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四 秘密
ブランウェルがソープ・グリーン・ホールで働き始めてほぼ二年後、一八四四年の十二月、アンとブランウェルは休暇で牧師館に戻ってきた。シャーロットはブリュッセルへの二度目の留学から帰ってきており、何か秘密を抱えているらしかったが、ブランウェルにはそれが何なのかは分からなかった。エミリは変わらず家にいて、パンを焼いたり、ホールの床を塵ひとつなく磨き上げたり、裁縫をしたりして日々を過ごしていた。
「エミリは教師をするよりも、家でああしてる方が合ってるようだね」
ハワースの表通りをしばらくうろついた帰り、牧師館への道を辿りながら、ブランウェルはアンに言った。その日はめずらしく晴れていて、十二月の身を切るような風もなかった。石垣で区切られた荒野は彼らの右手に見渡す限り続いていて、急な丘となって空の底へと続いていた。
「音楽教師をやってたときはずいぶん嫌われたようよ」アンは苦笑した。「厳しすぎるのね、きっと」
「僕が子供ならエミリには習いたくないよ」
「そんなこと、本人に言ってはだめよ」
言わないよ、と返してから、ブランウェルは少し歩調を緩めた。
「疲れた?」
「少しね。……ねぇ、アン」歩道と荒野を区切る石垣に腰かけて、ブランウェルはのろのろと切り出した。「シャーロットなんだけど。どう思う」
「どうって」
「何か隠してる気がしない? よくぼうっとしてるし、手紙もいつもより書いてるし。男兄弟だから、よく分からないんだよ。妹なら何かしら見当はつくだろ」
アンはああ、と小さく声を漏らして、傍に誰もいないのに打ち明け話でもするようにブランウェルの方に身を屈めた。
「恋ね」
「恋?」素っ頓狂な声を出してから、ブランウェルは笑いだした。
「そうか。へぇ。求婚を二回もきっぱり断ったあのシャーロットが。本人に聞いたこと?」
「いいえ。でも何となく」
ブランウェルがいかにもおかしそうにしているのが、アンには不満らしかった。また背筋を伸ばして、
「分からないのはね、なんで隠すのかっていうことよ。あなたには言えないだろうけれど、私かエミリには言ってくれてもいいようなものじゃない。それとも、エミリは知ってるのかしら。ああ、だとしたら私だけのけ者じゃない」
アンが半ば憤慨しつつ喋っている間、ブランウェルはにやにやしながら妹の顔を見ていた。足を組んで、
「僕には隠す理由が分かったよ」
「なんですって?」
興奮と興味の混じった声でアンは訊き返した。ブランウェルは意味ありげに微笑みながら、片足をぶらぶらさせた。
「もったいぶらないでよ。男なりに、シャーロットの立場について何か考えられることがあるなら言ってちょうだい。きょうだいでしょ」
「多分だけど」ブランウェルは膝の上で手を組んだ。「相手には妻がいるな」
アンはしばらくその場に立ち尽くしていたが、興奮で赤くなった頬から少しずつ血の気が引いていくのが見て取れた。
「まさか。シャーロットみたいな分別のある人が」
「めずらしいことじゃないさ。この国には女が掃いて捨てるほど余ってるのに、立派な男は皆、既婚者なんだから」
アンは口元に手をやって、考え込む素振りを見せた。「ブリュッセルで会った人かしら」
「知るもんか。でも多分ね」
「ブランウェル」眉をひそめたまま、アンは兄の顔を見た。「どうして相手が既婚者だと思ったの」
ブランウェルはふぅむ、と声を漏らして、空を仰いだ。西の方から薄い雲が忍び寄ってきているが、彼らの真上には青空が広がっている。
「いいよ。シャーロットの秘密ばかり暴いて、僕が黙ってるのも不公平だ。言ってしまうとね、僕も同じ立場にある」
アンはしばらく、息をするのを忘れていたようだった。こわばった指で肩掛けをかき寄せて、
「ねぇ、まさか」
ブランウェルは上着のポケットから、ハンカチを取り出した。細やかな刺繍の施されている白いハンカチで、どう見ても男の持ち物ではない。
「貰ったばかりなんだ。そのうち時計の内蓋にでも入れ替えるつもりだけど」
宝箱の蓋でも開けるように、ブランウェルはハンカチを開いてアンに中を見せた。濃い色の長い髪の毛が、束になって挟まっている。アンはその髪の色に見覚えがあった。
「どうやらロビンソン夫人は、僕のことを気に入りすぎているみたいだな」
ブランウェルが大声で笑い出すのと、アンが兄の名前を叫ぶように呼んだのはほとんど同時だった。
「なんてことを……ブランウェル、なんてことをしてるの」絞り出すようにアンは言った。「十七歳も年上……いえ、そんなことどうだっていいわ。ブランウェル、立場を分かってるの。旦那様にばれたらどうなると思ってるの。よりによって……」片手で顔を覆って、「神様」
「何が悪い? どこのお屋敷を掘り返しても、ひとつやふたつは出てくる話だ」ブランウェルは言葉を継ぎつつ、妙な笑い声を立てた。「立場を別にすれば、僕は釣り合いの取れない相手じゃないと思うな」
アンは何も返事をしなかった。顔を覆ったまま、きつく目を閉じている。
「あのだらしない病人が死んだらね、僕は彼女と結婚するのも悪くはないと思ってる。ああ、でも瘤が四人もいるのは困るな。どこかへやってしまうか。地獄みたいな学校へでも」
「あなたをお屋敷に紹介しなければ良かった」
ようやくアンはそれだけ言って、ブランウェルを置いて牧師館への道を再び歩きだした。ブランウェルの笑いはぴたりとやんだ。その背中に、突然、風が吹き付けてきた。風は急な丘にしがみつく短い草を掻き乱し、波立たせ、木の枝を揺らした。ブランウェルはハンカチの中の髪の毛が飛んでいってしまわないよう、丁寧に畳んで、その上に右手を載せた。
「結婚するつもりだ」ブランウェルは呟いた。「いずれかは」
ハンカチをポケットに戻すと、ブランウェルはアンと同じ道を辿り始めた。妹の姿はだいぶ小さくなっていて、スカートの裾がわずかに風に翻っていた。
ブランウェルの言う「いずれか」というのは、ついに来なかった。翌年の一八四五年の夏、ブランウェルはロビンソン家から解雇通知を受け取った。ロビンソン氏が死んだ後も、夫人がブランウェルを近づけることは二度となかった。
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