一 光あった頃

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一 光あった頃

「きれいに描いてね」  ブランウェルは絵具を溶きながら、ふふ、と笑いを漏らした。 「姉さんはきれいだよ」 「嘘をつくのはカンバスの上でだけにしてちょうだい」  シャーロットのむっとしたような声がすぐさま返ってきた。シャーロットが自分の容貌に自信がないことは、家族なら誰でも知っている。  ブランウェルはカンバスの向こうにいる三姉妹をひょいと覗いた。ここ二週間というもの、ブランウェルは、この小さなアトリエで彼の見慣れたモデルたちを描くのを日課としていた。絵を描くのは楽しくはあったが、厄介な仕事でもあった。なにせ、このアトリエに日が差すのは午前の短い間だけだったし、モデルもひっきりなしに文句を言ったりお喋りをしたりする。 「まぁね、どちらにしろきれいには描くつもりだよ。一家の肖像画家だもの。せいぜいおもねらなきゃ」  シャーロットはため息をついて、エミリと、その横にいるアンに目をやった。 「私も二人くらいきれいだったら良かったんだけれど。そしたらいずれ家庭教師をするにせよ、勤め口に困ることはないでしょう」  エミリはカンバスの向こう側に立たされた一時間前と同じように、ブランウェルの背後の窓を見つめて黙っていたままだった。窓は明け方に降った雨で気温が下がったせいで薄く曇っており、その向こうには霧で白く霞んだ荒野が広がっていた。 三人の前にある小さなテーブルに手を置き、アンが姉に向かって笑いかけた。 「あら、きれいなだけでもどうしようもないわ。悪餓鬼に泣かされて、ひと月で辞めちゃうのがオチよ」 「でしょうね。ああ、やってられない」  ブランウェルは絵筆でパレットを軽く叩いて、姉妹の愚痴をやめさせた。 「さぁ、将来家庭教師になるにしても、今は僕のモデルなんだから。しっかり働いてもらうよ。この下塗りが終わったら、それぞれの国に行こう」  それぞれの国、という言葉で姉妹の背筋がぴんと伸びた。エミリですら、表情は変わらないものの、わずかに活気づいた目でブランウェルをちらりと見た。 「いいわ、そうしましょう」シャーロットはさっきまでの愚痴を全て忘れたようだった。「エミリ、アン、あなたたちはどこまで進んだ?」 「清書の途中」エミリがシャーロットに答えるというよりは、自分に確認するように答えた。「今日中に装丁が終わりそう」 「じゃあ明日には読ませてね。私たちの方は……」  ブランウェルは苦笑してまた絵筆を取った。彼は他の家庭の姉妹がどういうものなのか知らない。ただ、この姉妹を従順なモデルにするのは、どうも無理そうだ。  下塗りが終わってブランウェルが道具を片付けている間、姉妹は顔を並べて、肖像画をあれこれ批評し始めた。三人の女性と一人の男性が、薄く塗られた黒い背景から浮かび上がるようにして描かれている。姉妹はどれも袖の膨らんだ、地味な(ブランウェルが思うにクエーカー教徒みたいな)服を着、半透明の白いショールを肩にかけていた。 「これが私ね」シャーロットは、向かって一番右に描いてある濃い茶色の服の女性を指した。「あら、実際よりずいぶん背を伸ばしてくれたのね、ありがとう。でも目が小さいわ」 「なんでも文句を言わなきゃ気が済まないんだから」ブランウェルは絵筆を拭きながら、いつもの軽い調子でやり返した。 「この左端が私で」アンはまだ首元に下描きの跡が見える肖像を指さした。「隣の背の高いのがエミリね。いいじゃないの。私、気に入りそうだわ。それから、これがあなた」  アンの指す先には、シャーロットとエミリに挟まれて立つ、ブランウェルの絵姿があった。黒い上着を着た、まだ十七歳そこそこの青年は、いかにも自信に溢れていて、絵の中でも一際目立っていた。豊かな焦げ茶色の巻き毛は広い額の上で滑らかな曲線を描き、二重の目と引き締まった口は均整が取れていて、高い鷲鼻は青年らしい高邁さと傲岸さを備えていた。 「自分ばっかりひいきしてるんじゃないの?」  シャーロットのからかうような口調に、ブランウェルは小さな笑いで返してみせた。 「三姉妹に囲まれたただひとりの男だもの、そりゃ目立つさ。僕も男兄弟が欲しかったよ」 「それ、ほんと?」アンがブランウェルを肘で小突いた。 