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止まる時、進む関係
その翌日も、僕はもちろん夢咲公園へと向かった。どんなに嫌われていようと、彼女はこの呪われた時間の中で唯一、変化する存在であることに変わりない。その存在にすがりつくのも仕方ないことだと、自分を言い聞かせる。
これは決してストーカーなどではない。己の心に、強く言い聞かせる。僕は夢咲公園に向かっているだけで、彼女はたまたま毎日そこに現れるだけだと、言い訳めいた弁明を繰り返す。
しかしこの関係は、いつまで続くのだろうか。互いに存在は認知しあってはいるが、僕は彼女の名前すら知らない。赤の他人に殺意を持たれるというのは、なんだか変な感じがする。
もっとも彼女が僕を殺すために毎日公園に現れるなら、直接話を聞かなくても、彼女のことを知る術は存在する。
簡単な話、彼女を尾行すればよいのだ。いつもの流れの後、彼女は僕の元から立ち去る。そこからの行動を監視すれば、彼女の家や行動範囲を知ることは可能だろう。
しかしどうしてもそれを実行に移す気にはなれなかった。そんなことをしたら、本当にただのストーカーになってしまう。さすがに、そこまでして彼女のことを知ろうとは思わなかった。それにこれ以上、彼女からの好感度を下げたくなかった。
もちろんストーカーになりたくないという理由もある。しかしそれ以上の理由も存在する。本音をいうと、僕は今の彼女との関係が嫌いではなかった。むしろ、気に入っているくらいかもしれない。
互いに存在は認知しているが、それ以上のことは何も知らない。それが故に、変な先入観や、イメージをもたれなくて済む。
周りに気をつかい、人の目を気にしてきた自分には斬新な関係であった。同時にとても心地よい関係でもあった。
独りを恐れ、他人からの認知を欲する。しかし人と関わって、己を偽り続けることにも嫌気がさす。そんな考えの僕にとっては、今の関係はぬるま湯につかったような心地よさがあった。
彼女と仲良くなりたいという願望はある。しかし今の関係でもいいのではないかと、今ではそう思える。ろくに相手のことを知らないまま、関係を築いていく。
彼女はもちろん、僕がそんなことを思っているなど考えていないだろう。僕を恨んでいるのに、僕を殺しにくるたび、会いに来るたび、僕は喜びを感じる。なんとも滑稽な話だ。彼女がこのことを知ったら、さぞかし嫌がるだろう。
だが彼女の立場からしたら、そのことを知っていても僕の元へと来るしかないのだ。時間を停めてしまっているのは僕のせいであるから、どんなに僕が嫌いでも、僕を殺しに来るしかない。
そしてその期待通り、彼女は毎日夢咲公園にやってきた。いつも通りカッターを握り、それを僕に奪われる。そして逃げるように立ち去っていく。もちろん僕は、その彼女を追跡したりしない。
こうした今まで通りの流れが、まともな会話をした日から二週間近く続いた。僕は彼女との進展はほぼ諦め、今の関係を楽しむようにしていた。
しかしまた彼女との関係に変化が訪れた。進展を諦めてから変化が訪れる。欲しいものを望まなくなった途端、それが手に入る。存在するかも分からない神様は、さぞかしひねくれているのだろう。
「あなた、本当に早く死んでくれない」
いつも通りのやり取りの後、彼女はうんざりしたような声で僕に懇願してきた。そんな風に女の子から頼まれたら大抵のことは断れないが、さすがに死ねと言われて死ぬわけにもいかない。
「申し訳ないがそれはできない。僕は死ぬことがとても怖いんだ」
「そんなあなたの都合なんて知らない。もう散々同じ日を繰り返してるんだし、もう満足したでしょ?」
「確かにもう22日には満足しているけど、死にたくはないから諦めてくれ」
彼女は僕にも聞こえる大きさのため息をもらす。容姿が整っている子がやると、こんな仕草でも絵になる。
それにしても今日は随分と僕に話しかけてくる。今まで僕に話しかけてきたのなんて、初めてカッターを向けられたときと、時間を繰り返すのをどうにかしろと言ってきたときぐらいである。
それにいつもは、カッター以外ほぼ何も荷物は持ち歩いていないのに、今日は白無地のトートバッグまで持ち歩いている。中に入っているものまでは、遠目には確認することはできないが。
「あなたが生きているせいで、いつまでたっても次の日に進めないの。私は早く次の日に進みたいの」
