に考えていたものだ。 しかし公園内は、想像以上に満足のいくものであった。無料なことにも当然驚いたが、それ以上に驚いたのは動物の種類の多さである。無料のわりには、ミーアキャットやペンギン、レッサーパンダなど動物園でも人気のありそうな動物が何種類かいるのである。規模こそ無料にふさわしいものであったが、無料でこれだけの動物を見られるならお得というものだ。 さらにこの夢咲公園は、わりと高地にあり、公園の端には見晴らしのよい展望デッキもあった。デッキからは町を一望することができた。柵の前にある古びた案内板によると、天気が良ければ富士山を拝むことも可能らしい。 そしてなにより平日の昼間だと人も少ない。当たり前のことなのだろうが、こんな場所に平日の昼間からよりつく若い世代の人はほとんどいなかった。そのことが何よりも、僕の気持ちを明るくしてくれる。 動物が見られるだけでなく、見晴らしもよい。さらに人口密度も低い。僕はすっかりこの場所を気に入り、学校が早く終わった日はここに立ち寄るようになった。 我ながら無意味な時間であると思う。それでも若い人が好みそうな騒音まみれの場所よりは、魅力的な場所だと僕は思う。こうして静かな場所で己の世界に浸る。些細だけど確実に幸福になる僕の手段だ。 見慣れた風景を眺めながら、冷静に今の状況を思い返してみる。大学での課題はいくつか溜まっているし、もうじき就職活動も控えている。考えるだけで死にたくなる。 しかしこの空間はそんな僕の悩みもすべて忘れさせてくれた。穏やかな風と踊る木々。騒がしく鳴き続けるオウムたち。忙しさの中に生きる人たちとは無縁な老人や子連れ。まるでこの場所だけが、時の流れから置き去りにされているような錯覚に陥る。ここには僕を急かす存在は一つもなかった。 もちろん実際には時は流れているし、向き合わなければならない問題も無言の圧力をかけながら近づいてくる。時間の流れから取り残されていると思うのは僕の願望であるのだろう。それでも今は、この錯覚を大事にし、僕の中へ溶け込ませていく。 しかしこのまま穏やかな時間がいつまでも続くことはない。時が止まることなど絶対にないのだ。時というのは無慈悲に前にだけ進み続ける。これは生きていくうえでは避けては通れぬ定めである。 叶わぬ願いをあざ笑うかのように、雲が太陽を一旦覆い隠す。 「時間がこのままとまってしまえばいいのに」思わず願望が口からこぼれる。  自分で口にしながら、あまりにも無茶苦茶な要望に思わず笑ってしまう。それでも願望が叶ったことを想像せずにはいられない。こうやって現実逃避でもしないと、なんだか頭の中がパンクしてしまいそうだ。 僕はどうしようもなくめぐる願望を押し殺すため立ちあがった。長時間座っていたこともあり、身体中が固まって思うように動かせない。体を大きく伸ばしてから深呼吸をする。体内に新鮮な空気が入り込み、濁りきった空気が外へと逃げてく。それと一緒に鬱憤も出ていったのか、多少気が楽になる。  凝り固まった体を慣らすように園内をうろついていると、一人の少女が視界に入った。 僕は彼女に怪しまれない程度に彼女を視界に捉えつつ、少し遠くを歩く。  前々からあの少女のことは気になっていた。この若い人間とは無関係であろう空間に、その子はかなりの頻度で現れるからである。かなりというより、僕が公園にいるときは必ずいる。  それだけでなく、彼女の格好はどこか変なのである。いつも寝癖でぼさぼさになっているセミロングの髪。学校の名前が書いてあるジャージ。しかも上下で別の学校だったりすることもある。またペンキなのか分からないが、色とりどりの汚れがジャージを鮮やかに仕立てあげている。この不格好な姿は、平日の園内では異質な空気を放っている。  しかしそういった格好を除いても、彼女の容姿はとても整っていると僕は思った。ぼさぼさではあるが綺麗な黒髪。小柄ながらすらりとした体つき。けだるそうにしている奥にある、すべてを見通すような黒い瞳。あまり日に焼けていない透明な肌。正直な話、彼女はかなり僕の好みであった。不思議な格好と整った容姿が相まって、彼女は浮世離れした存在のように思えた。  彼女を眺めていると、どうやら絵を描いているようだった。ラマの前に座り込み、一心不乱に鉛筆を走らせている。その一生懸命な姿が周りにいる小さい子どもたちと被って、とても可愛らしく見えた。  彼女のことを知ってみたいとは、始めて彼女を見たときから思っていた。もちろん、それが実行に移されたことはないが。