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美しかった世界
「ねえ、私の話聞いてるの?」
浦見さんにそう言われて、ようやく彼女の声に気がついた。どうやら、彼女の声に一切気づけないほどに考え事に没頭していたようだ。
目の前には、いつだか一緒に見たチリーフラミンゴが、相変わらずのびのびと檻の中での生活を堪能している。昨日の話とは打って変わって、この夢咲公園は今日も穏やかな時間が流れている。
「ごめん、少し考え事をしてた」
「さっきからずっとそんな調子じゃない。私はあなたにそんな顔をしてほしいから、昨日の話をしたわけじゃないのよ」
彼女の言うことは正論である。なにも僕からの同情がほしくて、自分の環境を話した訳ではないだろう。それでも、気にするなと言うのが無理な話である。
予想でしかないが、彼女が知らない僕の話、そして昨日の彼女からの話。それらが繋がっているからこそ、時間が繰り返されるようになったのだから。そしてその事実を知っているのは僕だけである。
「その日は学校が終わってから、特に寄り道をせずにすぐに家に帰ったの。それからすぐに自分の部屋に戻って、絵を描こうとしたら下の方から、インターホンが鳴る音がしたの。その日はたまたま父も母もいたから、下で母が応対しているのがわかったわ。それから間もなく母親のうめき声が聞こえてきたの。そのあと急いで玄関に駆けつける音と、父の怒号が聞こえたわ。その声もすぐに断末魔のようなうめき声に変わったけどね。それとその声に交じって、知らない男の高笑いも聞こえてきたわ。下の状況は見に行けなかったけど、これは危険だとすぐに察知することができたわ。だけど私は部屋の隅に縮こまって、がたがたと震えることしかできなかった。本当に情けない話」
そういって一呼吸置いた。彼女自身、あまり思いだしたくない過去なのだろう。
「それからしばらくしたら、下の方から近所のおばさんの叫び声が聞こえてきたの。多分玄関から出ていく血まみれの男をみて、すぐに家に駆けつけてくれたのね。その段階で命の危機は去ったのだろうけど、それでも私は部屋から出ることはできなかった。分かっていると思うのだけど、私はとても憶病なの。それからしばらくしてから警察が来て、その際に私も保護される形になったわ。保護されてからは簡単な事情聴取をうけて、親戚の叔父が迎えに来るのを待ったわ。聴取自体も、私はほとんど事件を見ていないし、そこまで時間がかかんなかったことは覚えているけど、他はほとんど記憶にないわ。ただ、警察官の憐れみを持った態度がなんだか気に入らなかったのだけは覚えている。それが終わったら一駅隣にある叔父の家へと案内されたわ。始めは遠くに行った方がいいんじゃないかって話もあったけど、この時期に学校を変えるのは大変だろうって理由から、叔父の家から学校に通うことになったの。それから今に至るまでずっと、叔父の家に住まわせてもらっているの」
彼女は淡々とした口調で続ける。確かにその話し方なら、物語に出てくる不幸な少女の話のように思える。ただこれは、目の前にいる女の子が体験したリアルな話である。
「もちろんこの段階で犯人の男を恨んではいたけど、別に今ほど恨んでいなかったと思うわ。そのときはただ、平穏な家庭が崩れ去ったことが悲しかったという印象ね」
彼女は話を続ける。どうやら、まだ話には続きがあるようだ。
「事件から一週間近くは叔父の家に引きこもっていたわ。それから学校に戻ってから、私を取り巻く環境ががらりと変わっていることを実感させられたわ」
「それはいじめとか、そういったものが発生したとか?」
「いや、そうじゃない。むしろその逆。教室に行ったら、クラスメイトの全員が気持ち悪いほど暖かく迎え入れてくれたわ。恐らく担任の先生から、そういった話があったのでしょうね。いつもは話さないような人たちからたくさん優しい言葉をかけてきたわ。本来ならそこに感謝するべきなんでしょうけど、私にはどうもそれが出来なかったの。なんだかとても気持ち悪い気がしたの。最初はその原因が分からなかったけど二、三日してその理由が分かったわ。クラスメイト達は本心から私に優しくしているのでなく、私に手を差し伸べる自分に酔っていただけなの。家族を凄惨な事件で失った少女に手を差し伸べ、それを救えるのはこの私だっていう自意識を感じるようになっちゃったの。