第7話

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埃っぽい地下牢から出て来たマシューはリヒャルトの勧めで風呂に入った。そこで初めて、自分が随分と小汚くなっていたことに気付く。折角リヒャルトが仕立て屋とああでもないこうでもないと作り上げた礼服が薄汚れていた。 きっとリヒャルトは気にしないだろうと思う。怪我ひとつ無かっただけで十分だと、そう思ってくれていることはさっきの様子を見ればマシューでもわかる。それでも、あの礼服を身につけた時のリヒャルトの嬉しそうな表情は忘れられない。 マシューは、いつも風呂場を片付けてくれている侍女に初めて声をかけた。 「…あの、さっきの礼服、綺麗になりますか…?」 水仕事にも関わらず白魚の手のような美しさを保ち続ける白鳥の獣人である彼女は、初めてのことに瞠目した後ににっこりと微笑んで見せた。 「ええ、もちろんでございますよ。我々はへどろに塗れた軍服も綺麗にいたしますわ。お任せくださいまし。」 目尻に少しの皺を見せながらそう言った侍女に、マシューはホッとして微笑みを返す。すると侍女は口元に綺麗な手を当ててクスクスと笑いながら、マシューの濡れた髪にふかふかのタオルを被せてくれた。 「殿下からのプレゼントですものね。新品のように綺麗にさせていただきますわ。ほらきちんとお支度なさって、殿下がお待ちですわよ。」 自分よりも背が低い彼女が真っ白い腕を伸ばして優しく髪を拭い、ササっと整えてくれた。 産まれてすぐに別れた母の温もりは、もしかしたらこんな感じだったのかもしれないとぼんやり感じながら、マシューは侍女に手を振り風呂場を後にした。 ━━━ さほど離れていない、もう行き慣れた風呂場とリヒャルトの自室をつなぐ廊下。左に1回曲がってずーっと歩き、もう一度左に曲がるとそこがリヒャルトの部屋だ。マシューはホカホカの身体で冷たいドアノブを回そうと手を伸ばすと、中から微かな話し声が聞こえてくる。 「…儂もそろそろ年ですじゃ。いつまでこうして殿下のお身体を診られるかわかりませぬぞ。」 「先生がお亡くなりになったら俺はきっと3年後くらいに死ぬんですよ。」 「ほっほ、その時はジークハルト殿下が専属医になると仰っておりますぞ。…せっかく好い人を見つけなさったんですから、ご自愛くだされ。じきに嵐の季節になりますからな。」 聞き覚えのある年老いた男性の声が途切れ、ゴソゴソと物音が響くと、こちらに足音が向かってくる。 マシューは慌てて身を隠そうとしたが、隠れるようなところもなくガチャリと扉が開き、向こう側に立つリヒャルトとグスタフ医師に間抜け面を晒すことになった。 「マシュー、おかえり。さっぱりしたかい?」 「あ、はい…ありがとうございます。グスタフ先生、こんばんは。」 「ほっほっほ、こーんな老いぼれの名前まで覚えていてくださって光栄でございます。お加減はいかがですかな?」 「はい、もうすっかり。先生のお薬、凄く効きました。」 「それは良かった。では老いぼれは邪魔にならんように退散いたしますかの。」 豊かな白髪の中から生えている立派な巻角を撫でながらグスタフはうんうんと頷き、相変わらず信じられないほど大きいカバンを抱えなおして部屋を出ると、穏やかに微笑みながらリヒャルトに向かって礼をした。 グスタフの曲がった背中を見送ってチラリとリヒャルトを見送ると、バッチリ目が合ってニコリと微笑まれた。先程までの苛立ちはもう見られない。 ホッとしたのも束の間、マシューを室内に促す手の小指に巻かれた包帯を見てマシューはギョッとした。 「り、リヒャルト様!それ!」 「ん?ああ、気にすることはない。陛下のお戯れさ。」 「戯れって、そんな…!」 「マシュー。」 マシューの言葉を遮る声に、それ以上の発言を許されないことがすぐにわかった。怒りも権力も何も見せていないのに、普段通りの声色であっという間に従ってしまう。 マシューは大人しく、リヒャルトの小指に巻かれた真新しい包帯を見た。 「マシュー、俺は自己犠牲精神は好きじゃない。けどね、必要な対価だと判断したら惜しみなく差し出すよ。」 その言葉にマシューが一瞬口を開きかけたのを、リヒャルトは見逃さなかった。 「自分なんかにと思わないでくれ。俺にとってはその価値があるということだよ。…すまなかった、何かしら嫌味は言ってもまさかマシューを地下牢に入れるとは思っていなかったんだ。俺の見通しが甘かった、俺のせいだ…」 リヒャルトの苦しそうな表情に、マシューは慌てて首を振る。驚いたし怖かったけれど、すぐに助けに来てくれた、それだけで十分だった。 リヒャルトは苦笑してマシューの額にキスをひとつ落とすと、マシューをベッドに誘導した。牢の中の固く冷たいベッドとは違う、ふかふかで温かいベッドだ。 マシューが布団に入り込むと、リヒャルトはその隣に潜り込み、サイドテーブルの引き出しから一冊の絵本を取り出した。 マシューがリヒャルトに城下町で買ってもらった、あの絵本だ。 「読もうか。」 見窄らしい格好をした女性が天使に手を差し伸べられているその表紙にマシューが一目で心惹かれたその絵本。リヒャルトがマシューの肩に腕を回すと、それをゆっくりと開いた。 最初のページには、作者のものであろう簡単な手記が印刷されている。リヒャルトはそれをじっと見つめて指先でなぞり、やがて口を開いた。 『(わたくし)の愛しい天使へ。』 それは、貧しさゆえに親に捨てられた少女が天使からの贈り物である小さな赤ん坊と幸せになる物語。 リヒャルトの綺麗な声で語られるその優しい物語に、投獄されてから少しも眠れていなかったマシューはすぐに夢の世界に誘われた。
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