第8話

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賊と勘違いしそうになった不躾な訪問者の正体がリヒャルト本人とわかったマシューは窓の鍵を開け放ち、リヒャルトを部屋の中に招き入れようとしたが、逆に手招きをされ、窓からリヒャルトがいる木の上に飛び移った。 慣れた様子でするすると降りて行くリヒャルトについて降りて行くと、最後の最後、地上までがなかなかの高さがある。臆せず飛び降りたリヒャルトがマシューに向かって両腕を広げてくれたので、意を決して飛び降りると、リヒャルトはしっかりと受け止めてくれた。 「流石は兎さんだ。身軽だね。」 「リヒャルト様も、運動神経良いんですね。」 「ハハッ!いや俺は慣れだな。小さい時から何度も落ちてるよ。」 快活に語るリヒャルトの顔を直視することが出来なくて、マシューは曖昧な微笑みを浮かべて俯いた。その笑みに何かを感じ取ったのか、リヒャルトは苦笑すると、マシューに手を差し出した。 「…少し散歩に付き合ってくれないか。」 マシューは小さく頷いてその手を取る。 優しく包み込んでくれる手はいつもより少し冷たく感じた。 どうしてここに? たった一つの最大の疑問を口にすることがとても難しい。辺りを見回してもゲオルグはおろか護衛の一人もいない。今ここに彼がいていいのだろうか。いや、いいはずはない。だって婚約者であるルイが発情期なのだから。 それでも、今ここにリヒャルトがいることにどこか安堵と喜びを感じている自分がいた。 ルイよりも優先されている、と。ひどく自分勝手で愚かな感情だ。そんな醜い感情を抱いてしまう自分が、とても嫌だ。 黒い感情に心が覆われ始めたころ、辿り着いた先は王城を裏手に回ったところにある小丘だった。 小さな泉が湧いているそこは月明かりに照らされて水が虹色に光っている。水面に映し出された月は水草と水花に飾られて、決して空では見られない姿をしていた。 「すごい…」 「綺麗だろう?昼間もまた違う顔を見せてくれる。今度来ような。」 泉のほとりに座り込んだリヒャルトが隣をぽんぽんと叩いて座るように促したので応じると、今度は泉の中を覗き込む。マシューもそれに倣って中を覗き込むと、名前も知らない様々な魚が悠々と泳いでいた。 水の湧き出る僅かな音と、風が葉を鳴らす音。とても静かな空間に、リヒャルトの囁き声はとても響いた。 「…ルイは、ゲオルグを慕っているんだ。」 マシューは瞠目した。 え?という間抜けな返事が、静かなこの場所に酷く不釣り合いだった。 「いつからどうして二人がそういう関係になっていたのか、俺も知らないんだ。ただルイが初めて発情期になって閨に入った時、泣いてゲオルグの名を呼んだ。」 リヒャルトは眉一つ動かさず、まるでつまらない話でもするように淡々と語って聞かせた。その無表情とも言える姿からは何一つリヒャルトの感情を読み取ることはできなかった。 悲しいのか嬉しいのか悔しいのか喜ばしいのか、その全てなのか、或いはどれも違うのか。そしてそのどの感情をリヒャルトに抱いていて欲しいのか、マシュー自身わからなかった。 「それ以来、ルイの発情期はゲオルグに任せて俺は禁書室に篭っていた。ゲオルグ以外の誰もが俺とルイは仲良くやっていると思っているはずさ。…だからこそ、先日の謁見の間では皆が戸惑ったんだろうな。」 リヒャルトは小石を一つ拾うと、泉の中に落とした。静かな音を立てて入水した小石は水面に大きな波紋を作り出す。最初はたった一つの小さな円だったそれが数を増やし次第に大きくなる。その規則的な姿はとても美しかった。 やがて波紋は収まり、元の静かな水面に戻る。するとリヒャルトは再び口を開いた。 「…おかしいと思わないか、生まれに全てを左右されるなんて。」 リヒャルトは相変わらずの無表情で、それはどこか悲哀にも見えた。 「俺はね、自由で平和な国が欲しい。身分としきたりに取り憑かれて、国が発展するだろうか?波紋を呼ぶのは最初だけだ。この水面のようにね。…民は俺たちが思っているよりも賢いし逞しい。ちゃんと適応してくれる。民を犠牲にして己の富と権力にしがみつく愚か者どもをどうにかしたいんだ。」 そこでリヒャルトは漸く顔を上げた。 紫水晶の瞳は真っ直ぐに空を見上げる。 「…王族貴族が太古の昔から奪われてきた自由…友人を、伴侶を選ぶ自由。それが平和に繋がっていくと思う。愛した人と一緒になるというごく自然な形に戻していく為に、誰かが動かなきゃならない。だから俺は君を伴侶に迎えたいと思った。君を心から愛しているから。…もちろん、それは君の同意あってこそ、だけどね。」 強い言葉を使うくせに、その瞳にはどこか揺らぎがあった。不安定で、儚くて、今にも決壊してしまいそうな。 マシューは胸元の紫水晶の指輪を握り締めた。それを語ってくれた今、マシューは彼にどんな言葉をかけてあげたらいいのだろう。彼の欲する自由に、自分がしてあげられること。あらゆる困難を越えてなお彼を愛し側に居続けること。 それはとても簡単なようで、とても難しいことのように思えた。 「…戻ろうか。すまない、こんな時間に連れ出したりして。ルイの発情期が終わるまではなかなか外に出るのが難しいから、君に会いたかったんだ。」 困ったように黙り込んでしまったマシューに、リヒャルトは苦笑して立ち上がる。そしてマシューに手を差し出した彼は、先程のどこか悲哀を湛えた無表情ではなくいつもの柔和な微笑みだった。 マシューは生唾を飲み込んで勇気を振り絞った。口にするのは簡単だ。けれど、後戻りは出来ない。マシューはゆっくりと口を開いた。 「リヒャルト様…僕、字を覚えたいです。」
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