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その村営のアパートは、だいぶ年季がはいっていた。何かを塗りこめられてごまかされた壁のひび割れが、その建物のうら寂しさに一役買っていた。
そのアパートの一階に、近真二朗は住んでいるはずだった。少なくとも葬儀の記帳では、その住所が記入されていた。
香織が呼び鈴を鳴らすと、中でピンポーンと音が響いているのが聞こえた。しばらく待ってみるが、誰も出て来ないので、もう一度鳴らしてみる。
ピンポーン
その音とともに、何かが動く音が聞こえた気がして、香織は耳を澄ませた。
ガチャと扉が開き、一人の老人が顔を出した。最初から胡散臭いものを見るような顔で、呼び鈴を鳴らした者に目を向けた。
その目がみるみる見開かれていった。
「ハナちゃん……」
老人はかすれた声でつぶやいた。
香織は頭を下げた。
「佐倉香織と申します。先日は祖母の葬儀にご参列下さってありがとうございます」
そして顔を上げると、驚いて目を開きっぱなしの老人を見て言った。
「近さんですよね。ハナはわたしの祖母です」
近真二朗は何度かパチパチと瞬きした。
そして、香織の後ろに立つ、清豊を見た。
目の光が急速に失われていった。
「そうだが、お前さんたちはわざわざ礼を言いに、ここまできたのかね?」
香織はカバンから木箱を取り出した。蓋を開け、一枚の写真を取りだす。
「これ、近さんと祖母ですよね」
写真を渡すと、近は穴が開くのではないかと思うほど、じっと見ていた。
やがて顔を上げると、呆けたように訊いた。
「で、何しに来たんだね?」
「この手紙の意味が知りたくて」
そう言うと、手紙を近に渡した。
「祖母からあなたへの手紙です」
近は手紙の封は開けず、しばらく目を閉じると、身体でドアを押して大きく開いてくれた。
「上がっていってください。お茶くらい出しましょう」
近は台所でお茶を入れると、お盆に乗せ、片手で運んできた。盆をちゃぶ台におくと、ひとつずつ右手で置く。
彼の左腕が入っているはずの袖は、薄くしぼんでいた。
お茶を出し終えると、近は自分も座った。ちゃぶ台には先ほどの写真と手紙が置いてあった。近はまず、写真をきちんと自分の方に向けて置いた。しばらくそれを眺めると、封筒を手に取った。器用に口を使って、中の手紙を出す。
その文字を追っていく近の目が、だんだんとうるんでいった。右手は震え、目線が文章を行ったり来たりしているのが分かった。
ついに、近は手紙を置き、香織を正面から見た。
「これをハナちゃんは、ずっと持っていたというんですか?」
近が急に若返ったように見えた。あの写真の花婿の面影が、はっきり近の顔に見て取れた。
香織は頷いた。
「わたしが見つけるまで、この写真と手紙は祖母の文机の中に隠されていました」
近は深く息を吐いた。
「あの写真は、確かにわたしとあなたのおばあさん…ハナちゃんです。お互い十七歳の時に、祝言をあげました。その時の写真です」
「祝言」
香織は繰り返した。近は頷いた。
「結婚式です。その三日後、わたしは出征しました」
近に迷いはないようだった。淡々と話を進めていく。
「わたしとハナちゃんは幼馴染でした。好きあって将来は結婚しようと言っていた時に、わたしに赤紙が来ました。戦争に行く前に、結婚させようという周りからの勧めもあって、わたしたちは結婚しました。たった三日だけの夫婦でしたが」
三日だけと言った時だけ、近の顔が微かに歪んだ。
「もう終戦も間際の時で、戦地はどこも惨憺たるものでした。わたしはろくに訓練もしないまま、前線に送られました。来る日も来る日も、生きているのか死んでいるのか、殺しているのか、殺されているのか分からないような日々が過ぎていきました。仲間が死ぬのも、敵を撃つのも日常になりすぎて、分からなくなるのです。そこで私のいた部隊は全滅しました。わたしは爆弾で左手をふっ飛ばされた。気を失うまで走って、倒れたところを、現地の人間に助けられたんです。その後、生死の境をさまよっている間に、戦争が終わった。何とか歩けるようになるまで二年。何もないところなので、手紙を送ることも出来ませんでした。
