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二度目の22日
結論から言ってしまうと、僕は生きていた。いや、このような状況になってしまって、普通に生きていると言って良いのかは怪しい。しかし一般的に想像される死というものには至っていなかった。
意識がなくなってから、目を覚ましてみると、そこはあの世でもなんでもなく自室のベッドであった。あたりを見渡してみても、何もおかしなところはない。
幼少の頃から部屋のお供になっている本棚。綺麗に整えられている学習机。クローゼットの横にある小さめの洋服タンス。この特徴のない無機質な部屋は完全に僕の部屋である。
そのことから察するに、僕はあのまま死んでしまい、自分の部屋にいる幻覚を見ているのだろうと考えた。天国なんて存在はまったく信じてはいなかった。それでも、お決まりのお花畑とかでなく、自室というのはどうにかならなかったのか。
「それにしても随分と完成度の高いあの世だな」
ここが天国だか地獄だかは分からないが、随分と完璧に僕の部屋を再現していた。それに死んだにしては、僕の意識はしっかりとある。いや、むしろはっきりしすぎているくらいだ。
そのことに疑問を感じた僕は、お約束の頬をつねってみた。……痛みをはっきりと感じることができた。
これは現実なのか。だけど昨日のあれで僕は確実に死んでいるはずだ。さすがに意識がないうちに、治療を終え自宅に戻されたなんてことはないだろう。
その段階で昨日の出来事を思いだし、腹部を確認してみる。昨日の出来事が事実なら、腹部にはかなり大きな傷跡が残るはずだ。しかし実際には、なよなよのお腹が顔を覗かせただけである。あるはずの傷跡がない。
いよいよ訳が分からなくなり、周りをもう一度見渡してみる。一見変哲もない僕の部屋だが、さらに不可解なものを見つけてしまった。
十一月二十二日午前七時六分。
部屋の電波時計がさしている時間。これはどう考えてもおかしい。
仮に昨日の出来事が夢だったとしても、その場合日にちは二十三日かそれ以降を指し示すはずである。だが現実は昨日から日にちは変わっていない。時計の故障という線も考えられたが、今までにそのようなことは一度もない。
「優、そろそろ起きないと学校に間に合わないわよ」
そして混乱の果てにとどめは一階から聞こえる母親の声だ。まさか母親を同時刻に死んだのか。さすがにそれはないだろう。母親までいるとなるとここが死後の世界だというのも考えられない。もちろんそれすら僕の幻想という線も捨てきれないが。
とりあえず現状で分かっていることは、僕が状況をまったく理解していないということだ。とある哲学者から言わせれば、これが無知の知なのかもしれないと、呑気な妄想が脳内をよぎった。
このままでいても埒が明かない。そう考えた僕は、情報収集をかねて下へと向かうことにした。
階段を下り、一階のリビングへ向かうと、母親がテレビを見ながら朝食を食べている。父親はもう仕事に向かったのか家にはいなかった。これは昨日、十一月二十二日とまったく同じ光景である。
そして映像を映しているテレビも、昨日と同じチャンネル、同じニュースであった。内容が「最近の若者の略し言葉」というくだらないトピックだったので記憶に残っている。
周りを見渡してみても、自室同様に目新しい変化というものも感じられない。部屋の確認を一通り終わらせた後に席につき朝食をとる。
我が家では、朝食は食パンと牛乳、ヨーグルトといった簡素なものが基本なので、そこから昨日との比較をすることはできない。普段は朝食をほとんどとらないのだが、朝から頭を使いすぎて珍しく食欲がわいてきた。
あれだけの惨劇を体験しながら、今こうして普通に朝食を食べていることが不思議でならなかった。
目の前の食事をとりながら、僕は疑問に思ったことを思いきって目の前の母親に訊ねてみた。
「今日って十一月二十三日じゃなかったっけ?」
「何言っているのよ。今日は二十二日でしょ。前の時計にも表示されてるじゃない」
