交わる事実

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交わる事実

 「私、動物園の動物たちを見ているのって、あまり好きじゃないの」  目の前にいる彼女はそんなことをぼやきながら、フラミンゴを眺めていた。フラミンゴたちはそんなことを知る由もなく、ただそれぞれの時間を満喫している。  「僕は別に嫌いじゃないけどね。ちなみになんで嫌いなの?」  「あなたの事情なんて別に興味ない。なんだか動物園にいる生き物って、見ていてどうもリアリティを感じられないの。うまく言えないけど、あんな狭い檻の中での暮らしを強いられて、それを受け入れている姿が見ていて嫌なの」  「なんとなく言いたいことは分かるよ。自由や本質とはかけ離れて生活を強いられているの、それをその生物の本当の姿だと言わんばかりの姿勢が嫌いってことでしょ」  「まあ、そう思ってくれていいわ」  彼女は平坦な口調で答える。たぶんだが、彼女は何かに縛られたり、物事の本質を偽られるということ自体が嫌いなのだろう。  そう考えると、今のような状況は彼女からしたら拷問のような日々なのかもしれない。進まない時間という檻の中に閉じ込められ、何もかもが制限される。  そんな嫌気がさす状況下で、その元凶にあたる僕と一緒にいるということは、さぞかし不愉快なことなのだろう。それでも僕と一緒にいるのは、そうでもしないとこの呪われた時をやっていけないと判断したからだろう。それと僕が簡単に死んでくれないと諦めたのだろう。  なんにせよ僕からしたら、とてもありがたい話であった。これでようやくカッターを奪う日々から解放されたのだし、これからはうまくいけばまとな関係を気づけそうだ。諦めずに彼女にコンタクトを取り続けていて、本当によかった。  昨日の一件があったあと、次に彼女が僕の前に現れたとき、彼女の手元にはカッターはなかった。手元には最近持ってくるようになったスケッチブックしかなかった。  僕の前に現れてから何もしてこない彼女に、「今日は僕を殺さないの?」と問いかけたところ、「もう殺すことは諦めた」という予想外な返事が返ってきた。  もちろん、そんな素直な話ではなかったのだが。正確なことを言うと、彼女の主張はこうだった。  「このまま毎日殺そうとしても成功する気がしないし、時間の無駄。だったらあなたが死ぬまで、監視し続けることを選ぶわ。だからさっさと死んでちょうだい」  時間が永遠と繰り返されているのだし、無駄というのには語弊がある気がするがそこには突っ込まなかった。そのようなことで彼女の機嫌を損ねたくなかった。 ただ彼女自身、あのまま僕を殺そうとしても、それが結果に結びつかないということは自覚していたのだろう。  僕を殺せないと考えた彼女の行動は、僕が死ぬまで監視して死んでくれと攻め続けるという行為だった。物理的な殺害が無理なら、精神面をということだろう。  しかし今更そんなことを言われたところで、僕としては一切何も感じない。むしろ話し相手が増えたという点では、非常に喜ばしい点である。彼女は自分が行っている行為が、逆効果になっているということが分かってないのだろうか。  それか、死んでくれと攻め続けるというのは建前で、本当は彼女自身この窮屈さに耐えられなくなったのかもしれない。彼女と会ってから、死んでくれと言われはしたが、その言葉には以前のような刺々しさは感じられなかった。  そのような経緯があり彼女と僕は現在、一緒に水禽舎のチリーフラミンゴというフラミンゴを眺めているという奇妙な状況になっている。正確には、僕がうろうろしているところに彼女がついてきているということになるのだが。  改めて檻の中のフラミンゴを眺めていると、派手なピンク色の体を主張しながら、水を飲んだり檻の中をうろうろとしている。確かに檻の中にいるフラミンゴたちは、飛ぶこともなく縛られた檻の中でしか生活をすることができない。なんだかその姿は、現在の僕と彼女の姿によく似ている。  しかしだからこそ前と違った感想も見えてくる。似たような状況だからこそ気付けることもあるのだ。  「さっきの話の続きなんだけど、僕は檻の中に閉じこめられて、縛られた生活を強いられるということが必ずしも不幸であるとは思えないな」   手前の柵に体をゆだねながら話を戻すと、彼女から「なんでそんな風に思うの?」と質問が返ってくる。無関心を装ってはいたが、話だけは聞いてくれるらしい。  「君の言いたいことは確かによく分かるんだよ。だけど檻の中に閉じ込められた生活が必ずしも不幸であるとは限らないとも思うんだ。確かに目の前のフラミンゴたちは、行きたいところに行くこともできないし、生活エリアが限られている。でもその反面に、一定の食べ物が用意され、体を壊した際にはそれを治してくれる環境が用意されている。これは制限されたからこそ得たものだと思う。それのおかげで、ここのフラミンゴたちは野性のものより、確実に長生きできるようになったと思うんだ」  「だけど、ここのフラミンゴたちはそんな長生きより、檻の外にある自由を求めてるかもしれないじゃない」  「確かにその可能性もある。だけど結局そんなこと僕らには分かりかねないことだよ。例え話しになるけど、この檻に閉じこめられた状況って今の僕たちに近い状況だと思うんだ。そして君は今の状況が嫌で、さっさと抜け出したいと思っている。だけど僕はこの状況を楽しんでいるところがある。