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目覚めたら、目尻が濡れていた。あたし泣いていたみたい。何か悲しい夢を見たのはわかるんだけど、夢の内容は……思い出せない。
あたしは涙を手の甲でぬぐって、布団から起き上がった。畳の上、障子とふすま。和風旅館みたいな、この部屋にまだ慣れない。
鳥のさえずりを邪魔するように、ラジオ体操のメロディーが響いてきて、これで眠りを覚まされたのだと気づいた。
音の方向へ歩き出す。部屋の障子の外は、木の廊下で、ガラス戸越しに中庭が見える。うっそうと茂る濃い緑。
廊下の突き当りに、大きなフレームに入ったモノクロ写真。三日前にこの家に来てからずっと、あたしはこの写真が気になっていた。
廃墟のようなビルの一室に、下着姿の女性が一人椅子に浅く腰かけている。俯いて表情は見えないが身体全体から醸しだす、悲しみ、孤独、疲労。見過ごすことができなかった。
あたしは左の戸を開けて居間に入った。体操の音楽はテレビから流れていた。あたしは見るなり叫んだ。
「社長! なんて恰好しているんですか!」
テレビに向かって腕を振っている男。白いものが混じった髪は、寝癖がそのままでボサボサ。分厚い黒ぶち眼鏡をかけ、あごに無精ひげ。やせて少し猫背の体に、浴衣と黒いドテラを着ている。ひどく年寄りくさい。朝なのに何てだらしない。でも社長は一日中この格好なんだけど。
「社長。そんなんじゃ若い女性に嫌われますよ。もう少し身なりに気を遣ってくれないと」
と言った専務は、社長の斜め横で体操をしている。社長は、ぼくの自由だろう、みたいなことを口の中でモゴモゴ呟いた。
専務は言うだけあって、長めの黒髪を後ろで縛り、白いシャツのボタンを襟元までとめている。顔色が黒っぽい。四十代の女性がきちんとしても、掃除のおばさんみたいだ。
体操が終わると、専務は台所へ向かった。あたしは、「朝食、手伝います」と言った。ありがとうと微笑んだ専務の顔が、次の瞬間、怒りに変わった。
「社長! どうして生ゴミ入れにビール缶を捨てるんですか! それにビール捨てるんなら、ちゃんと水を流して清潔にして下さい!」
社長は聞こえないふりをして、テーブルで新聞を広げて読みだした。信じられない。
専務は怒りながらも朝食の準備を進めていた。動作が早くムダがなく、専務だけ早送りで回っているかのよう。味噌汁が煮える間に、専務は炊き上がったご飯の真ん中をよそって、小さな金属の入れ物に盛り上げた。
「ぼくが、仏壇にお供えしようか?」
急に新聞から顔を上げた社長が言った。
「いいえ、社長は座ってて下さい」
と言うと、専務はお盆を持って行った。
朝食ができた。ほとんど専務の仕事。あたし何も手伝えていない。恥ずかしい。専務の料理は、薄味で上品で、抜群においしいんだ。
「ねえ、篠原さん。そろそろお家のことを話してくれない?」
おもむろに専務が言う。あたしは黙りこむ。
「じゃあ、お家に連絡した?」
あたしは頷いたが、これは嘘。ウチに、ママに電話していない。したくない。
「まあまあ、篠原くんもまだ落ちついていないんだろう。ウン」
と社長がひどく場から浮いた発言をした。専務が凄い目でにらみつけたが、社長は気にせず続けた。
「なにせ、篠原くんは、ゴミ袋の間に倒れていたんだからな」
これ、間違い。ちゃんと言ったけどな。あたしは、ゴミとして捨てられたんだって。
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