そうなったらすぐに我慢ができなくなったわ。あるとき、クラスの中心にいるような女に優しい風な声をかけられたとき、我慢の限界を迎えて「これ以上話しかけないで!」って叫んだの。そしたら「せっかく気を使ってやったのに」とでも言いたげなこと言って去っていったわ。それからクラスの女の大半は、私に寄り付かなくなったわ。それでもまだ寄りついてくるようなやつもいたわ。あるときは、禄に話もしない男に、「どこか一緒に気晴らしに行かないか」と声をかけられたわ。クラスにうまく馴染めなくなった私に気を使っているつもりだったのだろうけど、下心が丸見えだったわ。あわよくば私の体でも狙おうとしていたのかは分からないけど、それが気持ち悪くて、教室内で思いっきりビンタしてあげたわ。そしたら罵声を浴びせて教室からいなくなったわ。その一件の後は、私に寄り付く人間は完全にいなくなったわ。当然、私を嫌う人間も出てきたし、そうでなくても心がおかしくなったかわいそうな少女っていう見方をする人間ばかりになったわ。もうクラスメイトの瞳には、私の本来の姿というものは完全に消え去っていたのだと思う」
彼女の言いたいことはなんとなくだが分かる。彼女は物事の本質を大事にする性格なのだから、彼女自身がそういった姿でとらえてもらえなくなったのが辛抱できなかったのだろう。
「それからは学校にも通わず、家に引きこもるようになったわ。担任から学校に馴染めていないという連絡があったのかは分からないけど、叔父たちはそのことを咎めたりはしなかったわ。だけど叔父たちも私との接し方を変えていったわ。なにを言っても、なにをやっても私を肯定するようになったの。完全に腫れものを扱うような接し方になった。それが気持ち悪くて、私は与えられた部屋からほとんど抜け出さなくなったわ。そんな誰の目にも映らない日々が、どんどん自分の世界から色彩が失わせていくのが分かった。それが耐えられなくて、気晴らしもかねて夢咲公園に絵を描きに行くことにしたの。だけどいざ鉛筆を握ると、前みたいに絵を描くことができなくなっていた。私自身そのものの本質を捉えることができなくなったし、色覚が失われて暗いものしか描けなくなっていたの。目に見えるものの色はしっかりと判別することはできるのだけど、キャンパスがそれを受け付けなくなったという感覚ね。結果として、今描いているような不気味な絵しかかけなくなったわ。私はその絵が大嫌いだった。そんなとき、叔父たちがどんな絵を描いてるか見せてほしいと言ってきたことがあったの。私はどうでもよくなって、その絵を見せたわ。そしたら不気味な絵をみて、驚いたあげく、顔を引き攣らせながら「良い絵だと思う」って二人揃って言ったわ。あのときは怒りを通りこして笑えてきたわ。もうどうでもよくなって、スケッチブックを奪って部屋に戻ったわ。そうして今に至るの。私はこの現況を作った、あの男が許せないの。だから、自分の手であいつを見つけ出して殺したいの。あいつを殺せたら、少しは私の世界の色彩が戻る気がするの。それが今の私のすべて」
後半になるにつれ、彼女が感情的になっているのが分かる。表情も初めて会った頃の刺々しい雰囲気に変わっていた。
「そうして犯人探しと、絵を描くだけの日々を過ごしていると変化が起こったの。ある日を境に、同じ日を繰り返すようになった。男を殺したいと思っている私からしたら、迷惑この上ない話だったわ。そして理由は分からないけど、その元凶が夢咲公園にたまに来る男の子だって確証があった。私は殺しのデモンストレーションもかねて、その人を殺すことを決心したわ。だけどそのとき分かったけど、私は事件以来人の死に対して過剰に反応をするようになっていたの。いざ、殺そうとすると恐怖で体がいうことを聞かなくなったわ。そうしてのうのうと行きのびている元凶は、あろうことか私と積極的に関わろうとしてきたわ。始めはとても不愉快だった。だけどいくら拒絶しても、その人は私との関係を諦めようとしなかったわ。そしてついに私が折れて、絵を見せることになったの。そしたらその人は、私の絵を見て不気味だとはっきりと言ってくれた。そして、それを踏まえたうえで美しいとも言ってくれたの。あの事件以来、初めて私をしっかりと見てくれる人に会えてとても嬉しかった」
彼女はそれだけを告げて、僕の方へと体を向ける。表情は先ほどまでと打って変わって、とても穏やかなものになっている。