結局ものの見方なんて一方的なものでしかないんだよ。絶対的な正解なんてなくて、間違いもない。最終的には個人の考えがすべてになる。それを踏まえると、檻の中での生活が不幸だなんて決めつけることはできないと思う。こっちが決めつけてしまうこと自体が、人間のエゴだと思うんだ。」  僕は言いたこと一通り言えた満足感に浸りながら、柵から手を離した。フラミンゴたちは相変わらず各々の時間を過ごしている。僕にはその姿が幸せなものか不幸なものかの判断はつかない。  「本当にあなたは変なことばっかり言うわね。そんなことばっかり言ってたら、誰も近寄ってこないわよ。少なくともあなたに親しい友人がいるようには見えないけどね」  彼女は何の気なしに言った皮肉なのだろうが、僕には思った以上にきいた。完全に図星である。僕が「ほっといてくれ」と棘を含みながら突き放すと、彼女はしてやったと気分良さそうに檻の前から離れていった。  それから彼女は後ろにある、ペンギンの水槽の前にしゃがみこみスケッチブックを開いた。次は僕が彼女の後についていき、絵を描いている姿を横から眺めた。彼女は真横にいる僕をにらみつけてきたが、それから何をするわけでもなく絵を描きはじめた。  「なんでまた絵描いているところ見てるの? 絵を見たらもうやめるんじゃなかったの? 横にいると気が散るんだけど」  彼女は絵を描きながら問いかける。  「別に絵を見たらもう見ないとは言ってないよ。絵をみたら考えると言っただけだよ。それで考えた末に、また見たいなと思っただけだよ」  明らかな屁理屈に、彼女からは可愛らしい舌打ちだけが返ってきた。それでも絵を描くこと自体はやめないらしい。  「それに前にも言ったけど、君が絵を描いている姿が好きなんだよ。いくら見ていても飽きる気がしないよ」  心の中で呟いた気でいたが、思いっきり言葉にこぼれていた。どうも時間が繰り返すようになってから、本音がこぼれやすくなっている。以前の僕なら、絶対に女の子にこんなこと言えない。  思わず恥ずかしくなり彼女の方を見てみると、「あっそ」とまんざらでもなさそうに返事をしてから、絵を描いていた。  それから三十分近く、彼女は無言で絵を描き続けていた。そして完成した絵を見てから、深いため息をこぼした。どうやら今回も気に入らない出来のようだ。  完成した絵を覗きこんでみると、相変わらずペンギンを描いている絵には見えないものであった。それに全体的に不気味な感じも残っている。  それでも僕は、その作品が失敗作であるようには思えなかった。それどころか、ひとつの完成された芸術品であると、心の底から思えた。  それからというもの、彼女は毎日公園に現れては、僕に早く死んでくれと言葉を浴びせ続けた。もちろん、そんなこと真に受けることもないので、結果としてただ一緒にいる時間だけが増えていった。 意味のないそんなやりとりを繰り返した後は、互いに園内を見て周ったり彼女が絵を描いているのを眺めていた。  そういえば今まで知らなかった彼女の名前を知ることになったのも、二人で園内を周るようになってからである。それなりに話すようになったので、いい加減教えてくれるだろうと思って訪ねてみたのだった。  「そういえば、そろそろ名前くらい教えてもらっていいかな?」  のんびり昼寝に興じるレッサーパンダを眺めながら訊ねたところ、「そんなのどうでもいいでしょ」と平坦な口調で返ってきた。基本的に僕の問いかけに、彼女が肯定的な返事をしてくれることはないのだ。  「でもいい加減に名前くらい知ってないと一緒にいるときに呼びづらいと思うんだよ。それに死んでほしい相手の情報ってのは、あって損することはないと思うけど。いつかやる殺害の役にたつんじゃない?」  僕の主張を聞いてから、彼女ははっと事実に気づいたような顔をした。今まで僕の個人情報とかを得ると言った発想がなかったようだ。 割と初歩的なことな気がするのだが、彼女は随分と抜けているらしい。もちろんそんなことを言えば、たちまち不機嫌になりそうなので心の片隅にしまっておいた。  「名前なんていうの?」  「別に教えるのは構わないけど、君の名前も教えてよ」  彼女は仕方なしというように頷く。そんなに名前を教えることが嫌なのだろうか。  「僕は小舘優っていうんだ。改めてよろしくね」  「……私はうらみ」  恨み。彼女から飛び出してきた、おどろおどろしい言葉に思わずぎょっとしてしまった。彼女はそれを察したのか、細かい字まで説明をしてくれた。  「うらみって怨恨の意味じゃないわよ。うらみのうらは、浦賀島の浦。そしてみは見るの見。そう書いて浦見って読むの。結構珍しい苗字だから毎回驚かれるの」  彼女の説明をうけてようやく納得することができた。確かに名前を聞いて、いきなり浦見と言われても嫌な言葉の方を連想してしまう。  「けどこの苗字って今の私にぴったり……」  彼女が小声でつぶやいたが、そのときはその言葉の意味はさっぱり分からなかった。少なくとも今の僕には、明確な理由など知ることはできなかった。  名前だけでなく、浦見さんとは多くのことを話した。やはりなんだかんだで会話に付き合ってくれるようになったのは、浦見さん自身今の状況に退屈していたのだろう。  僕は僕の方で、彼女と話せば話すほど、どんどん彼女に惹かれていった。話してみて分かったのだが、僕と浦見さんは本質的なところではどこか似たような存在なのかもしれない。