「いや、嘘」  ブランウェルと姉妹が声を立てて笑い合っている間も、エミリはその絵をじっと見つめていた。 「どうしたの、エミリ」  道具を片付け終わったブランウェルが問いかけると、エミリは絵から目を離さず答えた。 「なにも。ただ、この絵はずっと残る気がするって、それだけ」 「あら、良い予言じゃない」シャーロットが本気にしているのかどうかは分からなかった。「ブランウェル、あなた有名な肖像画家になるわ。あなたのきれいなお顔目当てに、ご婦人がわんさと押しかけるでしょうよ。そしたらたくさん稼いでね。それで家を改築するのよ。内装をおしゃれにして。居間には赤いカーテンを付けたいわ」 「ご期待に沿えるよう努力するよ。……あれ、エミリは?」  シャーロットは三人しかいないアトリエを見渡した。「あら。いつの間にかいなくなっちゃうんだから。でもまぁ、子供部屋でしょう。続きを書きに行ったのよ」 「ずるいなぁ、私と一緒にやってるのに!」  アンは言うなり、アトリエを駆け出していった。残されたシャーロットとブランウェルは、二人の姉妹が出ていった後のドアを見やりつつ、 「エミリはすっかりゴンダルの住人ねぇ」 「昔から牧師館にいて、いないようなものだったからな」ブランウェルは手を拭いた布をスケッチ箱の上に放り投げた。 「じゃあ、僕たちも行ってみるとしようか。アングリアへ」  アトリエを出て左手にある部屋を二人が覗くと、エミリとアンはそれぞれの書き物机に向かい合って作業をしていた。エミリは机に顔を近づけ、掌に収まるくらいの小ささの紙片に、こまごまとした文字を書き連ねていた。脇に清書済みの紙が積まれ、装丁されるのを待っている。アンはその横で表紙にする予定の青いボール紙を切りながら、エミリと物語について交渉をしていた。 「ねぇ、やっぱりオーガスタの恋人、ひとりくらい残さない」 「だめ」エミリの返答は短かった。「全員死ななきゃ」  オーガスタというのは、彼女らの国ゴンダルの女王の名前だ。シャーロットとブランウェルはまだ装丁が出来たところまでしか読んでいなかったが、どうやら悲劇の女王になる予定らしい。 「でも、可哀想じゃないの」  十四歳の妹の懇願にも、エミリは心を動かされないようだった。「可哀想だって理由で物語を変えちゃ、何も書けないじゃない」  アンは切り終わった青い紙を机の端に置いて、頬杖をついた。「エミリ、将来絶対人のばたばた死ぬ小説書くと思うな」  そこまで聞いて、シャーロットとブランウェルはそっとドアを閉じ、部屋を離れた。玄関ホールへ通じる狭い階段を降りながら、 「あの子供部屋も手狭になったわね。小さい頃はみんなあそこで話を書けたのに」 「誰でも成長すればかさばるようになるさ。僕は居間の方がいい」  居間は階段を降りて右手、父親の書斎の向かいにある。四角いテーブルと大理石の暖炉が備わっており、白い桟で区切られた上げ下げ窓からは表の道がよく見えて、教区の村人であれ客であれ、通る人がいればすぐに目に留まった。据え付けの本棚に置かれた父親の本のコレクションを、きょうだいで貪るように読んだことを、ブランウェルははっきりと覚えている。岩に打ち寄せる波を描いたビュイックの細密な木版画は、ブランウェルの想像力を荒々しく掻き立てたし、ミルトンの『失楽園』に出てくるルシファーは彼にとっての英雄だった。  シャーロットとブランウェルはそれぞれの席について、アングリアの今後について話し始めた。エミリとアンの創ったゴンダルは、ミルクと蜂蜜の川の流れる美しい国だったが、シャーロットとブランウェルのアングリアはその対極にあるような国だった。土地は荒み、赤い川が流れ、陰謀と反乱が絶えず華やかな社交界の奥底で泡立っている。けれども、この国で繰り広げられる物語は、シャーロットとブランウェルにとっては、現実――しょっちゅう聞こえてくる赤ん坊の泣き声や、牧師館の三方を囲む枯れ枝と蔦に覆われた墓地や、どこまでも続く荒野にぽつぽつと建っている土気色の家の中の人々――よりも現実らしかった。 「よし、姉さんがザモーナとメアリを結婚させたいのは分かってる」ブランウェルはいつものように足を組んで座り、顔の前で手を組み合わせた。「でもザモーナは前に結婚させただろ? アングリアじゃ重婚は可能なわけ?」 「まさか」シャーロットは少し考えて、「でも……まぁ、なんとかするわ。でもメアリとの結婚は絶対。