六 ジェイン・エア

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六 ジェイン・エア

 ブランウェルが父親の監視下に置かれてから二年が経った。飾り気のない天蓋と赤いカーテンのついたベッド、磨き上げられたチェスト、質素な黒い暖炉、飾り棚、白いブラインドのついた窓――ブランウェルのもと居た部屋と違って、ここからは、ずっと遠くの丘まで見渡せた。この清潔な、小さな牢獄の中で、ブランウェルは自分が少しずつ朽ち果てていくのを今更ながら感じ取った。けれども、その腐食を止めるだけの気力は、ブランウェルにはなかった。  一銭も持たず牧師館を抜け出し、急な坂を下りてパブリック・ハウスへ向かい、夜中に闇の中をつんのめりながら戻るか、さもなければ牧師館で酒を飲むかが、ブランウェルの日常のほとんど全てとなった。父親の目の前で飲むことはさすがにしなかったが、気付かれているだろう。黙認するというよりも、もう自分を見離しているのだとブランウェルは思った。あるときパブリック・ハウスの主人が汚れた前掛けで手を拭きながら、別の客に、「先生の息子でなけりゃあ、とうに借金で訴えているところなんだがね」と言っているのを聞いたが、だからといってブランウェルの足が鈍る訳でもなかった。借金で州司法長官から通告を受けたことがあったが、結局逮捕などされなかった。なんとか切り抜けて酒を飲むことは出来る。ブランウェルにとって、逮捕されることよりも、家族の恥となることよりも、酒を数時間でも断ったときに出てくる手の震えや、胃がせりあがってくるような吐き気や、なによりあの耳障りな金属音の方が真に迫っていて、それを避けるためなら地獄のより奥深くへ進んだほうが、余程ましに思えた。  明け方から雪が降り、牧師館の前の小道も、荒野の灌木やヒースも、何もかもが雪に覆い隠されて、鬱々と静まり返っていた日のこと、ブランウェルは暖炉の前の椅子に座り、前日に居間で見付けた本に目を通していた。時折炉の火が小さく爆ぜた。酒で頭は鈍っていたが、どうにか文字を追うことは出来た。ともすれば揺れる視界に悩まされつつ、ブランウェルは最終章まで辿り着いた。  誰かがドアをノックした。 「お入り」 エミリが箒と布を片手に入ってきて、ブランウェルの前を通り、チェストの埃を落とし始めた。ブランウェルは最後の一行を読み終わり、本を閉じた。 「調子は」  チェストの引き出しの取っ手を磨きつつ、エミリが短く問うた。 「最悪だな」ブランウェルが答えた。「こんな雪と寒さじゃ、パブリック・ハウスに行けやしない」  エミリは飾り棚の上の酒瓶にちらりと目をやったが、何も言わなかった。それがかえってブランウェルの気に障った。 「なんだよ」 「何もないけど……」 視線をそらしたエミリは、別の話題を探すように、暖炉の上に置いてある一枚の紙を取り上げた。エミリの顔がこわばるのが、ブランウェルには見て取れた。紙にはベッドに横たわるブランウェルと、その足元で彼に手を伸ばしている骸骨――死神――の絵がインクで描かれていた。歪んだ線で描かれた死神は彼を嘲っているようにも、誘っているようにも見え、目を閉じたブランウェルの眉根には、深い皺が寄っていた。 「この絵は」 「酔ってるときに描いたんだ、といっても酔ってないときなんかほとんどないけどな。夢に見た。おもしろいと思って描いたんだけどね、捨ててしまって構わないよ」 「捨てないわ」エミリは絵を元の位置に戻した。「悪夢は大事にするべきよ。天国の夢よりも」 「悪夢ね」  ブランウェルは嘲るように口の端を上げ、立ち上がると、読み終わったばかりの本を絵の横に置いた。 「その本、どこで手に入れたの」 「居間に置いてあった。お父さんのものじゃないみたいだけど、エミリの?」  エミリは首を横に降って、本の作者名と題名を確かめた。 「カラー・ベル著」エミリは呟いた。「『ジェイン・エア』」 「ベルはともかくとして、妙な名前だな」ブランウェルは鼻で笑った。「よくあることだけど。それに、妙な話でもあった」 「おもしろかった?」 「おもしろかった……というより、面食らったかな。何もかも今までの小説とは違う。ジェインは不器量だし、鉄のような女だ。ジェインね。ふむ。でも、最後までほとんど一気に読んだ」 「それは、おもしろかったということよ」  エミリは微笑んで、本のページをぱらぱらとめくった。 「エミリはそれ、読んだのか」 「読んだわ。人気があるらしいの。『カラー・ベル』が誰なのか、大騒ぎになってるって話よ」 「カラー・ベル、カラー・ベル……」ブランウェルは呪文でも唱えるように、謎めいた筆名を口の中で繰り返した。「確かに、男とも女ともつかない」 「ブランウェルは、どちらだと思う」 「どちらか?」ブランウェルは椅子の背凭れに寄り掛かった。「知るもんか。なんにせよ、馬鹿げた話だよ」 「何が馬鹿げてるっていうの」 ブランウェルはエミリに答えるというより、自分に向かって言うように答えた。 「主人が家庭教師と結婚するなんてことは、あり得ないよ」
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