そう思えることがいくつかあった。  彼女との会話は、他の人と話す際に発生するような息苦しさというものが感じられないのだ。これは単純に僕が、彼女に恋しているために勘違いしている可能性もあるのだろうが、どうもそんな風には思えなかった。  人を殺すことに怯えている浦見さんと、死ぬことに怯えている僕。内容は異なるが、本質的には似たような怯え。そういった憶病さが互いにあるからか、僕たちは物の考え方がとても似ているような気がした。  様々なことを話したが、どれも僕と似たような返事が返ってくることが多かったし、過去に僕が思ったようなことを言ってくることもあった。 また僕とは違う考えを述べてくれるときもあったが、その考えも新しい物の見方としてすんなり受け入れられるようなものばかりであった。  浦見さんと話していると、僕の脳内にある煩雑した考えが、しかるべきに収まるような感覚にさせてくれる。この考えはこの場所に。こんな考えは今までなかったからここに。  彼女と話すことによって、僕の脳内は以前にましてすっきりしていくような感覚である。僕はその感覚がたまらなく好きだった。僕と彼女の考えが程よく混ざり合い、一つの答えへと昇華されていく。これほど喜ばしいことはない。  それに浦見さん自身もある程度、僕との会話を楽しんでくれているようにも思えた。基本的には平坦な口調でしか言葉は返ってこなかったが、以前のような刺々しさはもう感じることはなくなった。それに以前のように、話しかけて無視をされるということもなくなった。  これはもちろん彼女が、僕と嫌々ながらも一緒にいることを選んだということが大きいのだろう。しかしそれ以外にも僕自身の性格の変化も影響していると思う。  彼女と話すようになり、頭の中がすっきりしたおかげか弊害かは分からないが、以前よりも素直に感情を表現できるようになった気がするのだ。  今までの僕は、周りの評価や目線を気にして、当たり障りのないことばかりを口にしていたが、そんなことをせずありのままのことを話すことが増えて来ていた。  彼女の絵を見ても、素直にきれいだねと本心から述べるようになったし、なにか議論をしていても自分の意見をしっかりと述べるようになった。  そんな僕の態度を感じとってか、以前にもまして彼女もフランクな態度で話すようになった気がする。これは今までの僕からしたらとんでもない進化だとしみじみ思う。  思うに、ありのままの自分を出せるようになったおかげで、周りの人との心の距離感が近くなったのだと思う。僕自身常々感じるのだが、うわべだけで物事を述べている人物は、その人の本質的なものが見えてこないから不気味に感じるのだ。  逆になんでもずばずばと言ってしまう人も、人との衝突が多くなり避けられるようになる。それでも、うわべだけの人間よりは、本音を素直に言える人の方が周りに人が集まるというものだ。  やはり人間というものは、得体のしれないものを避けるようにできているのだろう。本音で言ってくるほうが、そのものの本質が見えてきやすいので、その分信頼をすることができるのだろう。  しかし今までの僕は言うまでもなく前者の方であった。それが彼女との出会いを通して、徐々に後者に近づいてきている。きっと以前より、後者の存在に近づいてきた今だからこそ、彼女とのうまく話せるようになったのだと思う。その事実が僕に、今までなかった自信をつけてくれた。  今の状態の僕なら、今までなじめないと思っていた世界にもなじめるという自信がある。もちろん、もう僕が死ぬまで同じ日を繰り返すだけなのだし、この能力は完全に無意味なものになってしまったのだが。  それでも僕の心には後悔という言葉は浮かんでこなかった。こんな呪われた時間の中で得た能力なのだし、いまさら周りの人とうまくやっていこうともそんな思わない。  僕が今願っていることはただ一つ。このまま浦見さんと、ゆるやかに繰り返す日々を平穏に過ごしたいという思いだけである。もちろん、いつかは僕が死んでこの止まっている世界を元に戻す日がくるのだろうが、今はそんなことを考えず、緩い幸せに両足をつっこんだ生活を送っていたかった。  目に見える危険というものはなくなったのだし、当面はこの緩やかな幸福な時間を楽しむつもりでいた。しかしそんな時間はいつまでも続かないのだ。いつだかも言ったが、進展とは己が望まなくなった途端、理不尽にやってくるものなのだから。  もちろんそのときの僕は、そんなこと知る由もなかった。  「どうしたものか……」  夢咲公園に向かう途中、気づかぬうちに独り言がこぼれていた。口から無意識にこぼれた言葉は、変わることなく繰り返される青空へ吸い込まれていく。  ここ最近、僕の脳内ではどうしようもないほどくだらなく、同時にとても重要な選択が堂々巡りしている。彼女とデートにいってみたい。  これは前にも思っていた願望であるが、そのときはとてもデートに誘えるような関係性ではなかった。しかし最近は、よく話すようになったし、以前にもまして彼女も心を開いているように思える。今ならもしかしたら……。そう思うと再び願望が渦巻き始めてしまったのだ。  確かに今の状況も十分デートに近いものであるのだが、せっかくだからもう少し親密になりたいという願いが生まれてきたのだ。恋人とまでは言わずも、せめてちゃんとしたデートくらいはしてはみたかった。 結局なにか欲しいものを手に入れたら、それ以上のものを。