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数学の試験中、無機質な数式を眺めていたうちはふと思った。
――今日が昨日の続きだなんて誰が証明できるだろう?
寝ている間はもちろん、瞬きした瞬間に世界が入れ替わってはいないだろうか。人間は時間や世界が連続していると、当たり前のよう認識しているけれど、もしそれが誤っているとしたら? 本当の世界は映画のフィルムのように断続的なのかもしれない。何者かがこっそりとヒトコマだけすり替えたとしても、うちらは気付かないのではないだろうか。
教室の時計に目をやると、試験終了までまだ30分も残っていた。うちは意識的に、瞬きしてみる。xとyと()と右上の小さい数字(次数)が全て消え去り、整数とプラス&マイナスだけで構成された易しい世界に行きたい。でも、世界は変わらなかった。
昨日の夜、ガッツリ勉強したことが頭からスッポリ抜けている。うちは本当に昨日勉強したのだろうか? もしかしたら、昨日勉強した賢いうちの脳味噌は、今は別の世界で目覚めてテストの問題をウハウハと解いているのかもしれない。代わりに、うちは勉強をサボった世界を引き継いでいる。まんまと貧乏くじを引かされたわけだ。ダメだこりゃ。うちはシャーペンを机に置いた。酷い点数を取ったら、お母さんになんて言い訳しようか。でも、今更どうにもならない。考えても仕方がない。それより、あと27分でテストも終わりだ。連日、脳をフル回転させていたから糖質を欲している。あとでハルナとアイキを誘ってどこか行こう。テストよ、さっさと終われ。うちにはもう充分だ。これ以上考えたところで、答案用紙に書くべきことはなにも浮かぶわっきゃない。
二学期の中間テストから解放されたうちは、中学の頃からの付き合いのハルナ、アイキを駅前のファストフード店に誘った。お昼時の店内はサラリーマンや小さな子供を連れた家族でにぎわっていて、少し並んで待つことになった。ようやくカウンターに辿り着き、注文を済ませて支払いに移ったのだけど……。
「え!? チカってまだキャッシュなのかよ」
うちがお財布から一枚一枚10円玉を取り出していると、隣のカウンターのハルナが声をあげた。前歯を見せて目を剥いている。『チャイルドプレイ』のチャッキーみたいな顔には「ありえね~」と書いてある。
現金払いのなにが悪いのか。小馬鹿にしおって。
憎たらしい顔のまま、ハルナは財布から緑のカードを取り出した。血のように真っ赤な付け爪と瓜色のカードの組み合わせが視界に入る。まだ10月だというのに、ハルナの細い指先だけクリスマス気分だった。
学校帰りにわざわざ付け爪なんてうちやアイキは付けないけど、ハルナはこういうところはすごくマメだ。
「Suicaで」
西瓜――ハルナはハッキリとそう言った。いったい何を言っているのだろう。ここは八百屋さんじゃないよ? ファーストフード店にスイカなんて売っているはずがない。スイカ味のコーラなら飲んだことはあるけど、あれは期間限定&コンビニ限定だったはず。季節のデザートでもない。夏休みは当の昔に過ぎ去り、今はハロウィンフェスの真っ最中。まさか……西瓜と南瓜を間違えたとか? これは反撃のチャンス。
「ちょいちょい。ハルナってばぁ、それをいうならパンプキンでしょがー。トリック・オア・トリートってか」
10月はなにかあったらトリック・オア・トリートって言っておけば大丈夫……のはずだった。
周囲の空気が凍り付いている。誰も笑わない。まるで自分が氷の魔女にでもなったようだ。吐き気を催すような違和感に襲われ、世界がぐにゃりと歪む。なに言ってんだコイツ、という視線が全身に突き刺さるように感じた。まるで自分がピンクッションになったようみたい。うちはピンクッションの魔女だ。