僕が同年代のませた青年であれば、気さくに声をかけていたのだろう。「君はいつも絵を描いているけど、何を描いているんだい」たったこれだけできっかなど作れる。  しかし女の子とは、事務的なやりとりしかしたことのない僕には、そんな大胆な行動を起こす勇気はなかった。こうして僕はいつも通り、彼女を遠目に眺めながら、彼女を視界から消していった。  小さい頃からどうにも女の子に対して苦手意識のようなものが存在した。そしてその意識が無意識ににじみ出ているのか、僕の周りには女っ気というものが一切なかった。  苦手意識の元凶は僕にもよく分からない。ただなんとなく分かるのが、僕は女の子に嫌われることが怖くて苦手意識を持っているのだと思う。どれだけ斜に構えようと僕も男だ。やはり女の子にちやほやされたいのだ。  しかしそうした思いがあるからこそ、苦手に感じてしまうのだ。嫌われたくがないため、どうしても当たり障りのない答えしか述べることしかできない。これは僕自身、相当なストレスになるし、相手だって話していても面白くない。女っ気がないのはある種の必然であるというわけだ。  女の子に対してもそうであるが、僕は誰に対しても本音を言わず、上辺だけで人付き合いをする癖があった。 友達と一緒にいても、常に相手の顔色を窺い自分の本音を言わない。これがストレスとなり人付き合いを避けるようになる。そうしたせいにより僕には、恋人どころか友達と呼べるような存在もいない。きっとこういった、性格なのだろう。  この性格を直すべきだと思ったことは何度もあった。しかしそう簡単に直るものではなかった。性格とは簡単に直らないからこそ性格なのである。少しの努力で直るようなら、それは性格とは言えないのだろう。  気が付けば再びネガティブな考え事に取りこまれていた。気分転換に来たのに、ブルーな気持になってしまっては本末転倒である。 これ以上ここにとどまっていても、気分が上がらない。そう判断した僕は、重い足を引きずるように夢咲公園を去っていった。空はそんな僕をあざ笑うかのように、清々しい茜色に染まっていた。 「先月起こった、『夫婦刺殺』事件ですが、いまだに犯人は逃亡中。また犯人の特徴は、上下黒のジャージであるここと、身長百九十センチほどの男であるということしか分かっておりません。犯人がどこに潜伏しているか分からないので近隣の方は外出の際には気を付けるようにしていください。また何か手がかりになる情報を見つけた場合は……」  夜ご飯のカレーをつつきながら、ニュース番組を見ているが、最近はこのニュースばかりである。  頻繁にニュースを見ない僕ですら、うんざりするほど聞いているので、どのニュース番組でもかなりの頻度で流されているのだと考えられる。詳しい内容までは覚えていないが、とある一家に強盗が入りこみ、夫婦を包丁で刺殺したらしい。しかし金品などは一切盗らずに逃げたという。その一連の行動から、一家に恨みのある人物か、薬物中毒者の犯行であるという線が浮上しているらしい。そしてそのとき家には、夫婦の子どもがいたらしいが、たまたま自分の部屋にいたとかどうとかで難を逃れたらしい。  こんな凄惨な事件を起こした人物がいるということにも驚くが、それ以上に驚くべきことは、この事件があった現場がわりと家の近くだということだ。厳密に言うと、先ほどまでいた夢咲公園がある最寄り駅の一つ隣の駅らしい。  それだけ身近で起こった事件の犯人がいまだ逃走中だと言うことは恐ろしい。しかし、僕はどうしても自分の近辺に危機的状況が迫っているという、意識を持つことができずにいた。犯人はもう東京の方に逃げた、あるいはもっと遠くに行ったのではないかという、個人的な予想が勝手に沸いて出てくるのだ。 現に警察も、始めは地元を厳重注意していたが、現在は東京や他の県にまで捜査の手を拡大している。もちろん家の近くでもまだ警察は見るが、事件当初と比べると目に見えて減った。一緒にニュースを見ている母親も、「いやー恐いわねー」と完全に他人事である。  「これだけ身近で起こっている事件なのに、感心なさすぎでしょ」、と母親に突っ込んだが、「あなたも関心ないじゃない」と言い返された。そう核心をつかれたらぐうの音もでない。  いくら身近であろうと、こういった非現実の出来事とは自分の知らない遠い世界の話なのだろう。きっと僕も母親も、心の片隅でそう思っているのだ。いや、もしかしたら、人間とはみなそう思っているのかもしれない。  事件や事故に巻き込まれることなんて、誰にでもありえる。