そうしてとことん欲求のままに動かされるのはある種、人間の性なのかもしれない。  仮にこの想いのままに、デートへ誘ってみるとしよう。それならどうやって誘うのがベターであるか。  「デートに行かない?」  うさんくさそうな顔をされるのが目にみえる。こんな誘い方では、ばっさりと断られるのがおちだろう。  「たまには気分転換して別の場所にでも行こうよ」  割りといい誘い文句かもしれない。だけど、勝手に行って来ればと言われたらそれまでの話である。それどころか、あなたがさっさと死ねばいいくらいに言われそうだ。  結局良い誘い文句はいくら考えても出てくることはなかった。そもそも女の子とデートに行くどころか、まともに会話したことすらないのだ。そんな人間に気の利いた誘い文句など考えられるはずもない。  浮かぶはずのない無意味な思考は、夢咲公園につくまで終わることはなかった。  夢咲公園にたどり着き展望デッキへと向かうと、すでに浦見さんは来ていて、ぼんやりと外の風景を眺めていた。いつもなら僕の方が先につくので、今日みたいなパターンは珍しかった。  予想外であると同時に困った状況だと思った。結局どうやってデートに誘うかまだ決まっていないのだ。そこで彼女がここに来るまでの時間に、考えてしまおうと思った矢先にこの状況である。  そんな僕の悩みに気づくことなく、浦見さんはこちらを振りかえる。僕を見つけたら嬉しそうに立ちあがる……ということもなく、いつも通り興味なさそうに立ちあがる。  「遅いわよ」  「いや、僕はいつも通りの時間に来てるよ。君がいつもより早いだけだよ」  僕が彼女に携帯の時計を見せると、時刻は十時を指している。夢咲公園は九時から入れるのだが、彼女は本当に開園直後にいたということになる。  彼女もその時刻をみて、自分がどれだけ早く来ていたのか自覚したようだ。確かにこうも同じ日を繰り返すだけだと、時間の感覚がなくなってくるが、さすがにそこまでルーズになるのはどうなのだろうか。  「まあいいわ。とりあえず、どこか動物でも見てくる」  彼女はそっぽ向きながら、園内の方へ歩いていく。どうやら自分があまりにも早くここに着すぎたという事実が恥ずかしかったのだろう。  彼女のあとをついていきながら、再び考えをまとめてみる。彼女自身、早くここに来るということは僕と会うのが嫌ではないということなのだろうか。もしそうだとしたら、デートに誘っても前向きな答えが返ってくるかもしれない。  しかしそんなにうまくいくのだろうか。今回だけ早く来ただけで、別にそこまで好感度は上がってはいないのでは……。それに、ここに早く来ることと、デートに行ってくれること自体はそもそも何の因果もないことだろうし……。  嫌でも……。  これでは結局、行きに自転車で悩んでいるのとなんら変わりない。この際、当たって砕けろの精神で彼女に聞いてみるしかない。決意が鈍らぬうちに、早く切りだそう。  僕は意を決して彼女に声をかけようと、顔をあげる。しかし、そこにはいるはずの彼女の姿は見えなかった。「あれ」と間抜けが声だけが園内に反芻した。  どうやら、僕が思考の渦に囚われている間に、彼女とは別方向に歩いていたらしい。彼女も気づいていたなら声をかけてほしかったものだが、今にして思えば勝手について行っていただけなので、彼女からしたら声をかける義理もない。  なんてそんなことを考えている場合でもない。急いで、園内にいるであろう彼女の捜索を開始した。これで帰られていては、せっかくの決心が無意味になってしまう。  しかし幸運なことに、浦見さんはすぐに見つかった。彼女は入り口近くにあるマーコール舎前にしゃがみこみ、絵を描いていた。気が変わって、帰っていなかったのが幸いであった。  僕が彼女にもとに近寄ると「ああ、まだいたのね」とそっけない言葉だけをかけてきた。この様子だと、僕が途中で別の方向に進んでいたことに気づいていたのだろう。  「途中でいなくなったのに気づいたなら、声をかけてほしかったよ」  「あなたが自主的にいなくなったと思ったから声かけなかったの。それに別について来てとは言ってないし」  分かりきったことを訪ねたが、やはり予想通りの返事が返ってきた。しかし、その理屈を通すなら、はなから僕が来る前に勝手に公園内を回っていたらよいはずだ。それでも、僕が来るのを待ってくれたのが、僕はとても嬉しかった。  彼女は一通り会話を終えたあと、再び絵を描く作業に戻った。これでまた誘うタイミングを失ってしまった。彼女が絵を描いているときに誘うことも可能なのだろうが、どうにもその気にはなれない。  彼女は絵を描いているときはほとんど口を開かないし、話しかけても面倒くさそうな顔をされるのだ。それに僕自身、浦見さんが絵を描いている姿が好きだったので、それを邪魔してまでなにか話しかけたいとは思えなかった。  「それにしても……」  そんなことを考えていた矢先、彼女の方から声をかけられる。  「いい加減、動物ばかり描くのも飽きてきたわね……」  どうやら話しかけてきたわけでなく、ただの独り言のようだ。それにしても独り言も随分と珍しい。基本的に絵を描いているときは、彼女から話しかけてもこないし、言葉も発しないのだ。  珍しく話しかけられたことに気が取られていたが、独り言の内容も気になる。あの発言は遠まわしにどこか出かけたいということなのだろうか。それとも単純な感想なのだろうか。あれだけでは推測ができない。  