「チカ。後ろつっかえてるから早く」
背後のアイキに声を掛けられたうちは逃げるように支払いを済ませた。ピークタイムのファーストフード店のレジはどこかピリピリとした雰囲気がある。横目でハルナの様子を探ると、西瓜カードをレジの脇の平たい装置に置いていた。なに? ゲーム? ピークタイムのファーストフード店のレジでなにを遊んでいるのかしら。なんて思っていると、「ピピッ♪」という軽快な電子音が鳴った。なんだろう。レベルアップ? それにしてはいささか地味な音だ。
「商品は隣のカウンターでお渡ししますので、しばらくお待ちください」
店員さんに言われて少し横にずれた。
うちと入れ替わりになったアイキは手短に注文を済ませる。
「ハンバーガーとアイスティーのSをください」
アイキは貧乏なのでセットを頼めない。あとでポテトを少し分けてあげよう。
「お会計200円になります」
「Quickpay《クイックペイ》で」
ん? なんて? クイックペー? ……ってなに? うちが知ってる「ペー」は林家だけだ。外国人のお弟子さんでもできたのだろうか。でもそれなら『林家クイック』じゃないと道理が通らない。
うちの理解が追いつかないままに、アイキはおもちゃの腕時計を操作し始めた。最近、四角い液晶のついたスマートウォッチとかいうのに変えたのだ。古風な美人――小野小町的なイメージのアイキには、どうもミスマッチな感じがする。前に使っていた腕時計はもっと可愛かった。文字盤がタマゴボーロくらいの大きさで、ベルトがウグイス色。アイキのすらりとした白い手首によく似合っていた。宇治金時って感じだった。
アイキ曰く、「スマートウォッチは心拍数を測ったり、位置情報を記録できる」らしい。けど、うちから言わせれば「だからなに?」って感じ。ファーストフード店のレジ前で心拍数を測ってどうするの? ドキドキする? それに、このお店の位置情報って記録する必要ある? アイキはうちらの中では一番成績がいいけど、意外と方向音痴なのか? でも、流石に何度も来てるお店だし、迷子になるなんてことはないでしょ、なんて考えていたらアイキがスマートウォッチをレジ脇の平たい装置にかざした。
『Quickpay♪』
レジが喋った! 一人暮らしのOLが爽やかな笑顔で出勤するイメージ――どこか絵に描いたような嘘っぽい明るさの声だった。ハルナの野菜カードの時はいかにも「事務的な対応」といった感じだったのに、機械のテンションが全然違う。
「レシートはご入用ですか?」
「いえ、結構です」
アイキはいつの間にかお会計を済ませていたらしい。あまりにも早業過ぎて財布が見えなかった。あんたは忍者か。
「お待たせいたしました。チーズだらけバーガーのLセットのお客様」
うちが注文したセットだ。
「アイキ、うちのポテト食べていいからね」
「え? いらない」
「遠慮しなさんな」
ついついLセットを頼んじゃうけど、ポテトを全部食べると太るからね。
レジ前は邪魔になるから、一足先にテーブル席に向かった。程なく、ハルナとアイキもやって来た。さっそくアイキにポテトを3分の1プレゼントした。
「ほんと、いらないよ。太るから」
「まあまあ、トリック・オア・トリート」
「それお菓子貰う側が言うセリフ」
「リピートアフタミー。せーのっ、トリック・オア・トリート」
「言わないよ」
アイキは頑なにうちのポテトを拒んだ。そこにハルナが横やりを入れてきた。
「いらないって言ってんだから無理に押し付けるな。ポテトは太る」
「知ってるよ! だからうちひとりで食べたら、うちだけ太るでしょ! それでいいの?」
「自分で買ったんだろ」
「ハルナはすぐにそうやって正論を振りかざす。血も涙もないのか。鬼か! 悪魔か!」
「いや、どちらかって言うとお前のほうが悪魔だよ。デブ道には一人で堕ちろ。アタシらを巻き込むな」
