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悲しい女王
「愛蘭土は暗愚に覆われていた。人々は妖精のことを崇めていたのだ」――『フィアクの聖歌』
霧ヶ島のダンスカー城の塀の威容、その後ろの石造りの囲い地に、二人の男が縛られ横たわっていた。一人は詩人戦士のウルリック、もう一人は竪琴弾きコンラ。ミンチの瀬戸に諸船が沈み、ゲール人と海賊が赤へと染まった波間に飲まれた時の、ただ二人の生き残りだ。
長い間二人は波間に揺られ、同じ円材へと体を預けていた。これは〈死の渡鴉〉のマストであり、〈死の渡鴉〉とは長髪王スヴェンが20人乗りのガレー船20艘と共に、〈北の島々〉から漕ぎ出した船である。沈黙王ファルハは、10人乗りのガレー船40艘と共にこれに当ったのだ。
南にあった陽が西の果てへかかるまで戦 は続いた。この時残っていた船は〈死の渡鴉〉と〈白波の掃き手〉のみだった。ウルリックはスヴェンのそばに座り、死の歌と剣の歌をうたい、コンラはファルハのそばに座り、勝利の雅歌をうたった。
折り重なる躯 の浮く血の海をかき分けて二艘のガレー船が打つかった時、一木から伸びる枝々の嵐の中の様のように、男たちの持つ槍は上へ下へと振り回され、狂気を宿した瞳と顔にかかり黒くへばりついた髪の毛は、その下では赤く血に濡れていた。
そんな中でスヴェンは〈白波の掃き手〉へと飛び移り、突きかかってきた槍兵から頭を切り落とした。頭は海へと落ち、頭をなくした男は引きつり震え、役目を解かれた槍は迷いながら空を切った。
ところがこうしている間にスヴェンがたたらを踏んだので、ファルハは槍で彼を突き通した。槍がスヴェンをマストに磔にした様が、ファルハの見た最後の眺めとなった。直後に海から飛んだ一筋の矢に諸目を射抜かれたのだ。
そして、〈白波の掃き手〉が沈み、諸共に〈死の渡鴉〉を引きずりこんだ時、二人の王の体が触れ合った。だがファルハはもはや波の随 に右へ左へとたゆたうだけの大魚のようであり、スヴェンは相手の体を愛するグンヒルドの体と考え唇を吸おうとするのだが、槍と七本の矢によりマストに釘付けにされていたため叶わずにいた。
月が顔を見せる頃には、海域は白く凪いでいた。中部海を大きな影が、北へと通り過ぎて行く。千万群れなす鰊 の回遊であった。
スカルドのウルリックがマストから沈んだ時、竪琴弾きのコンラがその髪を掴んで息を助けたので、ウルリックは溺死を免れた。だから二本の槍が傍に流れ着いても、双方それに飛びつくことはなかった。
やがてコンラが口を開いた。「何かが両足を引っぱっている。君の死んだ仲間の誰かが僕を溺れさせようとしているんだ」
ウルリックはひとたび深く息をついて心臓の働きを強めると槍を握りしめ下へとつきこんだ。槍がコンラの両足に髪を絡ませた躯 に突き刺さると、躯は沈んでいき見えなくなった。
叫び声が聞こえて来ると、二人は新たな船団がやってきたのか、それともスヴェンかファルハどちらかの軍の残りではないかと考えていた。だが海から引き上げられ横になって星空を見上げると、もうその後の事は何も分からなかった。というのも、耳には音が躍りこみ、目は霞がかかり、二人はまるで端舟の底を通り抜けて沈み、海もその下の無限の虚無も通り抜け、星空の微かな明かりの元で舞い散る二枚の羽根かのようであったからだ。
日が高くなってから二人が目覚めると、一人の女が立ち彼らに陰鬱な顔を向けていた。女は長躯と大力の持ち主で、コンラよりも高く、ウルリックよりも力強かった。黒髪は長く肩へと流れ、その肩も、胸も太ももも、亜麻色の銅で覆われていた。赤と緑の外套が一枚右肩から掛けられ、大きな金の襟止めで止められていた。黄金のトルクがその首を囲っていた。三本角の生えた金のトルクが頭に乗せられていた。腿と脛脛には鹿の皮ひもが巻かれ、足は赤染めの牛皮で覆われていた。蝋のように白い顔は妖しく悍ましい美を備えていた。
堪えきれず二人は女の諸目から目を背けた。その瞳はつつ闇のように黒く、奥には炎が揺らめいていたからだ。くちびるはたわやかに蔑 みを浮かべ、その顔の白さの上ではにわかに細く溢れ出す二筋の血のようであった。
「我はスカアハ」女は二人を長い間見続けた後、口を開いてこう言った。
その名を知っていたため、二人の心臓は投石紐で狙われた鳥のように跳ね上がった。目の前の女が、もし霧ヶ島の女戦士達が仕えるあの女王スカアハだというのならば、海で死んでいたほうがまだましであったろう。ダンスカー城の石組を、灰色から枯れ茶色へ染めあげていたものは、なぶり殺された虜 たちのくすんだ血糊だったのだ。