しかし、誘うなら今のタイミングがベストであることだけは分かる。せっかく、どこかに行きたいという話題が出たの。デートに誘うなら今しかない。  「今さっき動物ばかり描くのを飽きたと言ってたけど……」  意を決して第一声を発する。努めて平静な声で話しかけようとしたが、あからさまに声が上ずっている。われながら大したへたれ具合である。  「それならどこか別の場所に行って絵を描いてみれば? 割と近場に自然が多いところがあるのを知ってるんだけど、良かったら明日案内しようか……」  必死に声を張ろうとするが、後半になるにつれどんどん声が小さくなっていく。当の浦見さんは、予想外な誘いに絵を描くのをとめこちらに顔を向けている。それからしばらく考えるような素振りをする。  「じゃあ連れてって……」  「ごめん、聞き取れなかった」  「だから連れてって言ったの」  あちらから返ってくる返答もあまりにも小さかったので聞きなおしたら、彼女も半ばやけくそに答えを返してきた。  「え、じゃあ一緒に行ってくれるってこと?」  あまりにも予想外な回答に改めて確認をすると、「そうって言ってるでしょ」とそっぽ向きながら答えてくれた。僕自身も死ぬほど恥ずかしいが、彼女もそれなりに恥ずかしいらしい。なんにしても、人並みの反応がとても可愛らしい。  「それで、その場所って遠いの?」  完全に浮かれてしまい、にやけそうになっているところに彼女からの質問が飛んでくる。僕は今度こそ努めて平静な声で答えるようにする。  「さっきも言ったけど、そこまでは遠くないかな。この公園の近くにある駅から、電車で一本で行けるところだよ。最寄りの駅からまた少し歩くことになるけど」  「ふーん、そうなのね」  「それじゃ行くとしたら、何時にどこに集合しようか?」  「どこでもいい。任せる」  二人で予定が立てるのも楽しみであっただけにこの解答は残念であった。しかし、一緒に来てくれると言ってくれただけでも、今は十分だったのでそこは気にしないようにしておこう。  「じゃあさっき言った駅の改札前に、十時に集合ってのはどう?」  とくに時間にはこだわりがなかったので、適当な時間を指定すると「わかった」と短い返事が返ってくる。それで会話が終わったと判断したのか、彼女は再び絵を描く作業に戻っていった。  それからしばらく黙々と彼女は絵を描いていたが、正直絵を描いていてくれたとても助かった。嬉しさのあまりだらしない顔になっている今の状況を、彼女に見られるわけにはいかなかった。  それからしばらくして絵が完成したようだ。その絵を不満げに眺めてから、スケッチブックをしまって立ちあがった。  「なんだか今日は絵を描く気分にはならない。だからもう帰る」  彼女はそれだけ宣言し、帰る支度を始めた。いつもならもっと園内に残って、動物を見たり絵を描いているのだが今日はやけに早い。遅いときは閉園ぎりぎりまで残っているのだが、今はまだ正午近くである。  正直、こんなにすぐ帰ると言われたのはショックではあったが、明日も会えるのだしそこは我慢することにした。それに僕自身も、これ以上一緒にいると浮かれているのがばれてしまいそうなので、助かったと言えば助かった。  「じゃあ明日は、十時に駅の改札前集合でお願いね」  さすがに忘れられていたら嫌なので、念のためもう一度予定を伝えておく。  「そんなに言わなくても分かってるわよ。何度もしつこいよ。……じゃあまた明日」  彼女はあきれたように返事をして、立ち去っていく。しかし、その声音はいつもより上機嫌なように思えた。もっともいつもより嬉しそうな声で話していると感じてしまったのは、僕自身が浮かれすぎているからかもしれないが。  電車の窓に映る僕自身を確認しながら、どこか変なところはないか再確認する。うっすらと反射して移っている僕は、シンプルなセーターにチノパンといつもよりはしっかりとした恰好をしていると思える。 次の日が楽しみで眠れなかった。なんという小学生じみたことはなかったが、今朝から僕は期待と緊張でとてもそわそわしていた。そして家の鏡の前で、ひたすら唸り声をあげていたのも懐かしい話だ。  なにを着ていくべきだろうか。向こうがどう思っているかは分からないが、少なくとも僕の中では今日はデートのつもりだ。それならいつもの適当な格好だと、駄目な気がするのだ。  本当は昨日も寝る前にネットを使って、初デートの心得のようなものが載っているサイトを見ていた。相談する相手のいない僕は、ネットに頼るしかなかった。  しかし、さすがにそこまで張り切りすぎるのも変な気がしたので、昨日見たものは忘れることにした。うまく言えないのだが、僕と浦見さんの関係をそんな一般的な男女関係に収めたくないという僕の願望があったのかもしれない。  ならその理屈でいくなら、あまり恰好も凝りすぎるといけないということになるのではないか。とはいえ、さすがにいつもの適当な格好で行くのも憚られる。  そこで折衷案として採用されたのが、普段どこかに出かける際に来ていく程度のラフな格好ということだ。これなら、それほど張り切っているようには見えないだろう。  服装について思案しているうちにあっという間に、集合場所の駅までたどり着いていた。開くドアから電車を降りるが、ピークの時間が過ぎたこの時間帯では、僕しか降りる人間はいなかった。  改札を抜け時計を見てみると、時刻は九時四十五分を指していた。