母親は息子が寝ぼけていると思ったのか、前の時計を指さしながら笑った。確かに時計は自室のものと同様に、二十二日を示している。しかしそれだけでは納得できない。
「でも二十二日って昨日じゃなかった? それに今やってるニュースも昨日流れてなかったっけ?」
僕の問いかけに母親が少し驚いたような顔をした。なにか良い返答がくるかもしれない。しかし現実はそんなに甘くない。
「昨日はあなた、学校が午後からとかでこの時間寝てたじゃない。そもそもニュースなんて一緒に見てないわよ」
確かに昨日、気持ち的には一昨日以上前だがその日は午後から授業だったので、この時間は寝ていた。それなのに、いきなり一緒にニュースを見てたと言われたら不気味だろう。
やはり母親には前回の二十二日の記憶がないのだろうか。それともあれは僕の長い夢だったのか。とにかく母親とはなにか、話しの前提から食い違っているような感覚がする。
余計に謎が深まる事態に混乱していると、母親は何を勘違いしたのか、「いい加減に目を覚ましなさいよ」と見当違いな声だけをかけ皿を片づけていった。
とりあえず現在の状況を確認するために、僕は学校に行くことにした。この何も分からない状態で外に出るのは得策ではないかもしれないが、家にいても何も解決はできない。準備をするために再び自室へと戻った。
準備の前にあることを行う。机からルーズリーフを一枚とり現状の疑問点を羅列してみた。脳内で考えても埒が開かないときは、それをまとめてみる。案外これだけで、考えがまとまるときもあるのだ。
・昨日男に刺されたはずなのに生きている。
・日付が二十三日のはずなのに、昨日と同じ二十二日を示している。
・この不思議な状況を今のところ僕しか把握してない。
三個目に関してはもっと周りの人に確認をとれば、同様の認識をしている人を見つけられるかもしれない。しかし、友達のほとんどいない僕には確認する術はなかった。それに仮にいても、確認をして母親と同じような反応をされたら嫌だったので、三個目の確認は放棄した。
しかし改めてメモを確認してみても、原因がさっぱり分からない。どれも現実離れし過ぎているものばかりで、理解が全く追いつかない。しかし残念ながらどれも現実に起こっていることである。
しかしこれでは、いつまでたっても問題が解決しない。それならいっそ、思い切って考え方を変えてみるのはどうだろうか。ここに羅列した事象はすべて事実である。そう仮定する。非常識なものを、いったんすべて受け入れる。
その前提を元にもう一度、僕にどのような事態が起こったのか考えてみる。少し考えた末に突拍子もない回答が一つだけ浮かんだ。
タイムリープである。
タイムリープとは簡単に説明すると、自分の意識だけが過去に遡るということ。つまり現在の記憶を保有したまま過去の自分になるということだ。タイムスリップとの違いは、肉体の有無。タイムスリップでは自分がそのまま過去に向かうので、同一時間に自分が二人いることになるのだ。
始めはタイムスリップの線も考えてみた。しかしこれを仮に十一月二十二日と仮定すると、この時間にはベッドで眠りについている僕がいるはずだ。それがいないのだから、意識の時間跳躍つまりタイムリープだと考えるのが妥当だろう。
……改めて自分の推理を考えてみると、馬鹿らしいのひと言しか浮かばない。そもそもタイムリープなんて起こりうるわけがない。しかしタイムリープが起こったと考えることが、現状では一番矛盾のない結果に結びつくのも事実。
タイムリープが本当に起こっているのかを確認する方法は一つだけ思い浮かぶ。今日一日を前回同様に過ごすということだ。
前回の記憶を頼りに同じように一日を過ごし、授業の内容などをもう一度確認すればよいのだ。そうと決まれば、次に行う行動もおのずと決まってくる。すぐに準備を済ませて、意を決して外へと向かった。
外に出てみると、雲は気持ちよさそうにのんびりと漂い、太陽は遮るものがないことをいいように容赦なく日差しを降りそそいでいる。しかし十一月と比較的寒い時期のため、その日差しが過ごしやすい陽気を連れてくる。この天気も前回と同様であった。
駅へと続く道は学校や会社、各々が目指す場所に行くため、一つの流れのようなものが出来ている。僕はこの光景にうんざりしながら混ざっていった。