例えば、明日僕が学校を向かっている途中に事件に巻き込まれるかもしれない。また帰り道に車に引かれてしまうかもしれない。こう考えてみると、死とは意外と身近にあるものなのかもしれない。 しかしそれだけ身近にある死を、みんな実感として感じることができない。その理由は、全員が死と向き合わず、背を向けているからなのだと感じる。 本来は僕たちのすぐそばに寄り添っている死。しかし、そう言った可能性から目を背け、みなが能天気に生きているのだと思う。そして、なにかふとしたきっかけで、死が身近にあると再認識し、それに恐怖を感じる。あたかも突然死が迫ってきたと感じるが、実際には僕たちがそれから目を背けているだけなのに。  ……さすがにまだ死の危険に直面したことはないので、そこまでは分からない。でもそんなふうになるのだと僕は思っている。いや、そうあってほしいという一種の願望なのかもしれない。  死が自分の身近にないと感じてしまうとどうにも、生きづらくなってしまう。なにかあったとき、すぐにこの人生を終わらせることができる。そういった逃げ道があるからこそ、今ある生を全うすることができる。ネガティブな発言に感じるが、僕にはこれくらいの生き方が心地よい。  だからこそこんな状況下になっていても、危険かもしれない夢咲公園まで遊びに行っているのである。もしかしたら本心では、この人生が終わる瞬間を今か今かと待ちわびているのかもしれない。  しかしこのときはまだ、当たり前に生を全うできていることのありがたさをまったく理解できていなかった。そして死の危険が身近にあるということを、本当の意味で理解することもできていなかった。 夜ご飯を食べ終えてからは、自室に戻り本を読んで時間を潰していた。机の上には、大学での課題や、就活対策の本が無造作に広がっている。一応取り組もうとはしたのだが、どうにも熱が入らない。 今後必要なものには間違いないのだが、僕にはその必要性というものが感じられなかった。学校ではこれらの必要性を教えず、ただ頭ごなしにやることだけを進めてくる。周りはみんなやっている。これをやらないと絶対に後悔する。みんなと差がつく。 言い方は違えど、言っていることの本質は一緒だ。とりあえずやっておけ。理由なんてどうでもいい。 しかしそう、やれやれと頭ごなしに言われると、かえってやる気が削がれていく。そういった学校に対する不満の表れが現在の机なのかもしれない。 こんなくだらないことをやる必要性を説いてくれる人間がいたら、いくらでも取り組んでやる。そんな言い訳の下、僕は読書に興じていた。こんなのただの屁理屈だと分かっている。それでも今はその屁理屈に従い、時間を怠惰に過ごすと決めたのだ。  読んでいる本は、若い見知らぬ男女が夜の公園で逢瀬を重ね親睦を深め恋愛に落ちていくというものであった。一見ロマンチックなものに見えるが、互いの名前すら知らないという無関心な距離感に強く憧れた。 人との繋がりを過剰に大事にする風潮が僕は嫌いだ。人との距離が近ければ近いほど、出来ないことだって増えてくるからだ。それに誰だって、一人になりたい時間くらいある。そう言った意味では、今読んでいるような恋愛こそが、僕の理想なのだろう。  現実では斜に構え、恋愛おろか友人関係まで皆無な僕が、このような現実離れした恋愛小説を読んでいるのは実に馬鹿らしい。しかしそんな自分だからこそ、そのような物語を好んで読んでいるのかもしれない。 現実では確実に起こりえないため、空想の世界に自分が望む世界をイメージする。僕が出来ない経験を、物語の中にいる人物に体験してもらい、その経験を僕が読書を通して得る。本を読むことが好きなのは、そのようなことを無意識に行っているからかもしれない。  本を読む人間は、自分の世界にこもりがちだと母親に言われたことがある。その当時は自分を見透かされているようで、反発したがまったくその通りである。こうして自分の世界にこもり、外に壁を作っているから友達がいないのだろう。  己が行いしことは全て己に返ってくる。因果応報とはよく言ったものだ。それでも僕は、そのことに特別腹を立てたりはしない。これは自分から進んで選んだことなのだから。自分の世界にこもっているのだし、周りのことなど興味がない。ただ、空虚を埋めてくれる物語があればいいのだ。そう心に言い聞かせていた。 しかしこうして物語内の人物が、夜の世界に想いを馳せ外に飛び出していく話を見ていたら、僕自身も外に出てみたいと思い始めた。