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Case2 歪な形のブロックピース①
「夜に光ってるお星様は、空の彼方のとてもとても遠いところにあってね。今光ってる星は実はもう消えて無くなっている星かもしれないんだよ」
子供の頃に聞いた、母親の何気ない言葉が、とてもとても怖かった。
自分が見ているものが、今起こっていることではないという認識。今では光には速さがあって、夜空の星は何十、何百光年も遠くにあるから。今届いてる光は凄く昔の光で、宇宙の彼方ではその星はもう爆発したり、隕石がぶつかって無くなっているかもしれない、ということは理解できるけど、当時の幼い私は何も知らなかった。
わからない。
母の言葉を聞いてから、子供の頃は星空が怖くてたまらなくなった。私を照らす太陽や、星の光――全ての光が、プラネタリウムで映し出されるでっち上げの人工の光に見えた。その作り物の光が当たる真っ黒な書割の外側には、何があるの? アリの巣観察キットを覗き込むような、巨大な一つの眼がこちらのことをじっと覗き込んでいるのかもしれない。そう考えると背筋がぞわり、と逆立った。
ニセモノに見える空が書割かどうか確かめたくて、川で拾った小さな石を空に向かって思いっきり投げた。それは決して書割に届くこともなく、すぐに重力に負けてしまって川に落ちて小さな水しぶきをあげる。それでも私は、消えることのない恐怖に立ち向かうように何度も投げた。何度も、何度も。
私の水晶体が映し出し、神経を経由して情報が届けられた頭蓋骨の中で揺蕩う灰色の脳が視界を経由して認識しているこの世界は、果たして本当に正しく見えているのだろうか。経由されている中継地点のようなところで齟齬が生まれて、何が別のものを認識しているのかもしれないし、実は見えているもの全てがニセモノかもしれない。仮に脳が間違って認識しているなら、この世界は本当に正しいものだろうか。
私を照らす太陽は、本当に宇宙の彼方に存在しているの? 実際に私がいるこの世界はアクアリウムのようなもので、そこを何処かから照らす照明が付いたり消えたりしているだけかもしれない。水槽の中で産まれ、その外側を認識せずにここが自分の世界と思い込んでいる熱帯魚のように。
私の見ている『赤』は本当に『赤』なの? 実は世界はモノクロ映画みたいに現実には色なんか存在していなくて、私がその一つのグレーを赤いと思い込んでいて。ニセモノのみんながそれに合わせているだけかもしれない。
私が聞いている鳥の鳴き声は、本当に鳥が鳴いてるの? 書割の奥に小さな小さなスピーカーがあって、そこから鳥の囀りが流れているだけかもしれない。そもそも、鳥なんて生き物は本当はいないのかもしれない。朝ごはんで出てくる目玉焼きにも使われる鶏の卵は新しい命なんか宿ることなく、誰もいない工場で全自動で作られているかもしれない。
わからない。わからない。
世界の何もかもがニセモノなら――お母さんや、クラスメイトの綾菜ちゃんや茉莉江ちゃん、明良ちゃんも。みんな、みんな。
誰も彼も、私の知っているはずの大好きな人達は、誰も気づかないうちにいつの間にかニセモノにすり変わっているかもしれない。そもそもはじめから私の頭の中の妄想の産物かもしれない。一瞬でもそれを疑ってしまうと、もう何もかもわからなくなっていく。信じることが出来なくなっていく。
「もう朝よ、早く起きなさい」
「おはよう、最近湿気が多くて嫌になっちゃいますね」
「宿題やった?私、忘れちゃってさ……一生のお願い!ノート見せて!」
「ねぇねぇ聞いてよ、彼氏がねーー」
「おかえり、早かったわね。晩ご飯は何が食べたい?」
「山石さん」「ことりん」「琴里ちゃん」「琴里」「山石さん」「ことりん」「琴里ちゃん」「琴里」「山石さん」「ことりん」「琴里ちゃん」「琴里」「山石さん」「ことりん」「琴里ちゃん」「琴里」「山石さん」「ことりん」「琴里ちゃん」「琴里」「山石さん」「ことりん」「琴里ちゃん」「琴里」「山石さん」「ことりん」「琴里ちゃん」「琴里」「山石さん」「ことりん」「琴里ちゃん」「琴里」「山石さん」「ことりん」「琴里ちゃん」「琴里」「山石さん」「ことりん」「琴里ちゃん」「琴里」「山石さん」「ことりん」「琴里ちゃん」「琴里」
私を呼ぶ声、どれがホンモノ?どれがニセモノ?
