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 ある日の夕方、あたしは居間にいた。社長は執筆中、専務は買い物なのか、不在だった。  「社長の子どもを産んで」と言われた夜から気まずくて、社長と顔を合わせられない。  この家にとって、あたしは何? 正社員と言ってもバイトと同じで、会社員ごっこをしているのにすぎないことはわかっている。  ここもいつか出て行かなくてはならない。いつか一人であたしは、冷たく厳しい社会で、生きていけるのだろうか? 他の人は守ってくれるものがある。家族、学校、会社。でも、それらが敵に回ったら、どうしたらいいの?  この「会社」は居心地がよかった。もっといたい。いてもいいのかな?  ごめん下さい。声と共に、玄関の引き戸がガラガラ開く音がした。あたしは玄関に出た。 「松本と申しますが、名上直澄さんはご在宅ですか」  編集者という感じではなかった。紺色のスーツできめた四十歳位の男がじろじろ見ている。大人って、こういう感じだったな。好きになれない。あたしは社長に名刺を渡した。 「松本? しつこいな」と言いながら、社長は部屋を出た。玄関から二人の声がしてきた。 「会長に会って頂けませんか?」  と松本という男は喋っていた。 「社長がウンと言う訳ないだろう。ぼくは失敗した身だ」 「あの時のことは、会長も後悔されています」 「もう、ぼくには今の仕事が大事だ。ぼくのことは忘れて下さい、と伝えてくれ」  松本が帰ると、お茶、と社長が居間に入ってきた。あたしは緑茶を淹れながら、好奇心を抑えきれなかった。 「手伝ってあげないんですか?」 「ぼくは、今の生活の方が性に合ってる」  社長はどうして会社を辞めたんだろう。社長は今の松本とは全く違う。不思議なことに、今まで社長に感じていた気まずさを、いつの間にか忘れていた。  社長はふいにソファから立ち上がった。廊下を突き当りまで歩くと、写真の前に立ち止まった。廃墟のような部屋で下着姿の女が腰掛けている写真。 「あたし、この写真好きです」 「そうか……」 「社長……この人はあたしの憧れなんです……この人は一人で強く生きている気がする。あたし、強くなりたいです。専務みたいに」 「ぼくは、君に似ていると思っていたけどね。何物にも縛られず、可能性に満ちている。ぼくや専務にはないものだ。いや、専務の可能性を奪ったのは、ぼくか……」 「専務は、今の仕事、好きだと思います」 「専務は、働くこと自体好きだ。大企業に勤めていたのに……専務は全てを諦めて、ただ一つ残った仕事も諦めなくてはならなくなって……いつか埋め合わせしなくてはと思っていたのに、もうリミットが……」 「リミット?」  とあたしは問い返したが、社長は、それ以上口を開こうとはしなかった。
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