彼女は棘を含んだ声音で僕に言葉を投げかける。声音はともかく、彼女が僕を殺したがっている理由がようやく少し明らかになった。もしかしたら、今ならもう少し色々と話が聞けるかもしれない。
「なんでそんなに時間を進めたいの? 僕が言うのもあれだけど、変化がないことを除けば、今の時間だってそれなりに楽しめると思うんだけど……」
「そんなことあなたに話す義理はない」
「もし理由をしっかりと僕に話してくれるなら、もしかしたら死ぬ気になるかもしれないよ?」
右耳に手をかけながら問いかける。目線はしっかりと彼女を捉えている。彼女には申し訳ないが、今回は少しだけ嘘をつかせてもらった。
時間を進めたい理由を知ったところで、よほどのことがない限り、僕の決意は変わらないだろう。彼女から情報を引き出すためのブラフである。
「君は僕に死んでほしいと言ってるけど、さすがに理由もなく死ぬなんてことは絶対にしたくないよ。せめてそれにふさわしい理由があるならそれを教えてほしい。それなら少しは死ぬことも考えるよ」
「…………あなたには関係ないでしょ」
しばらく考え込む時間があったが、やはり彼女からの答えはノーであった。よっぽど言いにくい内容なのか、単純に僕が嫌いなだけかは不明だが、理由を知ることは相変わらず不可能に近そうだ。
彼女は要件が済んだのか、バッグを持ち立ち去っていく。僕は会話の余韻に浸るようにその姿を見送ってから、再び展望デッキに腰を下ろした。
空にはもう何十日と変わりばいのない青空が広がっている。しばらくは流れる雲を目で追っていたが、どうにもそれも飽きてきた。だからといって、帰っても暇なことに変わりない。
なぜだか今日はすぐに帰る気になれず、そのまま園内を見て回ろうと決めた。ここ最近は動物たちもすっかり見飽きてしまい、展望デッキにしか行かなくなっていたし、よい気分転換にもなった。
小動物舎を見て回り、そのまま鹿舎へ。午後の穏やかな日差しを浴びる鹿たちを見た後に、サル舎へと向かった。
するとサル舎のすぐ近くで、一人の女の子が腰を下ろし何か作業をしているのが目についた。もちろんその少女は、さきほどまで展望デッキで僕にカッターを向けていた彼女である。
僕は彼女がてっきり帰ったものだと思っていたので驚いた。前にも彼女とのやり取りのあとに、公園を見て回ったことがあったが、そのときはいなかった。
思わぬタイミングで再び彼女に会え、素直に嬉しかった。その勢いのまま、彼女の元へと向かっていく。彼女は僕が近づいてくるのに、気づく素振りはない。よほど作業に集中しているのだろう。
「こんなところで何やっているの?」
声が届くまでの距離まで近づき、彼女へといかける。
話しかけられると思っていなかったのか、びくっと体を震わしこちらを振りかえる。そして自分に要件があると気付いて、そのまま大慌てで、手に持っているスケッチブックを畳む。絵を描いていたのだろう。
彼女は明らかに動揺していたが、すぐにいつもの無表情に戻った。さきほどの動揺を隠すように、いつも以上に冷たい表情をしているようにも見えるが。
「別に私が、どこでなにをしてようが関係ないでしょ」
いつもの表情で冷たく突き放される。
とはいえ先ほどまで動揺していたのは、事実である。そんな様子の彼女が新鮮で、思わず笑みがこぼれる。
「なにがおかしいの?」
「いや、いつもとは違う姿が見れて、新鮮だと思って」
僕は思ったことを素直に口にした。彼女は心底嫌そうな顔をしたが、立ち去る様子はまだない。
「今日はどうして絵なんて描いているの?」
「さっきも言ったけど、あなたには関係ないでしょ。でも強いて言うなら、どこかの誰かさんが死んでくれないから、暇を持て余しているの」
彼女が分かりやすい皮肉を込めて、理由を説明する。だが、散々死んでくれと言われている僕からしたら、それくらいまったく気にもならなかった。
「それは随分と迷惑なやつがいるもんだね。僕からも苦情を言っておくよ」
僕がとぼけながらそう答えると、彼女は不快気に顔をゆがませる。僕はそんな彼女に構うことなく質問を続ける。
「今描いてる絵を見せてくれない?」
「どうしてそんなことしなきゃいけないのよ。そんな義理はない」
「別に義理なんてなくていいよ。単純に興味があるだけだよ」
僕はしばらく粘ってみることにした。今までとは違い彼女も、嫌がりながらも僕の質問に答えてくれているからだ。彼女もさすがに、毎日同じことを繰り返すのにうんざりしていたのかもしれない。