わからない。わからない。わからない。
疑問符が疑問符を呼び、頭の中がクエスチョンマークで埋め尽くされる。その疑問符は、延々と積み上げられるパズルゲームのブロックピースのように私の脳内で乱雑に配置されていく。それは決して揃うことが無いために消えることはない。隙間を大量に作りながら、ゲームオーバーのゲージをとうに超えて画面よりも高く高く積み上がり続けていく。私はその僅かな隙間の中で、自問自答を続けていった。思考の時間ですら、疑問符という名のブロックピースはゆっくりと静かに私の頭の中に落ちてくる。
そもそも、『私』は本当に『私』? 試験管の中に浮かんでいる脳だけになっている私が見ている最後の夢じゃないと証明できる人なんて誰もいない。だって「違うよ」って言う人すら、幻かもしれないから。それは間違いかもしれないから。本当だと証明することは出来ないから。
私は私であることを誰も証明できない。私は精巧に作られた血と内臓がぎっしりと詰められた、骨と筋肉で作られたマネキンと人間を区別することが出来ない。そもそも、何をもって私なの? 何をもって自我なの? 何をもって人間なの? 何をもって認識なの? 何をもって世界なの? 存在しないものを証明することは出来ないならば、私の胸の中で蠢き回るこの感情は一体何なのだろう。
わからない。わからない。わからない。わからない。
ニセモノかもしれないものと触れ合いながら毎日毎日、世界の見分け方を考え続けた。考えても考えても考えても考えても答えは結局出ることはなく、夜遅くまで思考を巡らせる。考え疲れて寝ているときも、夢の中でも考え続ける。何回夜を過ごしても、答えは出ることはなかった。何回朝日を浴びても、答えは出ることはなかった。
自分自身に向かって問い掛け続ける日々。脳の中でひたすら世界を解剖するシミュレーションを続け、仮染めの方程式を組み立てていく。仮定で満たされた偽りの公式に向かってデタラメな数式を片っ端から入れていくうちに、いつしか問い掛けは祈りになっていた。
誰か、この書割を壊してください。ニセモノを全て吹き飛ばしてください。薄っぺらい仮染めの空を映す天井に大きな大きな穴を開けて、その奥にある真実を私に見せてください。ニセモノではない、ホンモノの世界というものを私に教えてください。回答をください。
縋るように祈り続けた。答えを求め続けた。
あまりに滑稽すぎる自分の有様に自嘲することはなかったと言えば嘘になる。それでも、私の頭の中で何度も何度もループされていく問い掛けの決定的な答えを知りたかった。
――麗らかな日差しの下、舞い散る桜の花びらも。
―――容赦なく照りつける、燃えるような夏の太陽も。
――――実りを告げる、鮮やかな色をした森の木々も。
―――――この身を凍えさせ、突き刺すような冬の空気も。
何も教えてはくれなかった。ただ、時間だけが過ぎ去っていった。
悩み、考え、祈り続けて。何日、何ヶ月、何年が過ぎたか。数えるのが億劫になるほどの月日が流れたある日、私の頭の内側で埋め尽くされていた疑問符を解決してくれるかもしれない出来事がようやく訪れた。
例のもうすぐやってくる、全てを滅ぼす隕石だ。昔の演劇に出てきた機械仕掛けの神のような、全ての盤面を理不尽に見えるほど一瞬で終わらせる存在に、私は身震いした。本当に演劇などでみられる物語を強引に終わらせてしまうものがやってくる。巨大で凶悪な何もかも吹き飛ばす石の塊が、書割を突き破ってホンモノの世界を私に見せてくれるかもしれない。虚構を映し出すプロジェクターの外側を私に教えてくれる。私を見下ろす巨大な目があるのかどうかを認識することが出来るかもしれない。
この頭の中を埋め尽くす歪な形のブロックピースを消してくれる要素に、諦めの感情やや自殺願望のようなものを持たない人間の中で恐らく世界でただ1人。私だけが、この隕石を歓迎した。単純な知識の欲求が、悲しみや怒りや諦めを上回ったのだ。恥ずかしい話ではあるが――この報せを聞いて、答えが解けるかもしれないことを認識した瞬間に私は全身の毛穴が開き、身震いするほどの性的な快感を覚えた。
性的な快楽の種類には溜め込んだものを吐き出す瞬間に感じるものもあるとどこかで聞いたことがある。それが本当かどうかわからないけど、隙間を埋めるパズルのピースが見つかったと形容するべきか。手の届かない痒いところに手が届いたような感覚。足の裏から大量の蟻が歩くようなぞわりぞわりとした感覚が神経の上を通って私の身体を上へ上へと登っていき、首筋の裏でスパークする。そんな体感したことのない、なんとも形容し難い快楽が私の中を駆け巡っていった。初めて押し寄せてきた感覚に倒錯した感情を持ちながらも、それすらも一旦考えるのをやめて私はただただ歓喜する。
17年。たった17年間しか生きていない。それでも、長い間考え続けてきた。
私が大人になる前に世界は終わるけれど、答えは出る。いつまでもいつまでも求め続けた、考え続けた問題文の解答が、ようやく開示される。
今はただ、その事実を喜ぼう。
例え、回答がどんなものだとしても。
理解した1秒後に私が死んでしまったとしても、その1秒で納得できるならば悔いはないと思う。
世界が終わるまで、答えが出るまで――あと13日。
機械仕掛けの神は、どんな顔をしているだろうか。
もう見えるかな。
外に出て確かめてみよう。
確か、あの公園には人があまりいなかったはずだ。
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