「私の絵を綺麗という変人さんのおかげで、今の生活も悪くないと思えるようになったの。だから私は、もうあなたに死んでくれとは言わない。代わりにあなたが満足いくまで、私と今の生活を続けてほしいの。それが今の私の願い」
そう告げた彼女の顔は、真っ赤であった。それが夕焼けのせいでないというのは一目で分かった。だけど、今はそんな彼女の美しすぎる顔を直視するのがただつらかった。
浦見さんの懸命な告白により、どうして彼女が時間を進めることに固執しているのかが分かった。しかしそれは、同時に僕がどれほど罪深い行いをしているのか自覚するきっかけとなった。
すべてのきっかけとなった、11月22日の殺人事件の犯人は、例の刺殺事件の男だ。そしてそいつが初めに殺害した人物が、彼女の両親である。そして現在、彼女が時間を進めてまで殺したい男。
なにも関わりのないように見えた僕たちは、こうして殺人者を通じて繋がっていたのだ。もっともこうした不吉な因果があったことにより、二人だけこの呪われた時間に囚われた可能性もあるが、今更そんなことを確認する術はない。それより大切なことは、今これからをどうするかだ。いるかも分からない神に祈ったところでどうにもならないのだ。
この呪われた時間を引き起こしたのは、僕の死だ。そして、彼女の本質を惑わしているのが例の男。彼女を復讐の檻へと閉じこめていたのは、あの男と僕だったのだ。
例えるなら目の前にいるフラミンゴが彼女で、僕はそれを取り囲む檻だ。確かにそうやって考えてみると、以前彼女が言っていた檻の中に幸せがないというのにも頷ける。
では、今の僕には一体なにができるのだろうか。いや、そんなことは考えるまでもなく、答えは出ている。今まで僕はそのただ一つの答えから背を背けていただけなのだから。
昨日、彼女から話を聞いてからずっとそのことだけを考えていた。ようやく、この呪われた時間を元に戻すときが来たのだ。それが意味することは言わなくても分かっている。それでもいつかは向き合わなければならない問題だ。
もちろんただで、元通りにするつもりはない。この呪われた時間が動きだしたとき、浦見さんが少しでも生きやすいと感じる世界を作ってみせる。そのために、もう一人の元凶は僕の力で消し去ってみせる。
彼女は、この時間が動き出したらあの男を殺すと宣言していた。それが実現できるかは不明だが、仮に成功したら彼女は犯罪者へとなり下がってしまう。
男を殺して世界から色彩を取り戻せたとしても、待ち受けているのは灰色の人生になってしまう。そんなことはあってはならない。彼女にはもっとまっとうな人生を歩んでほしかった。
それに比べて僕は、どうやっても待ち受けているものは未来のない死のみである。それどころか、あの男の居場所まで知っているときている。これほど都合のよい人物は他にはいないだろう。
もちろんこの選択が過ちであることは分かっている。ある意味では、この長い時間をかけて、彼女の世界を少しずつ平和的に取り戻すということのほうが賢い選択なのかもしれない。その気になれば、時間は永遠にあるのだから。
それでも僕はその選択をすることはないだろう。彼女は男への復讐を遂行して、初めて自分の世界が取り戻せると言っていた。つまり彼女の中ではそれこそが絶対的な答えなのだろう。
そして少なからず、僕もその意見に賛同している。そうなってしまえば、答えは揺るぎようがない。社会的な正しさなど知ったことではない。
再び想像の世界へと迷い込んでいると、右足に可愛らしい衝撃が走る。我にかえり、すぐに衝撃の正体が分かった。隣にいる彼女は、あからさまに拗ねた表情をしている。
「いい加減にして。いつまで考えしているつもりなのよ。少しは私の話し相手になりなさいよ」
お願いをされているのか、命令されているのかよく分からない。僕が「ごめん、もう大丈夫」とつげると、「それなら許す」と平坦な口調で返ってくる。
この呪われた時間も、今日で終わりを告げる。それなら今くらい、目の前にあるこの幸福な時間を存分に楽しもう。これから過ちを犯す人間にも、それくらいの権利はあってもよいだろう。
「じゃあ今からどうしよっか。またどこかで絵でも描くの?」
「いや、絵はいいかな。それより、展望デッキにいきたい」
彼女からの提案に素直に従い展望デッキへと向かう。今更気がついたのだが、彼女と夢咲公園の展望デッキでゆっくり過ごしたことはなかった。