「絶対に絵は見せない。だから早く私の前からいなくなって。殺すわよ」
今の状況で、彼女が僕を本当に殺せるとは思えなかったが、絵を見せないというのは本気らしい。絶対にスケッチブックを取られまいと、固く抱きしめている。
そこまでされるとさすがに絵を見るのは無理だと諦め、僕の方から彼女から離れていった。試しにさようならと声をかけてみたが、当然返事は返ってこなかった。
それからというもの、彼女は毎回スケッチブックを持ってくるようになった。僕を殺そうとはしてくるが、それはいつも通り失敗に終わる。
それからは毎回、早く死んでくれ、迷惑だなどの悪口を一通り浴びせかけられる。それを軽く聞き流し、僕はなんでそんなに次の日に進みたいのかを彼女に聞く。返事は当然返ってこない。
彼女はその後、僕の元を去ってから、公園内のどこかで絵を描くようになった。初めて描いていたときはサル舎だったし、レッサーパンダを描いているときもあった。特になにかこだわりがあるわけでなく、ただ動物を描いているだけだと思われる。
本当であればどんな絵を描いているのかを確認したいのだが、彼女はかたくなに絵を見せようとはしなかった。絵を描いている場所に近づこうとすると、すぐにスケッチブックをたたみ、それからこちらを鋭く睨みつけてくる。
絵を見せてくれないかと問いかけても無視され、ただ無言で睨みつけてくるだけであった。さすがにこの行動には僕も心が折れ、絵を描いているときはあまり近くには寄らないようになった。
しかし、せっかく彼女のことを知れそうなのだし、この機会をどうにか活かせないだろうかと考えた。以前は、互いに存在を認識しあえているだけでもよかったのだが、少しでも関係が進むと欲張りたくなるのが人間というものだ。
だからと言って、ストーカーまがいの行為には及びたくはない。そこで最終的にいきついたのが、遠目に彼女が絵を描いているのを眺めるということだ。これもストーカーと大差ないような気がしたが、そのことには目をつぶることにした。
散々同じ光景だけを見ている僕には、毎回異なるものを描いている彼女は、見ていて全然飽きることがなかった。それに相変わらず服装はめちゃくちゃであるが、容姿は整っているのだし、彼女を見ていて嫌になることは一切なかった。
彼女も嫌悪感は示しているが、絵を見られないのなら許容範囲のようだった。遠目に眺めている僕を見つけると不機嫌そうに睨みつけてくるが、僕が動かないでいると諦めたように絵を描く作業に戻った。
もしかしたら彼女からも少しは信頼されてきたのかもしれないと思ったが、そんな素振りは今まで一度もなかった。むしろ会話をするようになり、余計に嫌われてしまったような気がする。
そうはいっても今さら、彼女のことを知るのを諦めようとは思わなかった。以前なら、少しでも人に拒絶されようものなら、布団に入り一日へこんでいただろうが今はまったく気にならなくなった。
これは彼女が最初から最大限、僕に嫌悪感を抱いているおかげかもしれないと僕は思っている。始めからどうしようもないくらい嫌われているのだ。これ以上、気を遣う必要もないのだ。
それに時間だって現在は、僕と彼女以外は永遠と同じ日を自覚なしに繰り返しているだけだ。そのため彼女からどんなことを言われようと、周りの人間からしたら一日したらなかったことになるのだ。それなら周りも気にする必要もない。
そのおかげで、体裁を気にせず彼女と話せるようになったが、どうしてそこまで彼女に僕は執着しているのだろうか。
始めは同じ状況下にある彼女のことを、少しでも知るためという理由であった。もちろん下心があったのも事実だが、それ以上にこの状況の打開策を探るということに重点を置いていた。
しかし、絵を描いている彼女を見ているうちに、そんな目的などどうでもよくなってきていた。気が付いたら、現状打破より彼女自身に対する関心が大きくなっていた。簡単に言ってしまえば、僕は彼女に恋していたのだろう。
今にして思えば、こんなに一人の女性に惹かれるというのは初めてかもしれない。初恋というわけではないが、ここまで人を好きになったことはないだろう。
僕の今までの恋愛を振りかえってみても、幼稚園の先生が好きだったとか、小学校のとき近くの席にいる愛想のよい女の子が好きだったといった軽いものばかりであった。もはや恋愛といってもいいのかも怪しい。