このような愚痴をこぼしても仕方ないが、都心にだけ人が集まりすぎているのではないかと常々思う。都会が便利なのは分かるが、もう少し地方に施設を分担するという手段はないのかと、頭の足りない学生ながらに愚考してしまう。
通勤ラッシュのときに電車を乗ると、毎回このことを考えてしまう僕がいる。そんな僕の悩みなど、朝の駅からしたら知るわけもなく多くの人がホームで電車を待っている。
電車は人を物資のごとく送りこむよう、規則的なリズムで駅に滑り込み、そして去っていく。電車に乗ったら次は、満員電車特有の不快なぬくもりである。
夏程の嫌悪感はないにしても、人との接触を嫌う僕からすると冬場でもかなりのストレスとなる。また近くに女性がいよう日には、あらぬ罪を着せられぬよう手の位置まで考えなくてはならない。
そんな満員電車に対する不満を心で唱え続けている間に、人の数は減っていき十分もすればある程度の余裕もできてきた。都内に向かう人からすれば十分程度たいした時間ではないのだろうが、それでもストレスであることには変わりない。
ようやく満員電車のストレスから解放され、僕に起った出来事を再推理する余裕も出来た。
改めて僕の身におこった、一時間近くの予定を振りかえってみる。朝起きて、ご飯を食べ、学校に向かう。まさしく十一月二十二日の予定のまんまである。
やはりこれはタイムリープが起こったと考えるのが妥当なのだろうか? 誰かに話したら、頭がおかしくなったと笑われそうだが。
しかし仮にタイムリープだとしたら、一体どういった理由で起こったのだろうか。そもそもこんなことが科学的に可能なのだろうか。
家を出る前タイムリープに改めて調べてみたが、自身の力や超能力を用いて、時間跳躍を行うと書いてあった。あのとき、僕が無意識にタイムリープを起こしたのか。仮にそうならどうやって……。
考えれば考えるほど疑問点は増していく。そもそもタイムリープという訳が分からない事象に遭遇している可能性があるのだ。そんな非現実なものの理由など、一大学生である僕なんかには到底分かりっこない。
結局電車の中での思考は、考えても答えが出せる状況ではないことが分かった、という形に落ち着いただけであった。
ようやく大学の最寄り駅に到着し、人の波に揉まれながら駅から抜け出した。周りには大学の最寄り駅というだけあり、これから授業に向かう学生で溢れていた。
友人とはしゃぎながら向かうもの、音楽を聴き一人の世界に入りながら向かうもの、周りの視線も憚らず恋人と密着しながら向かうもの実に多種多様である。
これだけ色々な人がいるのに、これらの人がすべて同年代だと考えると、なんだか複雑な気分にさせられてしまう。同じ世代というのに千差万別である。
周りからみたら僕はどんな風に映っているのだろう。ふとそんなことを考えてしまった。どうせ一人楽しみなどなく生きている寂しい人間だと思われているのだろう。しかしそういう風に見られていても、仕方ないと考えている自分もいる。
周りの人を見ていても、個人差はあるものの未来に対する希望や、現在の幸福な時間を堪能しているような幸せそうな顔をしている。もちろん僕と同様、退屈そうな顔をしている人間も見受けられるが。それに対して僕がそういった表情で日々を過ごせているかと聞かれたら、はっきりと違うと答えるだろう。
目の前にある退屈な毎日にはうんざりしている。しかしその日常を変えるような勇気もない。結局はなにか劇的な変化は起こるのを期待しながら、毎日を怠惰に過ごす。
変化に怯える臆病者であるなら、友人とのかけがえのない時間を通じて、人生を充実させるという手段もある。
しかし、周りの人間と同じように過ごしていたら、自分もそういったつまらない人間になってしまうのではないかという考えが僕の中にはあった。
そのため、友人たちと楽しんでいる人間を見ていると、「他人との触れ合いでしか楽しみを見いだせない哀れな人間」という捻くれた考えがよぎってしまう。