遅刻するのは申し訳ないと思ったのだが、さすがに少し早く着すぎたかもしれない。周りを見渡してみても、浦見さんは見当たらなかった。  まあ遅刻するよりはいいかと壁に寄り掛かったところで真横から、「ちょっと」と急に声をかけられる。驚きながら横を見てみると、さっきまでいなかった浦見さんがすぐ目の前にいた。さすがにそこまで近くにいて気づかないのはありえないと思ったが、彼女の格好をみてすぐに理由を理解した。  僕は彼女を探すとき、無意識のうちに人目につくあのへんてこな格好を目安に探していたのだ。だが目の前の彼女は、可愛らしい柄の入ったトレーナーに、ショートパンツ、その下に黒のストッキングといった、いつもとまったく異なる格好をしていたのだ。  割とシンプルな格好なのだろうが、素材が良いだけにそれだけでもかなり見違えて見えた。見た目は高校生くらいな気がするが、これならさぞかし学校でも人気者なのだろうと思えるようなほど、完璧な容姿へと変貌していた。  「ごめん、いつもみたいなジャージで来ると思ってたから見つけられなかった。ちゃんと私服きているところ初めてみたよ」  「別に私だって、いつもあんなへんてこな格好しているわけじゃないわよ。たまには、ちゃんとした格好もするわよ」  機嫌を損ねてしまったのか、むすっとした表情で彼女は話す。だけど、「いつもそういった格好した方がいいよ。似合ってるよ」と言うと、「ありがとう」とまんざらでもなさそうな答えが返ってきた。どうやり考えていることは二人そろって同じようだ。  予定より早い集合になってしまったが、別に大して不都合があるわけでもないので、そのまますぐに目的地に向かうことにした。電車に乗りこむと、行きの電車と同様に人気は少なかった。  「電車に乗るのも随分と久しぶり」  がらがらの車内を見渡しながら、彼女がつぶやく。毎日、夢咲公園までは歩きかなにかで来ているのだろうか。それなら多分家もここらへんなのだろう。  そんなことを考えながら、電車に乗っている人達を見渡してみる。数少ない乗客はそれぞれの作業に没頭しながら、電車に揺られている。  そんな中、少し遠くに一組のカップルが見える。普段なら気にするような距離ではないが、遠目からでも分かるほどにべたべたしているため嫌でも目についてしまう。さすがに公衆の面前であれは勘弁してもらいたい。  横を見てみると、どうやら彼女もあのカップルに気がついたようだ。冷めた眼差しで向こうを眺めている。  「どうにも、あんな風にべたべたする感覚が分からない」  主語が抜けているが、あのカップルを指していることは間違いないだろう。  「さすがにあそこまで、人目も憚らずにってのは理解できないかもね。だけど、仲がいいことは良いんじゃない?」 「でも見ててなんだか不愉快なの。それに、そもそも男女間の交際についてもいまいち共感できないし。恋愛って一時的な脳のバグみたいなものでしょ。そのことに気づかずに、相手のことを盲目的に好きでいつづける姿が見てて馬鹿らしい」   冷めた口調で淡々と語っていく。その口調からは、一切の冗談などを感じない。浦見さんと仲良くなりたい僕としては、耳が痛い話である。  それにしても随分と淡白な考え方である。もう少しロマンチックな考えを持っていてもいいと思うが、さすがにそこまで口出しする義理もない。  前にも思ったことなのだが、彼女は個人の主観や先入観より、その物事の本質を大事にしているのだろう。そのため恋愛で盲目的になり、互いの存在を見失うということが嫌だと感じるのだろう。  「確かに互いの本質を見失うという意味では、バグって言ってもいいかもね。だけどその当人たちからしたら、それが普通のことなんじゃないかな。だからその人たちにとっては、それが正解なんだよ。真の正しさってのは、客観的なものではなく主観的なものだと思うんだ」  「相変わらず、変なこと考えてるわね。だけど、結局互いにダメなところが見えてきた途端に、それは正解からただのバグになり下がると思わない?」  「確かにその通りだね」  彼女の考えも妥当である。そのときは正解だと思っていても、のちに間違いへと変わる。ある種正当性とは流動的なものだと考えてもよいのかもしれない。  それにしても、さっき彼女に変なことを考えていると言われたが、それは彼女も同じだと思う。こんな話に向き合ってくれた人は今まで一度も会ったことがない。  「さっき、僕に変なことを考えているって言ったけど、君も結構面白い考え方しているよね。こんな話してまともに相手してくれる人ってあまりいなくない?」  「別に私だってこんなこと、滅多に話さないわよ」  彼女は何気ない口調で話す。要するに僕の前だから、こんな話をするということなのだろうか。そう考えると、なんだか嬉しいような恥ずかしいようなこそばゆい気持ちになった。  彼女のことを見ているのも恥ずかしいので、先程のカップルに目線を戻すと、いつの間にか電車の中からいなくなっていた。  それから五分もしないうちに目的の駅に到着した。二人して電車から降りると、外の心地よい風が出迎えてくれる。 僕たち以外に降りた人はいないようで、ホームは車と電車の走る音だけで満たされている。この静寂さは夢咲公園に似ているなとぼんやりと考える。時間の流れがゆっくりに感じる心地よさが周りを満たしている。  改札を抜けて左折し、すぐに見える小学校を左へと曲がる。学校を見てみると子供たちが体育の授業をしているのが見える。