632人が本棚に入れています
本棚に追加
第6話
「も〜〜〜ビックリしましたよほんと!いつ寝てんの?って思うくらいいつも忙しない殿下がこんな時間まで熟睡してるなんて珍しいこともあるもんだな〜と思ったらまさかまさか!まさかの浮気!しかもご自身のお部屋で!血は争えないですね〜陛下も外に恋人作っては王宮にお迎えなさってますもんね!大丈夫、気にしないですよ!僕はちゃーんと弁えてますから、勤めだけを果たして静かにしてますしなんならそこの公妾さん…になるのかな?彼とも仲良くしますし!」
「ルイ。」
「それはそうと、これ!母上からです!なんか時季外れな割に良い桃が取れたからリヒャルト様にお持ちしろって!でもね、僕今朝この桃食べたんですけど〜なんかまだ酸っぱいんですよ…ジュースとかにした方がいいかも!」
「ルイ、ちょっと五月蝿い。」
「よかったら君もどう?あ、僕ルイ・エーベルヴァイン!リヒャルト王子殿下の婚約者だよ!とは言ってもただの政略結婚だから気にしないで!仲良くしよ!ね、うさ耳触っていい?」
「ゲオルグ、摘み出せ。」
「いやーーー!ちょっとまって!ほんとに!ちゃんとした用があるんですって!」
主人の声にすぐさま反応して青年の首根っこを掴んだゲオルグに、ルイと名乗った青年はジタバタと暴れなんとかゲオルグから逃げ出し、ゼーハーと息を整えジャケットを直した。
そして部屋の隅に放置してあった立派な鞄から、一つの書簡を取り出し、怪訝な顔をするリヒャルトに差し出した。
「父上からです。」
「ほう。公的な書簡であるにも関わらず然るべき機関を通さない理由は?」
「急ぎだからです。陛下のお許しが出てから部隊の編成が出来上がるまでは待っていられません。」
「まぁ軽く2ヶ月はかかるだろうな。」
くつくつと含みのある笑いを漏らしたリヒャルトの顔は、どことなく楽しそうだ。まるで大人を出し抜く相談をする悪餓鬼のような表情で書簡を開けると、ソファの背凭れに寄りかかって目を通し始める。その間皆が無言だった。
長い間にも感じられたほんの数分の後、リヒャルトの小さな溜息でその静寂は破られた。
「わかった。明日午後には小隊を送る。」
「さっすが殿下!話が早くて助かります!」
歓声を上げて賞賛の拍手を送ったルイはごく当たり前に両手を広げてリヒャルトに駆け寄り、ソファに乗り上げてリヒャルトにガバッと抱きつくと、手入れの行き届いた滑らかな頬にチュッと軽いキスをした。
マシューの心に、ぐさりと鋭利な刃物が刺さる。
なんでもないような顔でそれを受け止めたリヒャルトは、マシューの引きつった顔に気がついていないようだった。それが更にマシューの心を抉ったのだが、更にルイは爆弾を投下していく。
「で?お前はもう帰るのか?それとも明日小隊と一緒に帰るのか?」
「もう!婚約者の発情期の頃合いくらい覚えといてくださいよ!帰りません!」
その時脳天から氷水をかけられたように、一気に身体が冷えた。
━━━
その日、マシューは毎日の楽しみである晩餐のメニューを覚えていない。
目の前で繰り広げられるリヒャルトとルイの仲睦まじい姿があまりにも辛くて、何を口に入れても砂を噛んでいるようだった。まだまだ下手くそながら、初日よりは随分慣れたナイフとフォークの使い方も突然難しく感じた。それでも、食べ物を無駄にすることなど到底出来ず、無理に胃の中に押し込んでいく。
リヒャルトがいつも声をかけてくれていた。
慣れない食べ物に慣れない食器、マシューが食事がストレスにならないよういつも気を使ってくれていた。忙しい身であるはずなのに、食事は必ず一緒にとってくれていた。
目の前にいるはずなのに、まるで遠くにいるようなそんな気がして、マシューはリヒャルトの存在の大きさを思い知る。
食事を終えルイが客間へと戻って行ったあとも、風呂に入っても上がっても、無理矢理押し込んだ食べ物がぐるぐると燻り逆流しそうな恐怖にマシューは顔を青くした。
「どうした?具合でも悪いか?」
「…はい、あの、少し疲れて…」
「はは、ルイは喧しいからな。従兄弟なんだが、初めて会った時からあんな感じだ。」
浮かない顔をしたマシューを心配そうに覗き込んだリヒャルトはその答えを聞き苦笑すると、ふわりと抱き上げてそっとベッドに下ろした。
実際に話しかけているのはルイばかりだった。リヒャルトは受け流すばかり。それはマシューにもわかっていた。それなのに言いようのない靄が心をドス黒く染めていく。
婚約者。
発情期。
Ω。
きっと、彼は発情期にリヒャルトに目一杯抱かれ愛され、全国民…いや世界中の人に祝福されながら盛大な結婚式を挙げるだろう。やがてリヒャルトの子を身籠りその子を産み共に育てるだろう。
それはどんなに願ってもβで男のマシューには出来ないことだ。
心の中に掛かった靄が増大して、喉元にせり上がってくる。マシューは歪む口元を隠そうと布団を被った。
「…なにも心配しなくていい。ゆっくり休みなさい。」
マシューはその日初めて、リヒャルトの言葉に返事をせず寝たふりをした。
気付かれたかどうかはわからない。しかしリヒャルトが自室を出て行ったことはわかったから、きっと眠ったと思ったのだろう。マシューはその瞬間、堪えていたものが溢れ出した。
世継ぎは要らないと、そう言ってくれた。
それはきっと、マシューが産まずとも産んでくれる人がいるから必要ないという意味だったのだ。
「ばかみたい…」
その夜リヒャルトが自室に戻ってきたのは空が白みはじめた明け方のことで、リヒャルトは布団には入らずソファで仮眠を取ったようだった。
いつも熟睡していたから、それが常なのかも分からない。けれどそれが、同じ布団に入ることを拒絶されているようにさえ感じて、マシューはまた枕を濡らした。
最初のコメントを投稿しよう!