もちろんこんなのは、友達が上手く作れない僕の僻みであるということは頭の奥底では分かっている。しかし自分の過ちというものは簡単に認めることなどできない。誰だって自分が正しいと信じたいものである。そういった意味では僕も、周りの大勢の人と大差がないということには目を背け続けた。
話しがだいぶそれてしまった。つまるところ僕は、退屈な日常が変わるのを期待しながら、行動はなにも起こさない。他者からの変化に期待しながら、人との関わりを嫌う捻くれものだということだ。
そう考えてみると今の状況は、ある意味僕が最も望んでいる状態なのかもしれない。少なくとも昨日から起こっている出来事は、非現実なことばかりである。まさに、他者から強制的に与えられた変化である。
なんだか混乱の連続であったが、初めて今の状況が良いかもしれないとポジティブに考えることができた。僕は晴れ渡る青空の下、先ほどより少し軽やかな足取りで大学へと向かっていった。
どうしようもない眠気に襲われ、講義中にも関わらず大きな欠伸が一つ出てくる。誰からも指摘はされなかった。
昨日と同じ日が繰り返されているか確認するために、講義に出席してみたが一つだけ問題点を見落としていた。
僕は日ごろから講義に耳を傾けていなかったのだ。そのため昨日の内容と今日の内容が同じかを確認することができない。
なぜこんな初歩的なことに気づけなかったのかと、自分を責めたくなった。だがそんなことに気づけないほど、焦っていたのだろうと勝手に言い訳をした。
改めて講義の方に耳を傾けると、教授が 男女差別について資料を見ながら熱弁している。講義の内容はしっかりと覚えてはいないが、昨日も同じ内容だった気がする。しかし、これだけでは断定をすることはできない。
周りの学生たちも真剣に聴いている者は少なく、机に突っ伏している者や、友達と小声で談笑している者がほとんどである。そして最前列にいる人たちだけが、相槌を打ちながら話に聴き入っている。
僕自身例外ではないがこれだけ生徒の関心がないのに、よく教授は熱心に講義を続けられるなと思わず感心してしまった。
しかし教授を見ている感じ、教授自身も生徒に教えるというよりは一人で熱く語っているような印象を受けた。もしかしたら、教授からしても生徒の存在などどうでもよいのかもしれない。
結局講義終了まで、教授の熱弁は終わることなく、タイムリープに関する有益な情報を得ることはできなかった。
続いて授業は日本史に関する講義で、二つ下の階で行われる講義だ。この次の講義の内容はある程度覚えていた。
アニメーションから見る環境破壊についてといった内容で、みんながよく知っているアニメを見ながら、監督の環境破壊に対する考えなどを説明していくというものであったはず。講義を聞かない僕も単純にアニメが見たいという理由で、講義を聴いていたのを覚えている。
これで今から受ける講義がアニメを見るというものであったら、タイムリープが起こっているとほぼ確信してよいはず。真相を確かめたい一心で僕は教室へ向かう足を速めた。教室には、前回と同様に映像を見るためのプロジェクターが準備されていた。
ようやく長い講義も終わり、僕は駅近くのファーストフード店で一人昼食をとっていた。目の前には見るからに不健康そうなハンバーガーやポテト、ジュースと言った明らかに体調を考慮していないジャンクフードが並んでいる。
二限目の講義は、やはり前回と同じ内容であった。アニメを見ながら教授が重要なポイントの解説を行うという形である。一度聞いている内容なので、どこで何を言うのか分かるというのはなんとも愉快なものであった。
思わず教授の話をさえぎり、僕がその先を説明してやろうという変な考えも思い浮かんだ。もちろんそんなことは実行するわけもないのだが。
何はともあれ、これで現在の状況はタイムリープが起こっていると確信してもよさそうだと判断した。まだ不確定要素はたくさんあるが、これ以上の原因究明には期待できない。
それにしてもとんでもないことになっているな。それが率直な僕の感想であった。まさかタイムリープなんてものが存在するとは思わなかった。
仮説が暫定的な確証に変わってみると、改めて驚きざるを得なかった。前回の二十二日では、夜にあの男に刺されて僕は死んでいる。しかしどういう訳か僕には再度、二十二日をやり直す機会が与えられたのだ。