そう言うハルナのメニューを見ると、レタスとトマトを挟んだハンバーガーにホットレモンティー、そしてサイドメニューはサラダという組み合わせだった。
「あれ? ポテトはどこ?」
「サラダに変えたんだよ」
「いやいや、ちょいちょい、そのハンバーガーに野菜挟まってるのに? さらにサラダを食べるの? 野菜の過剰摂取でしょうが!」
「騒ぐようなことじゃねぇって。お前のポテトは明らかに過剰摂取だけどな」
「あーそういう言い方しますか。ハルナにはポテト分けてあげないよー」
「話聞いてる? いらないって」
「私もいらない」
アイキも便乗してきた。
「ねぇ、ふたりとも、落ち着いて冷静に考えてみ? ちょっとくらい食べたって平気だって。体重計だってわかりゃしないよ。あいつら測る度に微妙に数値変えてくるからね。適当に仕事やってんだよ」
「平気なら自分で食べろよ」
「うちひとりで食べたら明らかに過剰摂取でしょうがぁ!」
「それなら最初から頼むなよ」
「でも頼んじゃったからしょうがないじゃん!」
「ごちそうさまでした」
ふと、気付くと、アイキはもうハンバーガーを食べ終わっていた。
「いつの間に食べたの? さすがはくのいち」
「……また変なこと言いだして」
「お金払う時も一瞬で財布を取り出してたよね」
うちの言葉に、ハルナとアイキが顔を見合わせた。
「お前、クイックペイも知らないのかよ」
「林家クイックじゃなくて?」
「誰だよそれ」
「ググってみて」
ハルナはスマホをちゃちゃっと操作した。
「出ねーよ」
「やっぱいないのかぁ」
「おちょくってんのか」
なにやらうちを睨みつけるハルナ。女子の中では強面だけど、付き合いの古いうちは全然びびらない。その隣のアイキが手を伸ばして来た。
「これ、スマートウォッチ。前に見せたでしょ」
「ああ、このおもちゃみたいのね。見た見た」
「これでクイックペイで支払いが出来るのよ」
「ん? どういうこと? この時計を林家クイックに買ってもらったってこと?」
「だからいねーよ。そんな奴」
ハルナがぷんすか怒っている。対照的にアイキは淡々と説明を続けた。
「この時計は父に譲ってもらったの。クレジットカードが登録してあるから、かざすだけで支払いができるわ。金額に上限が設定してあるからいくらでも使えるわけじゃないけど」
「んー? この時計の中にカードが入ってるって感じ?」
「そんなところ」
「クレジットカードってそんな小さいんだ」
「……違う」
アイキは突然、暗い顔になった。眉根を寄せて悲しそうな顔をしている。やっぱり物足りないんでしょ。
「ポテト食べる?」
「いらない」
「チカはほんとうに機械に弱いよな。電子マネーぐらい使えばいいのに」
「電子マネーってなに?」
ハルナは先ほどのカードを取り出した。
「あー、西瓜カード」
「お? Suicaは知ってんのか。だったら電子マネーがどんなものかわかるだろ」
「ポイントカードとなにが違うの」
「だいぶ違うだろ。ポイント付くカードもあるけど、チャージしておけば現金なしで買い物できるってのが一番の違い」
「チャージ……また知らない言葉が……どうしてふたりともそんなこと知ってるの」
ハルナとアイキはまた目を合わせた。
「いや、電子マネーってもう何年も前から普及してるぞ」
「スマートウォッチだってもういくつもシリーズを重ねているわ」
「むしろお前がなんでそこまで無知なのかを知りたいわ。普段何考えて生きてんだ」
何年も前から?
そこでうちはテスト中に考えていたことを思い出した。もし、うちが電子マネーだとかスマートウォッチがない世界で生きてきたとして、昨日の夜か今日のテスト中辺りに、何者かが世界をすり替えていたとしたら?
そう考えると、うちだけ技術革新が起こっていないことにも合点がいく!