初めて僕らの関係が生まれた場所。そして、幾度となくカッターを向けられた場所。彼女と会う場所は常にここであったが、この場所にそれ以上の意味など存在しなかった。しかし、始まりと言えるこの場所が、僕たちの最終地点になるというのも悪くないものだ。
二人並んで、ベンチに腰を下ろす。展望デッキからはいつもと変わらぬ景色が広がっている。
「ねえ、そういえば……あなたはどうして、ずっとここにいたの? 毎回ここで私を待っていたけど、なんか理由でもあったの?」
彼女が歯切れの悪い聞き方をしてくる。そんな彼女らしからぬ聞き方に疑問を感じたが、その疑問もすぐに消えていった。
「理由を聞かれると困るな。一言で言うならここが穏やかな場所だからかな」
「一言で言わないで教えて」
「そうなるとまた変なこと言っていると思われそうだな。でも強いて言うなら、ここが時間の流れから取り残された場所のように感じたからかな。この公園自体が人も少なくて、慌ただしい感じがしないんだけど、ここから外の景色を見ていると特にそう感じるんだ。なんていうか、この場所だけが時間から切り取られたような空間のように思える。……まあ、今は本当に世界中の時が止まっているんだけどね」
「そうなんだ……」
彼女から歯切れの悪い返事。そして沈黙が周りを包む。なにか変なことを言ってしまったのだろうか。僕の変な考えに共感してくれると思って、ぺらぺらとしゃべってしまったが、さすがに今回は引かれたか。
不安になり彼女の方を見てみると、なにか考え事をしているようだった。どうやら気に障ったわけではないようだ。
「あの……」
それからしばらく沈黙が続いたあと、彼女の方が消え入りそうな声で話しかけてくる。
「今日、弁当作って来たんだけど、もしよかったら一緒に食べる? 一応あなたの分もあるんだけど……」
そうつぶやきながら、トートバッグの中から可愛らしいお弁当箱を取りだした。彼女がどうして、あんなに歯切れ悪い返事ばかりだったかようやく理解できた。
さっきからこの弁当を出すタイミングを窺っていたのだろう。そのためにとりあえず、話題作りをと思い、さっきの話を切り出したのだろう。そうした彼女の真っ直ぐであるが故の不器用さというものが、たまらなく愛おしくなった。
「君が作ったものなら、どんなものでも喜んでいただくよ。ところでこれに毒が入っていて、僕を毒殺しようとかじゃないよね? さすがに毒殺されるのは嫌だよ」
「そんなことしないわよ」
彼女は頬を膨らませながら、僕の右肩を殴った。だけど痛みはほとんど感じなかったし、彼女の表情も柔らかいものだった。
弁当箱を開けてみると、可愛らしいサイズのサンドイッチが敷き詰められていた。彼女自身があまり料理をしないから、手の込んだものは作れなかったらしい。それでも、彼女が精一杯作ってくれた事実そのものが僕には嬉しかった。これでいつだか、僕が願っていた思いはすべて達成された。
それからはただ穏やかな時間だけが過ぎていった。二人並んで、ご飯を食べながら様々な話をした。内容は特別重要なものではなく、くだらないものばかりだったが、それでも彼女との会話が周りの景色に溶け込みとても心地よいものであった。
こうしてゆっくり話せるのはこの時間が最後だ。それでも、僕はそのことを彼女に告げる気はなかった。今の彼女ならそのこと言えば止めてくれるだろうし、復讐なら私がやると言いだすだろう。
だけど、僕は彼女に復讐なんてしてほしくなかった。ただのわがままであるが、彼女には美しい姿のままでいてほしかった。不思議と不快感がない平坦な声。ときおり見せる控えめな笑顔。そういったものを失ってほしくなかった。
時間が過ぎるのはあっという間で、気がつけば駐車場を閉める時間だというアナウンスが流れてくる。結局、今までずっと二人でベンチで話し込んでいた。外の景色はすっかり茜色へと移り変わっている。
名残惜しいがそろそろ別れの時間だ。いつまでも一緒にいたかったが、僕も今夜の準備が必要だ。
「そろそろ暗くなるし帰ろっか」
「.......そうね」
彼女も名残惜しそうに立ちあがる。彼女が僕との別れを惜しんでくれる。それだけでも、僕にはたまらなく幸せだった。
「せっかくだし家まで送っていくよ」
僕がそう告げると、嬉しそうに「お願い」と返事が返ってくる。
展望デッキ側の出口から坂道をくだり、大通りへ抜ける。街中では、家路に向かう人や、買い物に向かう人で賑わっている。その道を二人並んで歩き、十五分としないうちに彼女の家へと到着した。