彼女は服装こそめちゃくちゃであるが、容姿は整っていた。それだけでなく、殺意を僕に向けるときの表情や、それに怯える不安定さというものになぜか猛烈に惹かれたのだ。口ではうまく言えないが、その相反する二つの要素が彼女をとても神秘的なもののように見せているのだ。
そしてなにより、僕が彼女に惹かれるようになったきっかけは、彼女が絵を描いているところを見てからだろう。
ここ最近彼女が絵を描いているところを毎日見ているが、絵を描いている彼女は、僕を殺そうとしている少女とはまったくの別人のように見えるのだ。
表情は基本的に無表情であることに変わりはないのだが、すさまじい集中力をもって絵を描いているのが分かる。始めは僕に声をかけられるのを警戒して、そこまで深く集中していなかったが、近寄ってこないと分かると、こちらにも目を向けず一心不乱に鉛筆を走らせているのが分かる。
その姿はいつも僕に向けているものとはまったくの別物で、その視線の先にあるものすべてを見極めようと全神経を張りつめているように見える。
だからといって、相手のすべてを見透かそうとする悪意があるというわけでもない。そのものの本質を見抜きたいという純粋さが含まれているような眼差しである。
そんな彼女の目がたまらなく好きだった。あれだけ次に日に進みたいと僕を恨み殺そうとしているが、彼女の本質は案外純粋なものなのかもしれない。
そして彼女の透き通った瞳を見ているうちに、僕はすっかり恋に落ちていた。そう考えると、この恋のきっかけを作ったのは、僕を殺した男なのかもしれない。あのとき、男に刺されていなかったら、こうして彼女の魅力に気付くことはできなかった。
時を止めてしまった僕が恋した子は、僕を殺そうとする殺人未遂者。そして、二人を繋げたのは殺人鬼。僕が小説を書くならこんな言葉でもいれるだろうか。誰に言っても、ばかばかしい話であるが、これは紛れもない事実である。事実は小説より奇なりとはよく言う。
そんなことを考えながら彼女の方に視線を戻すと、さっきまでいたはずの場所に彼女はいなかった。
「いつまでそこにいるの?」
気が付いたら彼女は僕のすぐ近くまで来ていて、怪訝な顔をしながら僕に問いかける。警戒心を完全にとき油断しきっていた僕は、思わず変な声を上げてしまった。
仮に彼女がカッターを隠し持っていたら、間違いなく僕は刺殺されていただろう。それほどにまで、僕は油断しきっていた。
「いや、少し考えごとをしてただけ」
僕は動揺を悟られないよう、できるだけ平坦な声で答えた。もっとも、すでにみっともない声を聞かれているので、意味はないだろうが。
「それでどうしたの? もう今日は絵を描かないの?」
話題をそらすよう彼女に問いかける。
「そんなことあなたには関係ない。それよりいつまでも公園内にいるのやめてくれない? 不愉快なんだけど」
彼女から痛い言葉が投げかけられる。しかしこればっかりは、僕も折れるわけにはいかない。
「僕がどこでなにしようと自由だろ。君の言葉を借りるなら、いなくなる義理もないってやつだよ」
「本当に不愉快な人ね。あなたのせいでいつまでも時間は進まないし、絵すら満足に描けないのよ」
さすがにそこまで一方的に言われると傷ついてしまう。どうにかしてイメージをよくする言葉を言いたかったが、そんな気の利いた言葉なんて、僕の脳内には持ち合わせていなかった。
しかし話題は彼女の方から変えてくれた。
「それと前から気になってるんだけど、なんで私が絵を描いているのをずっと見ているの?」
いつも通り平坦な声音であったが、いつもよりは棘が少ないような気がした。多分、純粋な疑問なのだろう。僕はどう答えるか迷ったが、ここはある程度素直に答えることにした。
「前にも言ったけど、どんな絵を描いているか単純に興味があるんだよ。それにこうも同じ日が繰り返されていると、周りを見るのも飽きてくるしね。そこに毎日イレギュラーなことをする君がいるんだから、気になっちゃうんだよ」
右耳に手をかけながら理由を話す。さすがに君のことが好きだとはいう訳にもいかない。そこだけは伏せて話した。しかしそれ以外は、素直に話せたと思う。
「だったら別に、今まで行ったことないような場所に行けばいいじゃない。それだけで十分色々な景色を楽しめるでしょ」
「……確かにそうなんだけどね。あとは君が絵を描いている姿を見るのが楽しいんだよ。どんな絵を描いているかはよく分からないけど、遠目からでも懸命に描いているというのは、しっかりと伝わるんだ。人がなにかに一生懸命に取り組んでいる姿って、とてもきれいに見えるんだよ」