うちは自分の考えを二人に説明した。
そして心配された。
「なに言ってんだよ。マンガの影響か? それともアニメか? 映画か?」
「平行世界、パラレルワールド、量子論とかの話?」
ハルナもアイキも露骨に呆れ顔だ。
「そういうSFっぽいんじゃなくて、単に意識の問題よ。うちらって起きてる間もずっと集中してるわけじゃないじゃん?」
「お前は常に集中力ないけどな」
「茶化すな! ともかく、ふと気づいたら時間が過ぎてたとか、景色が変化してることってあるでしょ。あれはうちらの意識の隙をついて何者かが世界を入れ替えてるんだよ」
「何者かって誰だよ」
「そんな難しいことうちに答えられると思う?」
「お前の提唱したトンデモ理論だろが」
ハルナは苛立たし気に、プラスチックのフォークで生野菜を串刺しにしてバリバリ食べた。もう食事の済んでいるアイキがアイスティーを飲みながらうちの話を聞く。
「世界がすり替わっているかはどうかとして、意識が跳ぶことはある」
「でしょでしょ。アイキはよく意識飛んでそう」
「……そんなことはない。今、意識が跳んでたなって気付く時は、なんだか不思議な感覚がする」
「それな! 世界がすり替えられた瞬間なんだよ! ちなみにアイキはどんな時に意識飛ばすの?」
「……跳ばそうと思って跳ばすわけじゃないけど、シャワーを浴びている時とか?」
「うわー、いかにも女子っぽい。水浴び小町って感じ。それやめな? 風邪ひくよ? ハルナは?」
「テレビ見てる時」
「あー、わかる。うちのお母さんとかワイドショー見てる時、完全に意識手放してるからね」
「アタシが見るのはドラマだ! チカ、お前はどうなんだよ」
「えー? うちは寝てる時とかかな」
「当たり前すぎるわ! もっとあるある感出せよ」
「これ、あるある感出すコンテストじゃないですから」
「なんだお前」
一瞬だけマジギレした雰囲気になったハルナは、ハンバーガーの包みを開いてかぶりついた。
「意識が跳ぶといえば、食事中もよくあるわね」
「それな! なんとなく食べてると食べ物のこと忘れちゃうんだよなぁ」
「そうね。チカ、昨日なに食べたか覚えてる?」
「昨日は確かー、あれ? なんだっけなぁ」
「きっと意識が跳んでるから記憶に定着してないんだと思う」
「どうせポテトとかだろ」
ハルナが鼻で笑うように言ったその瞬間、昨日の記憶が蘇った。
「そうだ! ポテトだ! 昨日はお母さんがポテトチップスを作ったからそれを食べたんだ」
「え? 晩御飯にポテチ?」
「たくさん食べたらお腹いっぱいになった」
「それはよくない。ただでさえ油で揚げた炭水化物なんてただの毒物。しかもそれを夜に食べるなんて」
「お前今日もポテトL食ったろ。デブ道のど真ん中を闊歩してるな」
――ポテトLを食った?
ハルナの言葉に違和感を覚え、視線をテーブルの上に落とした。
「あれ? うちのポテトは?」
トレイにあったはずの、チーズだらけバーガーセットが消えていた。バーガーの包み紙が丸まり、ポテトのケースは空っぽ。コーラのLのカップを振ると氷の音がじゃらじゃらと鳴った。
「今食ったばかりだろ」
「え? 食べてないよ。うち、ずっと話してたじゃん」
「意識が跳んだんじゃない?」
「いやいや、そんなはずが……」
その時、うちは思った。今まさに世界がすり替えられたのだ。うちはポテトを食べていない。これは確かだ。にも関わらず、ポテトは目の前から忽然と姿を消してしまった。恐らく、意識の一瞬の隙を突いて、うちがポテトを食べ終えた後の世界にすり替えられてしまったのだ!
瞼を何度か閉じてみた。でも、ポテトは消えたままだ。まだなにも食べてないのに……。急激に空腹感を覚えたうちは席を立った。
「どこ行くんだよ」
「ポテトを買うんだよ」
「お前……正気か? ポテトはもう食べただろ」
「よしなさい。昨日の夜も食べたのならチカの身体はもう限界のはずよ」
ふたりに真顔で引き留められた。でも、せっかくファーストフード店の来たのにポテトを食べずに帰るなんて、うちには無理。
「心配しないで、Sにしとくから」
「サイズの問題じゃねぇ」
「L+S=XLよ」
「やめて、うちに数式で語り掛けないで」
「まじでやめとけって」
「本当に太るわよ」
「ありがとう。でも、大丈夫だから」
なにが? というふたりの声を振り切り、レジへ向かった。すでに行列はなく、すぐに注文することができた。
小さな袋に詰められたポテトを手に戻った。席に着くや否や、ハルナがうちのポテトをつまみ食いした。
「あ! ちょっと! これうちの!」
「食べ過ぎだ。アタシが少し量を減らしてやるよ」
ハルナはニヤリと笑った。その言葉を聞いたアイキはなにかを諦めたように息を吐き、ポテトに手を伸ばした。
「あ! アイキまで!」
「チカのせいで余分なカロリーを摂取する羽目に」
「なんでアイキが被害者みたいになってんの!」
「久しぶりに食うとやっぱ美味いな」
「そうね」
ふたりはゆっくり味わいながらポテトを食べた。なんだか満足そうだ。ほら、やっぱり食べたかったんじゃないか。
「ふたりが食べるならLサイズにしとけば良かったよ」
熱々のポテトを噛むと、ジューシーな旨味がお口いっぱいに広がった。
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