神様が僕のことを不便に思いチャンスをくれたのか。それとも僕が無意識のうちにタイムリープを起こせるようになったのか。あるいは誰かがタイムリープを起こす手段を持っていてそれを僕に対して実行したのか。とりあえず、最後に関してはありえなさそうだ。
結局理由なんていくら考えても分からなかった。しかし理由なんて今更どうでもよい。大切なことは僕が今日の夜、男に刺されて命を落とすということである。
そしてその未来が分かっているなら起こす行動はただ一つ。今日の夜、あの現場に向かわなければよいのだ。
あの日はいつもと異なる道を使って迷子になったから、刺された正確な場所は分からない。しかしそもそも夜遅くに散歩に行こうとした結果、事件に巻き込まれたのである。それなら夜は家で大人しくしていれば事件自体に巻き込まれない。
小学生でも出来そうな推理を並べたが、これが現状で考えられる最も合理的かつ真っ当な考えである。僕のやるべきことがはっきりと確定した。
これから僕は、死を迎えるはずの未来を変えなければならない!
今まで期待していた非現実な事態に直面し、僕は柄にもなく心の中で決意を新たにした。物語の主人公になれたような、心地よい高鳴りが胸を躍らす。
後から考えてみれば、状況に酔いしれ一人でに恰好つけていただけだが、そのときの僕は最高に自分を恰好良いと勘違いしていた。
白一色の天井を見上げると、角の方がほこりで汚れているのが見える。そういえば最近、ろくに掃除もしてないから部屋が汚れているな、と先ほど打って変わって冷めた感想がこぼれた。
あれだけ恰好つけて店を去ったのだが、次に僕が起こした行動は家に真っ直ぐ帰るというものであった。
だけど冷静に考えてみれば、未来を変えると言っても家に引きこもっていれば、それだけで安全なのである。重要なのは、今日一日を平穏無事に過ごすことなのだから。
例えばこの状況が愛する人の命を救うためのタイムリープ、という劇的なものであれば僕は愛する人のために奔走するのかもしれない。だが現実は、恋人どころか友人すらろくにいない僕だ。そんな僕は家に引きこもっているだけで充分なのだ。その地味な感じの行動がなんとも僕らしく笑えてくる。
初めは前回と同じように夢咲公園に行こうとも考えていたが、タイムリープだと確信した今では行動を繰り返す理由もない。とは言っても、他に行きたいあてもなくそのまま家へと戻ってきたのだ。
夢咲公園に行かなかった理由は他にもある。今では、あそこに向かったせいで僕は悲惨な目にあったと思っている。そういう風に考えていた。あんなところに向かわなければ、僕は恐ろしい目には会わなかった。
そしてその後に、あの悲惨な出来事が脳内でフラッシュバックしてしまう。逃げ出したいのに、言うことを聞かない体。血走った男の目。息もできないほどの激痛。そして強制的に意識が遠のいていく感覚。
想像するだけで防衛本能が働き、意識を遮断されそうになる。初めて死というものを実感し、それがどれだけ恐ろしいものか理解することができた。今まで感じていた、死の恐怖というものが、いかに現実味を帯びていなかったということを実感した。
しかしそれと同時に、当たり前のように授けられている生がいかに素晴らしいものかを理解することもできた。皮肉なことに死を体験したことにより、よりリアルに生を感じられるようになったのだ。
昨日のご飯のときも考えていたが、人というのは死というものを身近に感じられない。これは僕自身も例外でないということを嫌でも実感させられた。そして、当たり前に生を授かっていることのありがたさも。
現に今の僕は、今までには考えられないほど生に執着していた。昨日以前の僕なら、死が訪れたとしても、「ああ、ここで人生終わるんだ」程度にしか感じないと考えていた。やっと退屈な人生が終わったなと、あっけなく死を迎えられると誤認していた。
しかし今なら、生のためなら他の全てを投げ打つ覚悟がある。生きること以上に貴重なものなどないと今回の件で確信させられた。命より大事なものがあると考えている者もいるが、そんなのは死を体験したことない人間の戯言であるとさえ感じられる。