日本には、わたしの左手が発見されたと、家族の許へ送られました。わたしが見つからなかったので、左手を残して、身体は粉々になったのだろうと思われたようです」
わたしの左手は、今でも実家の墓に埋葬されているんですよ。
そう言って、近は引きつった笑いを漏らした。
「日本に戻れた時には、村を出てから五年がたっていました。村に帰ると、ハナちゃんの姿はありませんでした。わたしの戦死が伝えられてから、村にはつらくていられないからと、村を出ていったと聞きました。それからわたしは、妻を見つけようと探し始めました。でも、手掛かりがなかった。ハナちゃんは、半ば家出のように、誰にも告げずに家を出たそうなのです」
「でも、見つけたんですよね」
思わず香織が口を挟むと、近は柔らかく微笑んだ。
「はい。静岡のお茶農園の奥様になっているハナちゃんを見つけました。奥様になったというのに、変わらず農園でクルクルと働く姿を遠くから見ていました」
「声をかけなかったんですか?」
いたたまれなくなって、香織は訊いた。
「声をかけて何て言うんですか?本当は生きていたんだよ。一緒に帰ろうって?」
近はゆっくり頭を横に振った。
「わたしは左腕を失いました。あの時代は片腕がない男などにロクな仕事はなかった。彼女を今の夫から取り戻したところで、養ってはいけなかった。子どもがいたらなおさらです」
近はふーっと息を吐いた。
「わたしは姿もみせずに村に戻りました。それからは、一度もハナちゃんに会っていません。先日の葬儀の日まで」
気が付くと、香織は拳を握りしめていた。涙はもちろん、鼻水まで流れて、顔はめちゃくちゃだ。
「戦争がなかったら……」
思わず香織が呟くと、清豊が「佐倉っ」と初めて声を出した。近は香織を見て、皮肉気に口を歪めた。
「いいんですか?戦争がなかったら、あなたは生まれていませんよ」
「だって!」
香織は近が置いた手紙をたたいた。
「おばあちゃんは、ずっとこれを持っていた!ずっと、ずっと!おじいちゃんと結婚した時も!父さんたちが生まれた時も!おじいちゃんが死んだときも!ずっと!あなたに会いたかったんだよ!」
近は香織を睨みつけた。穏やかだった近の顔が、一瞬で怒りに満ちた。
戦争がなかったら。
近だって何度も考えたはずだ。殺し殺されなくてすみ、左手も無くすことはなかった。職につくこともでき、ハナとは幸せな家庭をつくれただろう。
近は噛みしめるように唸った。
「戦争がなかったら、あの男の幸せは、俺のものだった」
近は右手で顔を覆った。
「あの夜に、ハナちゃんは言いました。二人だけの国に行きたいって」
「二人だけの国?」
鼻をすすりながら香織が訊くと、近は顔を覆ったまま頷いた。
「二人だけの国。そしたら、戦争もないし、戦争に行けと言う人もいない。殺す人も殺される人も、気にしなくてはいけない家族も親族もいない。わたしとあなただけで、ずっと一緒にいられるのにって」
二人だけの国。その言葉は哀しく香織の胸に突き刺さった。
「ごめんなさい」
香織は思わず謝った。
「え?」
近が手を離して、香織を見る。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
何度も香織は謝った。それしか出来なかった。
幸せでごめんなさい。
近はじっと香織を見ると、右手を伸ばした。香織の頭をゆっくりと優しくたたく。
「わたしも何度も思いました。生きていてごめんって。死んでいった戦友たちに。でも、生きていてよかった。あなたに会えて、この手紙を頂いた」
近は穏やかに笑った。
「あなたも幸せになって下さい」
あなたも。
香織の背中を、清豊がそっと支えてくれていた。
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