前々から感じていたが僕は物事の影響を受けやすいらしい。そしてその受けた影響は長く続かない。熱しやすく冷めやすいというものだろう。  外に行こうと決めてからの行動は早く、さっさと準備を終わらせて外に出ようと準備を始めた。準備と言ってもおしゃれをする必要はないので、近場にあるマウンテンパーカーと厚手のスウェットに着替え、財布だけを持ち外に飛び出してく。 これは散歩に行くときのポリシーみたいなものなのだが、散歩のときは荷物を極力持っていかない。かさばるから鬱陶しいとうのもあるし、携帯を持っていたら困ったときに助けを呼ぶことができるからだ。それにネットを使えば大概のことが分かってしまうからだ。僕の散歩において、それは無用なアクションであるのだ。 自分の目で見たものを、自分だけのものへと昇華していく。迷子になり困ったときも、自力で問題を解決する。そういったことにカタルシスを感じている一面もあるのだろう。 家を出る前に見た時計は、十一月二十二日の午後九時を指していた。そのなんの変哲もない時間が、深く印象に残ったことを今でもよく覚えている。    あれからどのくらいの時間がたったのだろうか。腕時計も携帯も持たずに家を出たので、時間が分からない。さっきコンビニの時計を見たときは二十三時頃だったのを覚えている。  散歩に行きたいと思い外に出てみたが、いつも通り目的地などない。そこでとりあえずあてもなく歩いてみることにした。適当に小道を歩いているうちに、あっという間に知らない道へと迷い込んでいた。  空を見上げてみると雲はなく、星がこちらを覗きこんでいる。田舎ではないので満点の星空とは言えないが、充分に綺麗な眺めだった。満天の星空というものを見てみたい気持ちもある。それでも今は、街から見える星空でも充分だと思える。  思いもよらない綺麗な景色に誘われ、ついついいつも以上に散歩をしてしまった。改めてここがどこなのか考えてみると、少し遠くに見覚えのあるものが目に付いた。 夜遅くなのでなかなか視野が悪くなるが、そこだけは夜更けを感じさせない明るさを放っていた。電車がその明かりの中へ滑り込んでいく。そしてしばらくしてから、大量の人がそこから溢れてくる。 知らぬ間に駅へと来ていたらしい。それだけでなく、その駅は夕方までいた夢咲公園の最寄り駅であった。適当に歩いて割には、結局知っている場所へと辿り着いてしまった。これも一種の帰巣本能のようなものなのかもしれない。 少しの安心感と、大きな落胆が押しよせる。一度知っている場所に出てしまったことと、静けさを一気に奪われた気がしたのだ。そして夜の静けさから引き離されるのを感じたとき、ふと夢咲公園に行ってみたいという思いが込み上げてきた。  当たり前のことであるが、夜中に夢咲公園に行ったことなど一度もなかった。昼までも、あれだけ人がいない場所だ。夜ならさっきまで味わっていた静寂を独り占めできるだろ。そう思うと居ても立ってもいられなくなった。僕は後先のことは考えずに夢咲公園へと歩みを進めた。  駅から夢咲公園に向かい始めて三十分ほどが経った気がする。正確な時間などもちろん分からない。それでも公園付近までたどり着くことができたとは思う。しかし一つだけ問題点があった。再び迷子になってしまった。散歩の際は長所になっても、いざ目的地を目指そうと思うとやはり短所へとなってしまう方向音痴。  公園を目指してすぐに、駅近くにあった喧騒は消えていった。再び訪れた静けさに誘われ、僕はいつもと違う道を使い公園を目指した。しかし元来の方向音痴と街灯の少なさが相まって、すっかり方向感覚を失ってしまったのだ。僕はその本能に素直に従い、公園を目指した。  ただ、いつも使っている道を使っていては、せっかくの散歩なのに楽しくない。そう思い裏道を使っていった結果、街灯のまったくない暗がりの道に出てしまったのだ。 周りを見渡してみても家が近くにある様子はない。右手に沈黙を解き放つ夜の学校、左手にはなんの遊具もないベンチとささやかな木だけの寂しげな広間があるだけだ。そんな不気味な通りを、ただ月の明かりだけがぼんやりと照らしている。  昼間なら学校もあるのだし、特に不気味さを感じることはないのだろう。それでも、学校や、公園のようなものは夜になると変貌する気がする。もとより人が大勢いる場所なのに、一切の人がいない。その一種の異常性が、不気味な感じを連れてくるのだろう。  そして人工的な明かりのない自然な暗さは、人の心を不安にさせる。