彼女の家。正確には居候させてもらっている叔父の家は、とても綺麗な一軒屋であった。特別豪華というわけではないが、手入れが行き渡っており清潔感に溢れている。とても、彼女のいうような居心地の悪い空間には思えなかった。
「今日は送ってくれてありがとう」
名残惜しそうにお礼を言われる。正直に言えば、名残惜しいと思っているのは僕の方だ。できることならこのままいつまで一緒にいたい。しかしそうするわけにもいかない。
「気にしないでいいよ。……じゃあまた明日ね」
右耳に手をかけながら別れを告げる。迷った末に僕は彼女に嘘をつくことにした。ここで僕がやろうとすることを彼女に悟られるわけにはいかないからだ。
「.......うん、また明日」
そんな僕の姿をみて、彼女も寂しそうに別れを告げる。そのときの僕は、彼女が僕との別れが惜しくてそういった顔をしているとしか考えが及ばなかった。
忘れ物がないことを再三確認してから家を出る。外はすっかり明るさをなくし、月明かりが街を照らしている。まるでこれからの僕の道を示しているようだ。
母親には少し散歩に行ってくると言って、家を出た。正直これが最後の会話だと思うと、辛いものがある。だけど人はいつ最後の別れが訪れるかを知らずに生きている。
そして無意識のうちに永遠の別れをしている。そう考えると、最後だと分かっているだけでも幸福なのかもしれない。 そうして僕は、母親との別れを淡泊に済ませた。
駅に向かう途中、ポストへと立ち寄り鞄をあさる。その中から三通の手紙を出し、うち二通をポストへ投函する。一通は家族に宛てたもの。そしてもう一通は浦見さん宛てだ。
両親には感謝をしていたし、これからとんでもない親不孝をしようとしているのだ。それについて詫びた言葉と、感謝の気持ちを連ねたものだ。
浦見さんには今までの感謝と、僕からの願いを記しておいた。すでに死んでいる人間から手紙がくるのは迷惑かと思ったが、それくらいのわがままは許してほしい。そのために、わざわざ家まで出向き住所なども調べたのだから。
彼女は僕からの手紙が届いたらどんなリアクションをしてくれるのだろうか。勝手に復讐を行ったことに憤るだろうか。それとも無関心か。それか僕のために涙を流してくれるのだろうか。どちらにせよ、そのころには僕はこの世界に存在しない。犯罪者として名前が残り続けるだろう。そんな僕にできることは、出来る限り彼女と関わらないことなのかもしれない。
23時になる前の電車に乗り、夢咲公園へと向かう。電車の中には仕事終わりの会社員や、大声で存在を主張する酔っ払いがほとんどであった。電車内は平日の夜独特の、雰囲気がただよっている。
今までであれば不愉快この上なかったのだろうが、今はそんな不愉快さは一切感じられない。この景色を見られるのももう最後だ。僕はこの世界と別れを告げるため、目に移るものすべてを肯定的に受け入れられるようになっていた。
そんな無秩序の風景を一通り楽しんだ後、忘れ物がないかを再度確認する。今日の帰り、ホームセンターで買った包丁とロープ。それと小さな脚立。あとは先のポストで唯一投函しなかった一通の手紙。特に忘れ物はなさそうだ。
包丁は男を殺すために用意したものだ。正直、刃物を持った殺人者に包丁一本で勝てるかと言われたら自信はなかった。しかし、さすがに銃などを用意できるわけもないので、これくらいしか凶器になるものが思い浮かばなかった。それに、己の命を顧みずに殺しにいくのだ。それなら多少有利にもなるかもしれない。
それに問題は男を殺したあとにも残っている。ある意味ではそれが最も重要な問題かもしれない。
仮に男を殺害できた後、僕は日が変わるまでの間に自殺をしなければならない。ここでもたついてうっかり日が変わろうものなら、繰り返しが発生して僕の努力が水の泡になってしまう。
その自殺のために用意したものが、ロープと脚立である。極力、苦痛の伴わない自殺方法を考えたとき思い浮かんだのが首つりであった。さっき家で調べたのだが、うまく実行に移せば一番苦痛なく、なおかつ確実に死ねる方法がそれであった。
それに僕があの男と出会った場所には、遊具がない広間があった。僕の記憶が正しければ、その広間にちょうど良く首が吊れそうな木もあったはずだ。