一度死を経験したことがある人間の言うことなんだから、他の人よりは遥かに信頼性があるだろう。もっとも、こんなこと他の人に言ったとこで理解はされないだろうが。
そして生に対し執着するのに伴い、死に対して極端に憶病になっていた。部屋に逃げ込んでからも、あの時間が迫っていると考えるだけで体に寒気が走る。
その寒気を忘れるよう、本の世界に逃げようとした。しかし死に怯えながら読みとく世界は、僕の脳内でうまく可視化されない。ただただ物語の文字をなぞる単調な作業とかしていた。空想上以上の現実が、物語を読み解く作業を邪魔している感じだ。
結局本を読む手は進まず、ものの数ページだけで読書を断念せざるを得なかった。かといって他に時間を潰す有用な手段も浮かばない。時間とは必要な者には短く、不必要な者には長い間授けられるものだと思わされる瞬間であった。
最終的に僕がとった行動は、天井を眺めながら眠りが訪れるのを待つという無意味なものだった。当然のことながら、僕が眠りにつくことはなかった。
時計の針を見てみると、時刻は二十時半を指している。結局眠りにつくこともできず、夕飯の時間まで天井を眺め続けることになってしまった。体感では何日にも感じるような時間だったが、ものの数時間しか進んでないということが多々あった。
それから前回と同様に、リビングで母親と夕飯をとった。テレビの内容も当然、前回と同じものであった。しかしそのことにより、一つの事実に気づくことができた。昨日何気なしに見ていたニュースだったが、取り上げられている犯人と、僕を襲った犯人のイメージはほぼ一致していた。
凶悪な殺人事件を起こした人間がまだまだ身近にいるということ。昨日は遠くに言ったんだろうと予想していたが、まったくの見当違いであった。犯人は現場に戻ると言った言葉があるが、まさかそれが本当だとは思いもしなかった。
テレビでは犯人に関する情報提供を求めていた。昨日までとの違いは、今の僕であれば、その情報を与えることが出来るという点だ。
昨日は襲われた正確な時間こそは分からないが、コンビニに寄った際の時刻は二十三時頃を示していた。それからしばらく歩いていたから、そう考えると恐らく二十四時前。その時間にあの男は夢咲公園の近くにいたということになる。
この情報を提供すれば、事件は一気に解決まで進むかもしれない。これこそタイムリープの正しい使い方であるのだろう。しかし問題は、その情報をどう提供するかだ。
今日の二十四時頃に夢咲公園の近くに犯人が現れます。正確な場所と時間は分からないですが、一度経験した事なので信じてください。
そんなことを言って警察は信用するだろうか? 答えはノーだ。どうせイタズラ電話と思われ相手されないのがおちだろう。むしろこちらが不審者として、取り調べされそうな勢いである。
では今度は自分から出向き、あの男を取り押さえるか? それは絶対にない。何度でも繰り返すが今の僕は、何よりも自分の命が大切なのである。そんな恐れ知らずなことをできるわけがない。
そして何より、僕が情報を提供し犯人を捕まえたとしても、その犯人からの報復が思い浮かび電話する勇気が持てなかった。もちろん、かなりの重罪になるだろうから、そう簡単に出所してくることもないし、僕の情報が漏洩するということもまずないだろう。しかしそれでも、万が一ということを考えると恐くなってしまう。世の中、絶対という確証は存在しないのだから。
結局は電話なんてしないということに落ち着いた。電話なんてしなくても、あれだけ現場の近くなのだからすぐに捕まるだろう。そうやって無理やり理由を作り、僕が電話をしないことを勝手に正当化した。
ご飯を食べ終えてから部屋に戻り、また時間が過ぎ去るのをただ待つだけであった。今日一日だけで、天井にある細かなよごれまで把握できそうな気がした。
そうしているうちに二十三時半ごろになったのだが、この時間帯になって一つの疑問点が浮かんできた。それは自分でも考えたくなかった疑問である。
このままで自分は助かるのだろうか?