周りには、人気も少なく平日の穏やかな時間が流れている。  「そろそろ目的地を教えてくれないかしら? もしかしてお墓に行こうとか言うんじゃないでしょうね?」  「いや、さすがにお墓には連れて行かないよ。ここからしばらく歩いたところに、県立の森林公園があるんだよ。平日だと人も少ないし、緑も多いから絵を描くにはいいと思うんだ。ただ駅から30分近く歩くことになるけど大丈夫?」  「大丈夫もなにも、ここまで来たら歩くしかないじゃない。もっと早くいいなさいよ」  彼女の意見はもっともであった。あてもなく散歩をするのが好きな僕を基準に考えていたので、30分が長時間にあたるという考えが抜け落ちていた。  そういえば先程の会話で気になったのだが、どうして彼女はお墓に行くかもしれないと考えたのだろうか。確かにこの駅のそばには、大きな霊園がありそれの案内もある。だからと言ってお墓に行くと言う考えが浮かんでくるのだろうか。  それから宣言通り30分近く歩いて、ようやく森林公園にたどり着いた。11月とはいえ暖かい日なので、公園に着くころには互いにうっすらと汗をかいている。  「小さい頃、よくここに来てたわ」  彼女の反応を知ろうとした矢先、彼女から感想がこぼれる。これは完全に失敗だ。確かに市内に住んでいるなら、ここは使うかもしれないが、そこまでよく来ていたのは予想外である。  彼女を満足させることが出来なく落ち込んでいると、「久しぶりだし、絵を描くのは初めてだからいいよ」という優しげなフォローを入れられる。その優しさがかえって僕を惨めにさせる。  気を取り直して公園内に入ってみると、やはり人の数は少なかった。犬の散歩をしている老人や、小さい子供をつれた家族などしかいない。こういった過疎具合も夢咲公園に似ている。  しばらく道なりに歩くと、左手にユリ園と書かれている階段にたどり着く。木製の階段がしばらく続いており、その周りにはむき出しの土だけがさらされている。見ごろの時期になれば、階段のまわりを満面のユリが囲むようになるのだろうが、今は殺風景な光景だけが広がっている。もちろんこんな殺風景な光景を見ようとする人はいない。  だけどあえて僕が、こっちの方に行こうと言うと彼女も素直について来てくれた。  「ユリが咲いているところも綺麗なんだろうけど、僕はこの殺風景な光景の方が好きかな」  「なんとなく言いたいことは分かる気がする。華やかな場所より、殺風景で物静かなところが好きなんでしょ? 寂れたゲームセンターとか、シャッターが下りきった商店街とか」  「そんな感覚だね。思うに今の世の中は、意義のあるものが重要だと言う考えが蔓延し過ぎていると思うんだ。別にそれを否定する気はないけど、そんな考えに真っ向から喧嘩を売っているような、寂れた場所に惹かれるんだよ」  それからユリ園を抜けた後、しばらく遊歩道を進み続ける。周りは名前も知らない大きな木々に囲われており、どこか薄暗い印象を与えている。それでもその侘しさが、なにか心の奥にある暖かな感情を引き出してくれるような感覚に陥る。  遊歩道を抜けると、目の前に広場が現れる。先ほどまで潜んでいた太陽は、暖かな光を広場へ降りそそいでいる。時計を見てみると時刻は11時半を指していた。時間もちょうど良いということで、この広場で昼食をとることにする。  木陰にあるベンチに腰をかけ、道中に買った昼食を用意する。彼女の手料理が食べてみたいという願望はあったが、彼女もコンビニで昼食を用意していたのでそれは叶いそうにない。  昼食を食べている間、広場の奥の方では幼稚園生くらいの集団がみんなで何やらレクのようなものをやっている。先生と思しき人がいるところから、園内の予定でここに来ているのだろう。  単純なかけっこなどに全力で取り組んでいる子供たちを見ているのは嫌ではなかった。子供が好きという訳ではないが、自分にはあんな純粋な時期があったのだなと思い出に浸ることができた。彼女も方も黙って子供の方を見つめている。どうやら彼女もなにか思うところがあるのだろう。  それからの時間は、夢咲公園にいるときとさして変わりなかった。気の向くままに公園内を見て周り、彼女が気に入った場所で絵を描く。 僕はそんな彼女の姿を静かに眺めていた。描き上がる絵は相変わらず不気味で彼女は不服そうだが、僕はそんな彼女の絵をきれいだと褒め続けた。  僕が褒めたおかげかは分からないが、彼女はそれからも絵を描き続けてくれた。いい場所が見つかるまで二人で雑談をしながら園内を周り、場所が見つかったら絵を描く。その単調な作業を繰り返しているだけで、気が付けば太陽は西へと傾いていた。  僕は公園を去る前に、どうしても連れて行きたい場所があった。その旨を彼女に伝えると、「じゃあ案内して」と素直な返答が返ってくる。  始めの方に通ったユリ園を再度抜けて、そこからさっきとは逆の道を進む。それからしばらく階段を昇ると、広間のような場所に到着した。広間と行っても、昼にいた所よりははるかに小さく、周りも木々に囲まれていて日当たりも悪い。それでも端にあるベンチからは、街中を一望することができた。また木々の葉っぱがないことにより、ところどころ暖かな西日が広間へと差しこんでいる。  「この公園内で一番気に入っている場所がここなんだよ。公園の端にあるから、街を一望することが出来るし、この時期だと西日が差しこんでとてもきれいなんだよ。