結局大体のことを話してしまった。だがこのことを話してみて後悔した。これは捉えようによっては告白みたいなものじゃないか。それに告白だとしても、いくらなんでもきざすぎる。
彼女の方を見てみると、気の抜けたような顔をしている。よっぽど予想外な答えだったのか、いつもより敵意のない表情になっている。しかしその表情も、すぐにいつも通りに戻ってしまった。
「変な理由ね。でもどんな理由でも絵を見せる気はないの。だから私の視界から消えてちょうだい」
「君が絵を見せてくれたら考えるよ」
彼女から深いため息がこぼれる。彼女は諦めたのか、何も言わずに立ち去っていく。僕はさようならと声をかけるが、相変わらず返事が返ってくることはなかた。
「もう見たければ見ればいいでしょ」
彼女は投げやりにスケッチブックを僕に渡してきた。僕にスケッチブックを渡した彼女は諦めたように、近くのベンチに腰を下ろした。明らかに不機嫌な様子で、目の前のシマウマを眺めている。
彼女が結局、絵を見せてくれたのは、あれから一週間後のことだった。あれから一週間、僕は変わらずに彼女が絵を描いている姿を遠くから眺めていた。
彼女はそんな僕を当然嫌がり、毎日文句を言いにきた。それでも僕は引き下がることなく、絵を見せてくれたら考えるの一点張りを貫き通した。彼女も一週間はそれで諦めていたが、ついに我慢の限界を現在に至る形になっている。
ようやく手元にやってきたスケッチブックであったが、いざ手に取ると見るのが引けてきてしまった。今にして思えば、あれだけ絵を見せるのを嫌がるのも不思議な気がするからである。
この状況にいたるまでは、ただ気になるという好奇心だけを頼りにやってきたが、ここにきてようやく余裕ができたともいえる。彼女はどうしてそこまで絵を見せるのを嫌がっていたのだろう。
単純に僕のことが嫌いだからという理由や、絵が下手だから見せたくないという可愛らしい理由ならまだいい。しかしあれだけ複雑な状況を陥っているであろう彼女のことである。どうにもそんな簡単な理由ではないような気がする。
もしかしたら、あの絵には僕が思ってもいない以上の大きななにかがあるのかもしれない。そう考えるとなかなかスケッチブックを開くことができなかった。
横目に彼女を見てみる。相変わらず拗ねたような顔をしながら、目の前のシマウマを眺めている。今ならやっぱりいいやと彼女にスケッチブックを返すことも可能だろう。
しかしせっかく手に入れたこの機会を、棒に振るのもためらわれる。ここで機会を逃せば、もう二度と絵を見せてくれないかもしれないからである。
しばらくの間をとって、僕は意を決して彼女が座っている隣のベンチに腰を下ろした。そして一呼吸おいてから、スケッチブックを開いた。彼女の視線が一瞬こっちに向いたような気がした。
いくつかの絵を眺める。しばらくのうちは無言で絵を眺めていた。いや、無言になってしまったと言った方が正しいのかもしれない。開かれたスケッチブックから飛び出してきた絵は、僕の予想をはるかに超えるようなものであったからだ。
絵の中身を一言で言い表すことなどとてもできなかった。ただ大雑把な感想としては、「歪められた絵」であったということだ。それですら、適切なものであるかも分からないが、これ以上の言葉がでてこない。
絵に関する知識はほとんどないが、この絵を見たときとっさにムンクが描いた「叫び」が思い浮かんだ。とりあえず、暗い感じの絵であるのは確かだ。
彼女はいつも動物たちの前で絵を描いていたものだから、てっきり動物たちのイラストが描かれているものばかりだと思っていた。しかし実際の絵は、そんなシンプルなものではなかった。
絵を見てみると動物のようなものは描かれているが、お世辞にも似ているとは言えなかった。そうかと言って単純に絵が下手という訳ではなさそうだ。むしろ絵はかなりうまいようにも思える。
純粋に動物を描こうとしているのに、それがなにか大きな要因により歪められたもの、というような印象を受けた。
それに絵全体に色合いもどこかおかしさを帯びている。色鉛筆で色が塗られているのだが、全体的に色が暗いのである。暗いというよりは明るい色や、優しい色というものが一切使われていないのだ。
その二つの要因が合わさってか、彼女の絵はとても不気味なものに見えてしまってもおかしくなかった。現に始めはそういった絵だと僕も思った。
しかし僕はどうにもそんな感想を持つことはできなかった。しっかりと見てみると、ただの不気味な絵には見えなくなってきたのである。