そして最後に、さっき投函しなかった一通の手紙。この手紙は言うまでもなく遺書である。これは、関係のない人が濡れ衣を着せられないようにするために用意したものだ。あの男を殺害したあとに、僕もその男の近くで自殺する。それなら誰がどうみても、僕が殺したと分かるだろう。しかし何が起こるかも分からないので、念のために遺書も用意しておいた。
遺書には、たまたまニュースで話題になっている男の居場所を見つけたということと、その男が許せなかったので、殺害しようと思った旨を記載してある。それと、周りの人間に迷惑をかけたことへの謝罪などもこめてある。これなら確実に僕を殺人者として扱ってくれるだろう。
万が一この遺書が偽造されたものだと疑われても、家族に届くはずの手紙と照合すれば、筆跡などが一致するだろう。そういった保険も含めて、手紙を用意したのだ。
大丈夫。絶対にうまくいく。成功したことにより多くの人間に迷惑がかかるだろうが、僕自身の正しさを証明するため絶対に成功させる。改めて己の心に誓い、夜の夢咲公園へと進んでいく。
携帯で時間を確認すると、時刻は23時半前を示している。予定よりも随分早く目的地に到着したようだ。前回は、ふらふらと彷徨った末にこの場所に到着したので、うまくここに辿り着く保証はなかった。そのため大目に時間のとってきたのだが杞憂に終わったようだ。
周りを見渡してみても、男がいる気配はない。それどころか一切人が通るような気配がない。確かにこれだけ、人通りが少ないなら殺害には打ってつけかもしれない。今の僕には都合がいい。
それから、男が来るまでに広間にある木にロープを結びつける。どうやら僕の記憶通り、気は程よい高さに枝が伸びていて、首つりには打ってつけであった。脚立を使い、枝にもやい結びでロープを結ぶ。同様の結び方で頭を通す部分も作っていく。
家での予行演習があったおかげか、苦労することなく準備も完了した。周りを見渡してみても、まだ男が来る気配はない。
完成した輪っかに満足しながら、隣にあるベンチに腰を下ろす。これから男を殺して、自殺を図ろうとしているのに不思議と心は落ちついていた。強いて不安を言うのなら、うまく自殺できるかということと、この状態で警察にあったら大変だなーという呑気なものである。
思うに、今落ちついていられるのは、この世界と別れるための時間を充分に取れたからだろう。幸か不幸か、僕は今日が人生最後の日だと自覚しながら生活をすることができた。それなら今更慌てふためくということもないだろう。
それに一度殺された時と、今では状況が全く異なる。あのときは特別な人間などおらず、一人寂しく死んだように生きてきた。だけど今は違う。
この呪われた時間の中で浦見さんと話すようになり、彼女は僕にとって大切な存在へとなった。その彼女のためなら、どんな過ちでも犯そう。少しでも彼女が生きやすい世界になるなら、喜んでこの命を差し出そう。今ならそう思える。
考えごとをしているうちに、時刻は23時45分を過ぎようとしていた。時計から目を離すと、右側に見える坂道から足音が聞こえてくる。実際には聞こえるような距離ではないのかもしれないが、不気味な音を孕んだ足音ははっきりと耳へと届いた。
おそらくあの男が来たのだろう。先ほどまでの緩んだ気持ちを切り替え、鞄から包丁を取りだす。男に気づかれないよう気を付けながら、広間の出口まで進む。どうやら男は、まだこちらに気づいてないようだ。
男に気づかれないように背後から一刺しする。それからは思考を捨て、破壊衝動に身を任せ、男を刺しまくる。重要なことは深く考えないことだ。
男の足音が近づいてくる。物陰から顔を出し、男の顔を確認する。身長190ほどの全身黒ジャージ。そして、一目で異常者だと分かるほど痩せ細った顔。例の男に違いない。こいつが一度僕を殺し、この呪われた時間を作る一端となった。そして彼女の世界を滅茶苦茶にした男。
理性の糸が早めに切れた。脳内に封じ込めていたどす黒い感情が一気に噴き出し、体が無意識に動き出す。僕は男が通りすぎる前に、広間から飛び出した。合理的な判断ではなかったが、この感情を抑えることができなかった。
叫び声とともに、足音のする方へ一気に駆けだす。男との距離は3メートルほどあった。思ったよりも、だいぶ早く飛び出してしまったようだ。
男は始めこそ驚いていたが、手元にある包丁と僕の形相を見て、すぐさま己の危機を察知したらしい。すぐさま臨戦態勢へと移る。これで奇襲は完全に失敗だ。