確かに昨日の僕は、あの公園に向かおうとした為に事件に巻き込まれた。それなら事件現場に向かわなければよい。そう考えていた。
しかし僕は、何をやっても今日死に至る。そういったことは考えられないだろうか。
昨日は公園に向かったから男に刺されただけであって、向かわなければまた別の形で死がもたらされる。死因が変わるだけであって、僕の未来は死で確定されている。そう言った可能性はないか。その考えを今更になって思い浮かんでしまった。
いつもなら、そんなこと有りえないというひと言で一蹴できるだろう。しかし今は、不可解な現象が多発している状態だ。そう言われたところで、納得せざるを得ないのだ。
急に身体の底から恐怖心がこみあげてくる。それと同時に、全身が異常なまでの寒気に襲われる。窓を見てみると、完全に閉めきられている。精神的な恐怖が引き起こしている寒気なのは一目瞭然であった。
僕は何かに取りつかれたように、ドアの前まで走り鍵をかけた。そして学習机や、タンスなど部屋にある数少ない家具を全てドアの前に押し込む。ドアからの侵入者を拒むよう、簡易的なバリケードを作る。
それから机の中からカッターを取りだし、カーテンを閉めきり布団の中にくるまった。その布団の中で、出来る限り小さく丸まるよう努めた。僕は世界から存在を見つけられないように身を隠した。このときの僕は、こうすることで死という未来から全力で逃れようとしていた。
もちろんこのときに親が部屋に来ようものなら、頭がおかしくなったのではないかと疑われる。だがそんなのは知ったことではない。その程度で命を守れるものなら安いものだ。親への弁明など、次の日を迎えてからいくらでも行う時間はある。
それからの僕は、布団の中でがたがたと震えながら、時間が過ぎ去るのを待つばかりであった。これだけのバリケードを作れば本来なら安全なのだろうが、仮に僕が今日死ぬ運命であれば、こんなの気休めにしかならない。
なんとしても生き残る。その一点のみを考え、布団の中から時計を見続ける。カッターを握る手は無意識に強くなっていく。
そうしてどれだけの時間がたったのだろうか。しばらくは何事も起こらなかったが、五十五分ごろから異変が起こり始めた。
視界が霞みはじめたのである。いや、正確にいうと僕自身が激しい眠気に襲われていたのである。始めはこんな緊急時にも眠気は来るのだな考えもしたが、どうにもおかしい。
時間が進むごとにその眠気がどんどん強くなっていくのだ。それも今までに経験したことのないような強さで。これだけ緊張状態であるにも関わらず、眠気がやってくるということもおかしい。
確実に異常な状態だ。僕はどうにかその眠気に抗おうと、限界まで目を見開いた。それでもその状態を長く維持することができない。時間が進むごとにどんどんまぶたが重くなっていくのを感じる。
五十九分になることには目を開けているのもつらくなり、時計の時刻を見るのも儘ならなくなっていた。どうにか抗おうとするも、体がそれを許さない。まるで人の体を無理やり動かしているような阻害感に阻まれる。
そして僕の意識は、時計が二十四時を迎える前に、完全に途切れてしまったのである。結局この日も、次の日を迎える前に完全に僕の意識は途絶えた。
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