僕は急に明るいところに行きたいという思いに駆られた。先ほどまで求めていた暗闇と静けさに恐怖を抱いてしまったのだ。  冷静に考えてみれば、こんな夜遅くに夢咲公園に入ることなどできるわけがない。いくら無料とはいえ、動物たちを管理しているのだ。イタズラ防止などを含め、敷地内に入れるわけがないと思い至った。  それに仮に入れたとしても、先客がいる可能性だってある。あれだけ人気が少ないところだ。ろくでもない連中のたまり場になっている可能性だってある。  不安な気持ちにあおられて、僕はここから引き返す言い訳をいくつも考えていた。別にそんなこと考える必要性などないが、怖いから帰るというのはなんとも情けない。そこに実に合理的な言い訳が思い浮かんだのだ。 無事逃げ出す理由も考えついたので、元の道に戻ろうと僕は後ろを振り返った。相変わらず道は真っ暗であるが、先ほどより恐怖心は薄れている。しかしさっきとはわずかに異なる部分があった。  道が暗いため、しっかりと確認することはできないが、十メートルほど先にある坂道に男のような人物が立っている。その姿をはっきりと捉えることはできなかったが、遠目からでも感じることがあった。これは絶対に危険だと。  ただの通行人の可能性だという考えもある。しかしとてもそうとは思えなかった。あの男からは他の人からは感じられない、異常性のようなものを感じる。体の奥底、原始的な感情がこれは危険だと察している。  あいつからは絶対に離れたほうがよい。本能がそう叫んでいる。しかし逃げ出したい本能とは裏腹に、体は身動きをとれないでいた。足がすくんでしまい、少し後ろににじり下がるくらいしかできない。心臓が逃げろと、いつもより早めの鼓動を打ちつける。それでも体は動かない。  僕が怯えているのを遠くから察したのか、男は徐々に距離を縮めてきた。逃げ出したいのに体は動かない。そうしているうちに男は僕との距離の縮め方をどんどん早めていった。軽く走ってきているはずが、とんでもない速さでこちらに向かっているように感じる。  八メートル、七メートル、六メートル。距離が五メートルあたりになったとき、相手の手に月明かりを反射する鋭利な物体があることが確認できた。  四メートル、三メートルになり男が上下黒のジャージであるここと、かなりの高身長であることが分かった。脳裏にちらりと、今晩見たニュースがよぎる。  二メートル、一メートル。男の顔をはっきりと捉えることができた。息遣いは荒く、目は血走っている。とても正常な状態の人間には見えなかった。  零メートル、そして腹部に襲い掛かる強い衝撃。それから気の遠くなるような痛みが、全身を駆け抜ける。そこから先の記憶はひどく曖昧であった。ただその痛みが何度も続いたことだけは、はっきりと覚えている。  腹部から生暖かい液体が流れ落ちるのを感じた。手に取り顔へ近づけてみると、生臭いにおいがする。時間が経つにつれ、全身の力が抜けていく。それから立っているのもままならなくなり、地面へと倒れ込んだ。  それからどのくらいの時間がたったのかは分からない。先ほどまであった激痛は徐々に遠のいていき、自分の意識も遠のいていくのを感じる。前の方からは男の荒い息遣いと、それに混じった不気味な笑い声が聞こえる。  まぶたがどんどん重くなっていくが、それに抗うように僕は空を見上げようとする。体を仰向けにしたとき、腹部に外の空気が触れ激痛が走ったがそれもすぐに引いた。 腹部の状態が気になったが、それを確認することはやめた。今確認したら、そのまま気を失ってしまいそうだ。きっともうすぐ、僕の意識は永遠の眠りにつく。その前に少しでも多く、この世界を目に焼き付けておきたかったのだ。 遠のく意識の中から見た夜空は、街灯の少なさのおかげで月が綺麗に光を降りそそいでいた。そして駅近くでは見られなかった星空も、美しい輝きを放っていた。 両手を伸ばせば、星たちをつかめそうだ。伸ばした両手は、ただ空を切った。それでも全然気にならない。  「ああ、この世界はなんて美しいのだろうか」  自然とそんな感想が心から溢れてきた。今までこれだけ綺麗なものを、当たり前だと思ってみてきたのか。僕がどれだけ日常の美しさを見落としていたのかが、今更分かった。  そしてその想いを最期に、僕の意識は完全にこの世界から離れていった。意識が消える直前、昼間に公園で願った願いが強く脳内で反芻されていく……
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