男の胸部めがけて、包丁を振りかざすが、寸でのところで止められる。それからしばらく硬直状態が続く。すると下腹部に不快な痛みが走る。どうやら男が、僕の腹部を蹴り上げたらしい。
状況把握と同時に、後ろへと体が倒れ込む。それに伴い手元から包丁が離れる。その隙を男は逃さなかった。僕が動き出すより早く、男が包丁へと手を伸ばす。包丁を奪い、そのまま倒れこんだままの僕に乗りかかる。完全に状況が逆転した。
男は渾身の力を込めて、僕の首元へ包丁を突き刺そうとする。それを僕がぎりぎりのところで食い止める。しかしその拮抗も長くは続かない。
じわじわと包丁が僕の首元へ近づいてくる。体勢が悪いということもある。しかしそれ以上に、一度人を殺し殺人への抵抗がない男と、人殺しの経験がない僕との差は目に見えた変化として現れてきた。
首元にひやりとした感触が伝わってくる。それからすぐにチクリとした痛みが伝わってくる。首筋に生温い液体が伝うのを感じる。それでも包丁は止まることなく、僕の命を奪おうと体へ痛みを運んでくる。
「もう駄目だ」、そう感じたとき突然、男が唸り声とともに吹き飛んでいく。上からのしかかられていた不快感と、首元の痛みがなくなる。どこかから包丁が落ちる音が聞こえてくる。
状況が理解できない僕は、男の方へ視線を向ける。そこには倒れ込んでいる男と、一人の少女の姿がある。上下異なる学校のジャージ、そして遠目からでもはっきりと分かるカラフルな汚れ具合。一目でその子が浦見さんであると分かった。
男はすぐさま彼女を敵と判断したのだろう。ポケットから自分の包丁を取りだし、彼女へと襲い掛かる。彼女は明らかに怯えており、その場から動こうとしない。彼女がここにいる理由は不明だが、今はそんなことどうでもよい。
出せる限りの力を振り絞り、男へとタックルをする。横からの衝撃に体勢を崩した男は、成すすべもなく倒れ込む。僕もその流れに身を任せ、男へとのしかかる。そのとき視界の隅に、僕が持っていたはずの包丁があるのが見えた。
僕はそれを取ろうと、手探りで包丁を探す。当然男も黙ってはいなかった。すぐに気の遠くなるような衝撃が腹部に襲い掛かる。前にもくらった覚えがある激痛であった。それから、その痛みが二度も続いた。そのたび意識が体から遠ざかり、全身の力が抜けていく。遠くから聞こえる彼女の悲鳴だけは、よく聞き取れた。
力の抜けた僕をどかして、男が立ちあがる。服には僕のだと思われる血が、大量についている。男は再びターゲットを彼女へと変えたようだ。僕が終わったから、次は彼女というわけだ。
男が彼女へとにじり寄っていく。はっきりと姿を捉えることはできないが、彼女が逃げだす様子はない。
このままでは彼女が危ない。男を殺害するどころか、彼女の命が奪われそうなのだ。まだ死ぬわけにはいかない。気の遠くなる痛みの中、男が一つの見落としをしていることに気がついた。
僕のすぐ近くに包丁が一つ落ちているのだ。僕は震える手でどうにかそれを握る。それから、痛みに耐えながら立ちあがる。
一歩一歩を踏みしめるように男へと近づいていく。男はこちらに気づく素振りはまったくない。意識が完全に彼女へと向いているのだろう。
男の背後へ到着してから、倒れ込むように包丁を背中に突き刺した。男は何が分からないのか、そのまま抵抗なく地面へと倒れ込む。それからはまさに死力を尽くして、男へと包丁を突き立て続けた。男も状況を把握したのか、怒号とも悲鳴とも言い難い声を出し続けている。
どれだけの間、包丁を刺し続けていたかは分からない。気が付けば男はピクリとも動かなくなっていた。周りは互いの血が混ざりあい、鮮やかな血の海ができている。鼻をつく生臭さがとても不愉快である。それでも、どうにか目的である男の殺害は成功した。
達成感と疲労感から動けないでいると、一つの足跡が近づいてくるのが分かる。それから体を起こされ、彼女の顔が目の前に現れる。大粒の涙を流し、顔をぐしゃぐしゃにしているが、見た感じ大きな怪我はしてなさそうだ。とりあえず一安心だ。
彼女には色々と言いたいことはあった。しかし、それでも口からこぼれたのは、「どうしてここに?」という消え入りそうな声だけであった。
「あなた、今日一日様子が変だったから、不安になったの。それに別れ際、私に嘘をついているって分かったから、あなたには悪いけど後をつけていたの」
嘘と言うのは、家の前でのまた明日という部分だろう。