それは絵に詳しくないからこそ、感じた違和感かもしれない。理由はよく分からないが、彼女は進んで、こんな絵を描いているようには思えなかった。
今まで彼女が絵を描いている姿を散々見てきた。絵を描いている彼女の姿は懸命そのものであった。
そして僕の好きな彼女の瞳は、遠目からでもそのもの本質を見抜こうとしているように思えた。どうにもその姿と、今目の前にある絵が一致しないのである。
「どう、不気味な絵でしょ?」
絵を見てから一切言葉を発しない僕に、彼女が自虐的な笑みを浮かべながら訊ねてきた。もしかしたら彼女も、自分の絵が嫌いなのかもしれない。
「この絵は、園内の動物たちを描いているものでいいの?」
「ええそうよ。私は普通に描いているつもりだけど、そんな風になるの。自分でも描いていても気持ち悪いわ」
「僕には絵のことはよく分からない……」
そこから先の言葉が上手く出てこない。ただ、今僕が思った感想は彼女に言うべきであると感じた。うまく言うことはできないかもしれないが、僕の思ったことを素直に口にしていく。
「確かに動物を描いているようには見えないし、絵もなんだか不気味だと思う。最初はそう感じた。だけどそれだけのようには思えないっていうのが僕の感想だよ」
気が付けば彼女はこちらを見つめている。しかしいつものような敵意のある瞳ではなく、絵を描いているときの瞳でこちらを覗きこんでいる。
「動物を純粋に描こうとしているなら、この絵をうまいと褒めることは僕にはできない。だけど君が絵を描いている姿をよく見ていたから分かるんだけど、君はその瞳に映っているものを純粋に描き出そうとしているように見えた。だから、こんな絵になるってことは君が今何か問題を抱えているからじゃないかな? それが明日に進みたいからって、僕を殺そうとしていることに関連していると思うんだ。ここからは僕の勝手な憶測なんだけど、君は動物を描いているというより、自分の心の状態を描き出しているんじゃないかと思うんだよ。もしそうだとしたら、これだけ純粋に自分の気持ちを描くことが出来ることはとても凄いことだと思う。確かにこの絵は不気味なものかもしれない。だけど君の心を表しているという点においては、これ以上なく美しい絵だと僕は思うよ」
気が付けば、自分の言いたいことを無心で話していた。そして言葉がぷつりと切れてから、自分がどれだけ変なことを言っているのかと気が付いた。
絵の知識もろくにない人間が一体なにを言っているんだ。これじゃ一週間前の告白みたいなものと一緒ではないか。自分で思い切って本音を話してから後悔が波のように押しよせてくる。
彼女の方に目をやってみると、彼女も茫然とした様子でこちらを眺めている。しかし、嫌悪感や敵意というものは含まれていないように感じられた。しばらくしてから彼女はくすりと笑い、今までにないような穏やかな表情を見せた。
「そんな感想言われたのはじめて。あなたってよっぽどの変人なのね。普通絵を見てそんな感想出てこないわよ」
彼女の指摘に僕は顔が紅潮していくのを感じた。これが彼女に変人と言われた恥ずかしさからなのか、彼女の穏やかな表情を見たからかは僕には分からない。どちらにせよ、今すぐ彼女の元から立ち去りたかった。
「なんだかもう、どうでもよくなってきたわ。とりあえずそのスケッチブックを返してくれる?」
僕は彼女の言うことを素直に受け入れる。この短時間に彼女の態度が、全然見たこともないようなものになり脳内がついていけていなかった。
「もう私は帰るわ。……さようなら」
彼女はそう言い残し、僕の元から立ち去っていった。しばらく僕は、なにを言われたのか理解できなかったのだが、それが別れの挨拶だと気が付いた。しかしそれを知ったときには、すでに彼女の姿は見えなかった。
僕としては変なことを言ってしまったと思っていたのだが、どうやら彼女としては気分のよい答えだったのだろう。今までになかった彼女の態度がそう告げていた。
しかしせっかく、彼女からの好感を得たのなら、もう少し彼女を引き留めておくべきだったかもしれない。せっかく得た好感も、明日には消え失せている気がしてしょうがなかったからだ。
しかし結論から言えば、そんな心配は杞憂で済んだ。この日を境に、彼女が公園にカッターを持ってくることはなくなった。
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