二 画家として

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二 画家として

 一八三八年、ブランウェルがきょうだいの肖像画を描いてから四年後、彼はイングランド北部の都市リーズで絵のレッスンを受けた後、ブラッドフォードで肖像画家としての道を歩み始めた。  ブラッドフォードはリーズほどの規模ではないにしろ、産業革命の影響から急速に発展してきた町である。物心ついた頃から、丘陵を吹き荒れる風と荒地のただ中に住んでいたブランウェルにとって、リーズとブラッドフォードはまるで巨大な、常に成長していく生き物のように思えた。道を通るたびに新しく出来ていく建物、職を求めてやってくる無数の人々、彼らを胃袋の中に収めるように住まわせる家の連なり――それから、男たちの集まるパブリック・ハウス。もちろん、ハワースにもパブリック・ハウスはあった。しかしここではその数も段違いで、女たちに囲まれて育ったブランウェルが飢えていたもののひとつ、男同士の集まりが、この町では思いのままに手に入った。ブランウェルは一日も空けることなく、酒と、汗の染み込んだ古着と、パイプから吐き出される煙の匂いが充満するパブリック・ハウスに通い詰めた。  そういう訳で、ブラッドフォードを訪れたエミリが、ブランウェルに迎えられるなりシャツに鼻を近づけるのも無理はなかった。 「なんだよ」 「回数が増えたんじゃない」エミリは眉をひそめた。「町にはいろいろ誘惑があるっていうお父様の言葉、本当ね。仕事してる?」 「してるよ」今度はブランウェルが眉をひそめる番だった。「ほら、見ろよ」  ブランウェルが顎で示した狭い部屋の隅には、確かに描きかけの女性の肖像画があった。下塗りを終えて、目元が少し厚く塗られている。 「この人……」 「マリア・テイラー嬢。お父さんのハワース着任に一役買った方の娘さん。ふむ、あんな退屈なところにお父さんをやるくらいだったら、いっそテイラー氏は何もしてくれない方が良かったな」 「私は感謝したいと思うけれども」 「本気でそう思うのか?」  エミリは頷いた。 「お前は本当に変わってるな」  エミリはそれには答えず、手を差し出した。「手稿はどこ」  ブランウェルは書き物机の前にエミリを連れていった。机の上には、手稿の束が半ば散らばって置いてある。後はエミリが清書をするだけだった。 「その書き物机は自由に使ってくれて構わないから。僕は仕事をしてるけど、いいね」  エミリは手稿の束を取り上げ、枚数を軽く数えると、すっと椅子に座った。 「早く帰りたいから、早く済ませるわ」と、もうペンを取っている。   ブランウェルは一瞬、来たばかりなのに失礼なことを言う、と文句をつけかけたが、思いとどまった。彼女がロウ・ヘッド校に送られたとき、三か月も経たないうちにホームシックで帰ってきたことはよく覚えている。  エミリは何時間でも黙っていられる性格の持ち主だったが、ブランウェルはそうではなかった。絵筆を動かしながら、 「家の方はどう」 「シャーロットはデューズベリー・ムア校の先生を辞めてから仕事を探してるし、アンもそう。アンは体調が悪いんだから、無理しない方がいいと思うけど」 「お前は?」 自分のことを訊かれたのが意外とでもいうふうに、エミリは振り返った。 「私……私は、教師をやろうかと思ってる」 「お前が教師か」ブランウェルはため息をついた。「すっかり普通の女になっちまって。ゴンダルとアングリアは遠い昔だな」  返事がないので、ブランウェルは書き物机の方を見た。エミリは膝の上で手を組み合わせて、兄の顔をじっと見ていた。 「何?」 「昔のことじゃないわ」エミリはめずらしく、はっきりとした口調で言った。 「シャーロットと私は、まだ書いてる」  突然、ブランウェルの脳裏に、アングリアの住人たちの恋について語る姉の姿や、机に向かって一心に豆本を作る妹たちの姿が甦った。彼女たちは、あの子供時代の空想の国を忘れてはいなかったのだ。エミリは言葉を続けた。 「私は、ゴンダルの物語を詩にしてみたの。二、三編しか出来ていないけど、まだ書きたいものがたくさんある。シャーロットだって、ずっとアングリアの話を書いてるのよ。知らなかったの?」 「ああ」ブランウェルはかすかな高揚と驚きを引きずったまま答えた。「そう、そうだったんだ」 「ブランウェルも、こうして書いていてくれて嬉しいわ」エミリは手稿をめくった。 「肖像画家で、しかも作家になれたら素敵ね。兄さんならなれると思う。本当よ」  その後、エミリは彼女にしては喋りすぎた反動か、ほとんど黙ったまま清書を終え、一泊もせずに帰っていった。ブランウェルが酒を一日たりとも手離せないように、エミリもハワースの空気から離れられないらしい。ブランウェルはエミリを送っていった帰り、パブリック・ハウスに寄って、男たちの騒々しい話し声を耳にしながら、アングリアの荒涼とした大地や、赤い川や、政治闘争と恋に明け暮れる登場人物たちの影をぼんやりと思い浮かべた。  ブランウェルのブラッドフォードでの生活は、ほぼ一年で終わりを迎えた。数枚の肖像画を描き上げたが、それで暮らしていけるほどではなかった。ましてや、日ごとに膨れ上がる酒代を賄えるはずもない。  ブランウェルが牧師館に帰ったとき、シャーロットはシジウィック家に、アンはマーフィールドのインガム家にそれぞれ家庭教師として住み込んでおり、彼を出迎えたのは父親と、音楽教師を辞していたエミリだけだった。彼らは表立っては何も言わなかった。ただ、パブリック・ハウスから帰ったときに踏む玄関ホールの床から、父親の本棚の陰から、ブランウェルが阿片の煙を吹き付ける壁紙の隙間から、家族の失望が滲み出してきている気がした。
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