三 瓦解のはじまり

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三 瓦解のはじまり

 湿り気を帯びた重い灰色の空から、最初の一滴が降ってきたとき、ブランウェルは思わず舌打ちした。ただでさえ、夜のハワースは歩くのには向かない。まばらな家のほとんどはブラインドを閉じているし、どうせ皆もう寝ている頃だろう。牧師館へのガス灯もない道は、手を伸ばした先すら全く見えなかった。  やっとブランウェルが牧師館へ辿り着いたときには、前髪や肩から絶えず雨粒が垂れるほどになっていた。ドアを叩く。次いで、打ち破らんばかりにもう二回。中で物音がした。若い女性のささやき声。  蝋燭立てを手にドアを開けたのはシャーロットだった。ブランウェルがブラッドフォードから帰ってきて三年、彼女は勤め先を一回変えたあと、ブリュッセルへの留学から帰ってきたばかりだった。 「家中を起こす気なの」蝋燭の灯りにぼんやり浮かんだ顔は、いつもより赤茶けて見えた。「タビーまで起きてしまったじゃない。可哀想に。朝一番に起きて家事をしないといけないのは誰だと思ってるの」 ブランウェルはずぶ濡れのまま、玄関ホールに倒れ込むように入った。銅色の砂岩が敷き詰められた床が、ブランウェルの立っているところだけいっそう色を濃くした。 「酔ってるのね」壁に片手をついて歩くブランウェルの背中に、シャーロットは言った。「また」  階段への上り口のところで、ブランウェルは振り返った。 「手紙は?」 「え?」 「手紙だよ。来てたかい。僕宛の」  シャーロットは首を横に振った。ブランウェルはそれきり何も言わず、階段を上り始めた。  ブランウェルの寝室では、家政婦のタビーが拭く物を持って待っていた。いつもは生粋のヨークシャー訛りであれこれ軽口を叩きながら出迎えてくるところが、起こされたばかりで眠いのか、酔ったブランウェルに呆れているのか、何も言わなかった。 「タビー、もういいわ。私が面倒見ます」  シャーロットが後から階段を上ってきて、タビーに告げた。タビーは一言二言、よろしく頼みますというようなことを言って、自室に帰っていった。 ブランウェルを着替えさせた後、姉は犬でも拭くような様子で、ベッドに座り込むブランウェルの髪を拭いた。 「手紙って、どういうこと」  他の者を起こさないよう、シャーロットは小声で訊いた。ブランウェルはしばらく黙ったまま、おとなしく拭かれていたが、やがてぽつりと言った。 「ブラックウッズ誌」  シャーロットは問いを重ねる代わりに、弟の顔を拭った。 「ブラックウッズ誌に、」ブランウェルの呂律は、聞き取れるかどうかというくらい怪しかった。「手紙を。六回。六回も送ったんだ。最後の手紙から何か月も経つんだけど、返事がちっとも来やしない」 「何を頼んだの」 「作家にならせてくれって。きっと売れるって、言ってるんだよ、こっちは。六回も。信じられるか? こんなに放っておくことってあるかい?」 「ブランウェル、声が大きいわ」 「誰も分かってやしないんだから」ブランウェルは姉の言うことなど聞いていなかった。「分かってやしない。せめてブラックウッズ誌の馬鹿どもが、君くらいの審美眼を持っててくれれば良かったんだけどな!」 「ブランウェル」シャーロットは、弟の濡れた巻き毛を手で梳いた。「あなたのせいじゃないわ。まだ若すぎるのよ、あなたは。たった二十五歳じゃないの」  膝に置いたブランウェルの左手を、シャーロットは両手で握った。 「大丈夫。今は耐える時期だと考えるべきよ。どこの出版社からも断られなかった大作家が、今まで何人いると思うの? 評価は必ず遅れてくるものなのよ。分かるわね」  ほとんど閉じかけていたブランウェルの瞼が開き、蝋燭の光を映した姉弟の目が互いを捉えた。 「姉さんは信じてくれるね」いやにはっきりとした口調でブランウェルが言った。「僕がいつか、成功するということを」  それを聞いたとき、シャーロットはわずかに身を引いた。それはほぼ無意識の動作だったかもしれない。しかしブランウェルはそれを見逃さず、シャーロットの方に身を乗り出した。ほとんど鼻が触れ合うほどの距離になった。 「信じてくれるね」ブランウェルは囁き声で繰り返した。 「信じるわ」シャーロットは、誓うかのように返事をした。「あなたの名前は、きっと後世まで残る」  ブラックウッズ誌からの返事がないまま、年明けが近づきつつあった。今年中に返事はないだろう、とブランウェルは思った。あるいは、もう返ってこないかもしれない。そう考えるのは恐ろしいことでもあり、腹立たしくもあった。断るなら断るで、なぜ返事をよこさないのだろう? はっきり望みがないと分かれば、まだ楽なのだが。  彼がそんな風に宙ぶらりんの状態のままで迎えたクリスマスの午後、アンが休暇で牧師館に帰ってきた。アンもまた、勤め先を変えて、今はリトル・ウースバーンのロビンソン家で家庭教師をしていた。 「お帰り」  ブランウェルが戸口でアンを出迎えた。強風に晒されて歩いてきたアンは、荷物を置いて、乱れた巻き毛を整えながら挨拶もなしに切り出した。 「ブランウェル、良い知らせがあるけど?」 「へぇ?」ブランウェルはアンの荷物に手をかけながら片眉を上げた。「ロビンソンのご夫人がおっ死んで、旦那様がアンを後添えにしたいって?」 「ねぇ、真面目に聞いて」荷物を持って階段を上がるブランウェルの後から、アンは声をかけた。「あなたを推薦したの。ロビンソン家の家庭教師にね」  ブランウェルは柱時計の横でやっと立ち止まり、振り返った。 「喜んで受け入れてくださったわ。ご子息がいらっしゃって、男の家庭教師が要るのよ。一緒の家で働くことが出来るの。良い話だと思わない?」 「思わないな」ほとんど反射的に出た言葉だった。「僕は教えるのに向いてない。昔ポスルスウェイトで教えたけど、何か月持ったと思う? 半年だ。今度は三か月というところかな」 「ブランウェル」アンは手すりを掴んで、ブランウェルを強い眼差しで見つめた。「あなたは働く必要があるの。向いていても、いなくてもね。私や姉さんたちがそれぞれのことをやってる間に、あなただけ何もしないでいることは出来ないわ」  アンはブランウェルより三歳年下だったが、姉か、母親のような口調だった。それに、言っていることも。ブランウェルはため息をついた。 「逃げ場がないようだね」 「ブランウェル、お礼は?」 「ありがとう」ブランウェルは一段降りて、妹の頬にキスをした。ブランウェルが顔を離したとき、アンの顔はもう妹のそれに戻っていた。  年が明けて、休暇を終えたアンとともに、ブランウェルはリトル・ウースバーンのソープ・グリーン・ホールへと赴いた。ロビンソン家には夫婦の間に四人の子供がいて、三人の娘のほうは、アンの言うことには彼女の着任当初手の付けられないほどのお転婆だったらしく、十三か月の間に六人も家庭教師が代わっていたということだが、いまやアンの手腕によって見事に勉強好きな子に生まれ変わっていた。つまり、この気立てのよく優秀な妹のおかげで、ブランウェルは働き口を得ることが出来たという訳だ。  ブランウェルはロビンソン家の敷地内にある小さな建物に住み、夫婦のひとり息子の家庭教師として働くことになった。しかし、彼の興味は、やがて仕事よりも別の方向へと向かい始めた。
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