「どうして嘘だって分かったの?」
「気づいてないのかもしれないけど、嘘をつくとき、あなたはいつも以上にこっちを直視しているの。いつもならすぐ目が泳ぐし。それに嘘をつくとき、右耳に手をかける癖もあるのよ」
どうやら僕は随分と嘘をつくのが下手らしい。自分でも無意識のうちに、それだけの合図を出していたことに驚く。この様子だと、今までに彼女についてきた嘘は全て筒抜けのようだ。
「なんでこんな馬鹿げたことをやったの。あなたがいなくなったら、私が悲しむってこと少しは考えてよ馬鹿」
涙をこぼしながら、彼女は言い続ける。それだけ僕のことを思ってくれているのは嬉しいが、これだけはどうしようもできない。
「すぐ救急車呼ぶから待ってて」
彼女は携帯を取り出し、119番をかけようとする。しかしその手を僕が止める。
「救急車を呼んじゃだめだ。ここで僕が助かったら、せっかく男を殺したのに無駄になってしまう。それに多分……今から救急車が来ても、もう間に合わない」
先程まで体を襲っていた激痛はいなくなり、今は全身の感覚がなくなってきつつある。それに合わせて意識も遠のいてきている。前回と同じ感覚だ。もう数分としないうちに、僕の命は燃え尽きるだろう。
彼女もそのことは薄々感づいていたのだろう。僕からそう告げられると、嗚咽をもらしながら携帯を落とした。
「どうして。どうしていなくなっちゃうのよ。せっかくあなたと一緒にいたいと思えるようになったのに。こんな時間が止まった世界でも、前向きに生活できるようになると思ったのに」
僕は彼女の頬へ手をあてる。男と僕の血で汚れきった手であったが、彼女は嫌がることなくそれを受け入れた。
月夜に血塗られた彼女の顔が浮かぶ。血で汚れていても彼女の美しさは損なわれることはなかった。僕は彼女を取り囲む檻を取り除くよう、彼女の頬を何度も撫でた。僕らの血が彼女を自由へ解き放ってくれると信じながら。
「一緒にいられなくてごめん。だけど君はいつまでも復讐に囚われていていい人間なんかじゃない。君に絵を描くときに見せてくれる透き通った瞳で、世界を見続けてほしかったんだ。そのために、この呪われた世界を作った僕と、復讐の元凶である男の死が必要だったんだよ」
「そんなのあなたの身勝手よ。私のためを思ってくれるのなら、私のために生き続けてよ」
その言葉とともに、強引に彼女が僕と唇を重ねる。僕にとってはファーストキスであるのだが、体の感覚がないので何も感じられない。それでも、唇を合わせた箇所から体が暖かくなっていくような錯覚に陥る。
「あなたとなら脳のバグが発生してもいいと思えたのに。それなのにどうして……」
「確かに、僕もすっかり頭がおかしくなっているらしい。こんな状況なのに、君とキスできたという些細なことがとても幸せなんだ。……最後に僕のこと、名前で呼んでもらってもいいかな?」
今まで、彼女は僕のことをあなたとしか言ったことがなかったことをふと思い出した。どうせ最後なのだ。最後くらい、恋人らしいことをしてみたいと感じたのだ。
「優……あなたのことが好き」
「知っているよ……僕も君のことが大好きだよ」
彼女が優しく微笑みながら告白してくれる。その分かりきった答えは、僕の心を暖かさで満たしてくれる。僕はなんて幸福なのだろうか。本来ならあっけなく死ぬはずの僕が、この呪われた時間の中で彼女と出会い、そしてこの暖かい気持ちを手に入れることができたのだから。
意識がさらに遠のいていく。目の前にいる彼女がとても遠くにいるように感じられる。あるいは本当に遠くにいるのかもしれない。前とは違い、彼女がいることにより夜空を照らす星々を確認することはできない。
さっきの続きを思いだす。僕は幸福であると同時にとても不幸であるのかもしれない。今の僕には、この世界を去るには後悔や無念があまりにも残りすぎている。
大切なものは失ったときに気が付くと言うが、本当によくできた言葉であると痛感させられる。
視界が真っ暗になっていく。僕はこの美しくも残酷な世界をこの身に感じながら、最後の願いを心で唱える。
これから始まる僕のいない世界が、彼女にとって少しでも生きやすい場所になっていますように……
この呪われた時の中で共に生きた、彼女の幸福だけを願いながら、僕は意識を完全に手放した。
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