あなただってわくわくするでしょう、政敵の娘との結婚なんてドラマチックじゃない、私いくらでも書けそう」 ブランウェルは芝居がかった仕草で姉を指さした。「シャーロットは作家になるべきだね」 「あら、それはこっちが言いたい台詞よ」シャーロットは弟の身振りをそっくり真似した。「家庭内新聞まで作ってた文学少年さんこそなるべきじゃない」 シャーロットの口調は冗談めいていたが、全く本気にしていない訳ではなさそうだった。実際、詩だの批評だのを詰め込んだ手作りの新聞は、結構な間、十一歳のブランウェルもその家族も楽しませていた。 「私がなるんだったら、学校の教師か家庭教師の方が現実的でしょう。確実に稼げるし」 「夢がないなぁ、シャーロットは。じゃあ、エミリに倣ってひとつ予言をしてあげよう」と、ブランウェルは、テーブルの上にあるアングリアの物語の草稿を指で軽く叩いた。 「この作品は、ずっと後世に残るだろうよ」 「それ、ブランウェルのおかげで? それとも私?」 ブランウェルは少しの間、視線を宙に彷徨わせて、「僕」 「あなたって、結局そうなんだから」  シャーロットが苦笑して草稿を取り上げようとしたとき、家政婦が昼食の準備をしに居間に入ってきた。 「もう、結局一行も進まなかったわ」 「別に締め切りがある訳でなし」ブランウェルは草稿をテーブルの上で揃えた。「ゆっくりやればいいさ」  正餐となる毎日の昼食の席は、ブランウェルにとっては、どちらかというと退屈なものだった。軍人のように姿勢が良く、険しい顔つきをした父親と共にする食事は団欒の機会というよりも義務のようなもので、気軽にお喋りしようという気にはブランウェルも姉妹もなれなかったし、メニューも変化に富んでいるという訳ではない。今日はローストされた七面鳥が出たが、三日前の昼食もこれだった気がする。  デザートのライス・プディングが出た頃、父親はおもむろに口を開いた。 「ブランウェル」いつもの、滑らかな、低い声だった。「お前は画家になりたいと言っていたかね」 「そうです」ブランウェルはスプーンを置いて答えた。「それか、詩人か……小説家でも」 「そうか」  父親は軽く頷いたきり、またプディングを口に運んだ。話はそれで終わったのだろうか、とブランウェルがスプーンに手をかけようとしたとき、また父親の声が飛んできた。 「何をやろうとも、お前がひとかどの人物になるということに、私としては疑いはないのだがね」  ブランウェルは姉妹に目配せし、彼女たちもまた誇りを込めた目で彼を見つめ返した。この父親の言葉と、この姉妹たちの目つき。それはブランウェルが物心ついた頃から常に彼に降り注いでいたものであり、ブロンテ家の唯一の男子として当然受けるべきものだった。  「けれども、あんまり先を急いではいけないよ。分かっているだろうけれど」 「ええ」何度も言われていますから、というのは口に出さないでおいた。 「それと、今度の日曜だが、またオルガンを弾いてくれるかね。どうもお前の演奏がないと、礼拝の場が締まらんらしい」 「喜んで」  食事が終わり、父親が牧師としての仕事に戻るのとほとんど同時に、アンがブランウェルの顔を覗きこんできた。 「で、ブランウェルは何になる気なの。実のところは」 「さぁ。何にだって」 「画家になるなら肖像画家がいいわ」シャーロットは、家政婦を手伝って皿を片付けながら口を挟んだ。「普通の画家よりいくらか安定してるし。もし作家にならないのであれば、だけど」 「どうだろうね。まだ迷ってるんだ、正直なところ」 「お父様はああ仰ってるけど、実際は安定した職を選んでほしいと思っているのよ」シャーロットの口振りは一歳上の姉というよりも、母親のようだった。 「でもあなたの意思を尊重しているのだと思うわ。私たちは女だから、結婚しないとしたら学校かどこかの家で教えるか、そんなところでしょう。でもあなたは違うの」  シャーロットは身体の前で手を組み合わせ、弟に向かって微笑んだ。 「あなたが言う通り、ブランウェル、あなたは何にだってなれるのよ」  姉と二人の妹は、ブランウェルを、眩しいものを見るような目で見た。それはブランウェルにとって、喜んで応えてやるべき期待の眼差しだった。
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