「我はスカアハ。――我が前にあるのは、北欧のスヴェンと、中部諸島のファルハか?」と、女は問うた。
「俺はスカルドのウルリック」と、北欧人。
「私は竪琴弾きコンラ」と、ゲール人。
「お前たちは今宵死ぬ」そう告げるとスカアハは立ったまま再び口をつぐみ、長い間二人に昏い顔を向けていた。
真昼時に、一人の女が乳汁と焼いた箆鹿の肉を二人に賄 った。見目麗しい女ではあったが、顔には一筋の傷跡がまたがっていた。二人は命乞いと共にスカアハへの言付けを託した。奴隷となって、女たちに子種を供しようと。女人族の習いを知っていたからだ。だが女の持ち帰ってきた答には、一語の変わりもなかった。
女はこう教える。「理由は、女王がクーフーリンを愛していたことなのだ――クーフーリンというのは詩人であり、歌を吟じ、曲を作った、お前たちと同じくな。顔の佳さはあちらの方が上だったが、黄色い髪の男と、黒い長髪の男よ。お前たちは女王の思い出を呼び起こしてしまったのだ。ただ、死ぬ前に女王は琴を弾き歌を歌う機会をくださるだろう」
闇に暮れて露が降りると、ウルリックが話しかけた。「〈霜たてがみ〉って馬が星原を駆け抜けているんだ。ほら、その口から溢れたあぶくが降ってきているだろう」
露が降りてきているのをコンラは感じた。
「僕が人を愛した夜もこんな夜だった」と、呟くコンラ。夜陰のせいでその面持ちはウルリックには窺い知れない。しかし、低いすすり泣きが聞こえてきたため、顔が涙で濡れている事を悟った。
「俺も愛したよ。多くの女と愛を交わしたものさ」
「愛と呼べるものは唯一つの愛だけだ。そんな愛が、今僕が考えている、僕が思い出している愛だ」コンラは低い声で返した。
「そんな愛は、俺が知らない愛だ。――俺はある女を深く愛した、そいつが若く美しい限りの話だが。ところがある日、王のご子息がそいつを所望なされた。海崖に茂る森の中で、俺は二人と出くわした。俺は女の体に腕を巻き付けて崖から飛び降りた。女は溺れ死んだよ。人命金はこれっぽっちも払わなかった」
「愛の前に月日なんか無意味だよ、僕の愛では」穏やかにコンラは応えた。「彼女は星々よりも美しかった」
その大いなる美しさのため、コンラは死と縛めを忘れることができた。
女戦士らが二人を連れ出して、海辺へ先導すると、砂浜の上でごうごうと燃える大きな炎のそばに座り、スカアハがそこから彼らを眺めていた。女王は二人が話し合っていた内容を既に伝えられていた。
「お前の愛の歌を歌え」と、女王はウルリックに告げた。
「これから死のうっていう時に女のことなんかを思い出していられるか」と、ふて腐れた答が返ってきた。
「お前の愛の歌を歌え」と、女王はコンラに告げた。
コンラは女王を見た、恐ろしい目の女たちが側に立つ大火へと振り向いた、そして穏やかな、吐息も立てぬ星々を見た。
露がコンラに零れ落ちた。
そして彼は歌い始めた――
戦車から放たれた狩り犬のように 時の過ぎ去る頃合い
時の過ぎ去る頃合いか 燃える瞳の白き狩り犬のような
時がまだ我が身に残されるなら 天の星空で私は我が夢に会い
最後に呟こう 愛する名
その名 老人の見る若さより 若人の見る命より 美しい者が負う
美神オイングスの初恋の美しさも超え
百年の間 光も音も失ったとしても いかなる詩人の歌より麗しい姿を見よう
そして聴こう 風に哭く哀歌のようなその声
沈黙があった。スカアハは炎を見据え、両手を頬に添えて座っていた。話す時も彼女はその顔を上げなかった。
「スカルドのウルリックを下がらせよ」ついに女王は口を開いたが、その瞳はじっと炎へ向けられたままであった。
「そして、こ奴を欲しがる女がいるなら、誰になりと与えてやれ。こ奴は愛について何も知らぬのだ。もし誰もいなければ、心の臓を槍で貫いてやれ。容易く死ねるようにな」
「だが竪琴弾きコンラは連れて行け。こ奴は掛け替えのない愛を知っているのだから全てを知っている。そして、こ奴の知るべきことは最早残されておらず、我らごときが教えてやれることもない。だから、赤い燃えさしをこ奴の裸の胸に置け、心の臓が破れて死ぬまで」
こうして竪琴弾きコンラは黙って死んでいった。月明かりに照らされた砂浜の上で寝かされ、むき出しの胸に赤々と燃える焚き木を積み重ねられて。その顔は、彼の上で輝く星々のように白く穏やかであった。
(了)
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