それにこの時間になると人もほとんど通らないから、この景色を独り占めできるんだ」  「確かにいい場所ね……」  それから二人で同じベンチに腰をかけ、夕焼け色の街並みを堪能した。その間会話はなかったが、気まずい沈黙ではなかった。そこにある空間を噛みしめるような、心地よい沈黙が周りを包んでいた。  「今日はここに連れてきてくれてありがとう。結構楽しかった」  今まで聞いてきた声の中でもっとも素直で、かつ優しい声で話しかけられる。彼女の方を見ると、優しげな笑みを浮かべている。それだけを告げると、再び視線を街の方へと戻し考え事を始める。その横顔がわずかに紅潮しているように見えるのは、夕日のせいなのか照れているからなのかは分からない。  「こちらこそ、俺について来てくれてありがとう。楽しめたならよかったよ」  「だけど結局、夢咲公園にいるときとやっていることはほとんど変わんなかったけどね。絵、描いているの見ているだけで飽きなかったの?」  「何度も言っていることだけど、僕は浦見さんが絵を描いている姿を見るのが好きなんだよ。それにこうやっていつも通りに過ごせるってことが、なによりの幸せだと思うんだ。案外こういった手堅い幸せを手に入れることって難しいしね」  大切なものはなくしてから気が付く。そんな言葉はよく使われているが、今ならその言葉の意味もはっきりと理解することができる。一度命を落としたことにより、この緩やかな平穏がとても愛おしいものだと気付くことができたのだ。  そしてその時間を、彼女と一緒に過ごすことができる。これ以上にない幸せだと思う。たとえその対価が、僕の命というとてつもなく重いものだとしても。  「あの……あなたに見せたいものがあるんだけど……」  彼女はしばらく迷ってからそう切り出し、鞄の中から一冊のスケッチブックを取りだした。いつも使っているものと同じ型のものだけど、色やデザインが若干異なる。どうしたものかと悩んでいる僕に、開いてみてと催促してくる。  言われるがままに開いたスケッチブックには、当然だが様々な絵が描かれていた。しかし、いつも彼女と描いている絵とはまったく異なるものが描かれている。  風景や動物、それに公園などで遊ぶ子供たち。とりあげているものは一緒だが、絵の中身が全く異なるのだ。今まで見てきた不気味さは一切含まれておらず、鮮やかな色合いでそのものの特徴を綺麗に切り取った絵。誰が見てもとても綺麗な絵だと言うようなものばかりである。  「そのスケッチブックに描いてある絵は、今から二、三ヵ月くらい前に描いたものなの。今の絵とは全然違うでしょう?」  確かに現在の絵とこの絵を描いた人物が同じであると、気づくことは困難であるほどこれらはかけ離れた作品になっていた。この絵を基準に考えるなら、今の絵を見て嫌になるのも頷ける。だが、僕から言わしてみれば、現在の絵も十分に美しいと思うのだが。  それより気になるのは、どうして今のような絵しか描けなくなってしまったのかである。これだけの極端な変化があるということは、彼女の中でよほど大きな出来事があったのだろうか。  「今みたいな絵しか描けなくなったのは、一ヵ月前からなの。ある事件によって私の人生が滅茶苦茶にされたのがきっかけ」  そう言って彼女は話を切り出した。  「自分で言うのはなんだけど、その事件が起こるまでは私の周辺環境は平和そのものだったの。それを平凡とも言うこともできるのだけどね。特別裕福な家庭だったわけではないけど、親は私に良くしてくれていたし、私自身親のことは好きだった。それに学校でも、友達こそ多くはなかったけど、その少ない友達とはうまくやっていたと思うわ。だけどその平穏な生活を、一人の男によって破壊されたの」  僕から憐れみを受けたくないのか、彼女は淡々とした口調で説明を続ける。まるで自分とは関係のない人物の話であるかのように話をしていく。  僕は彼女の意思を尊重しようと、出来る限り口を挟まずに話を聞くことにした。しかし、胸の中になにか引っかかるものを感じる。この違和感はなんなのだろう。  「その一件の後、私の生活は悪い意味で激変したわ。誇張とかなしに、180度人生が変わったといってもいいわね」  沈黙が流れる。ここは僕からその先の話を催促するべきなのだろうか。この間はきっと、僕から話を切り出してほしいという合図なのだろう。  だけど、ここで原因を聞いてしまったらもう、僕らは今まで通りの関係でいられない気がした。なぜだがそんな予感がした。  しかし、ここで僕が逃げ出すことはできない。彼女が勇気を出して、きっかけを作ってくれたのだから、僕はその勇気に応える義務がある。  「その事件ってのは、どんなものだったの?」  あたりが静寂に包まれる。風が抜けていく音だけが、やけにはっきりと聞こえる。  「……多分あなたもテレビとかで目にしたことがあると思う。先月にあった『夫婦刺殺事件』。あれって私の親のことなの。そして私はたまたま、その現場から唯一助かった人間なの」  彼女の言葉をはじめは、理解できなかった。目の前が真っ暗になるということは、まさにこのような状態を指すのだろう。これですべての点と点が繋がった。  仮に神様というものがいるのなら、どれだけ理不尽な現実をつきつけてくるのだろうか。しかしこれは紛れもない真実である。僕達の関係が終わりへと向かい始める。
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