彼の世界の音楽

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彼の世界の音楽

亜澄とここに来るのは何回目だろう。 野球、遊園地、ボーリング…合わせたらたぶん3桁行く。 特に亜澄のお父さんは熱狂的なジャイアンツファンだから、ドームは何度もつれてきてもらった。 今日は亜澄と私、二人だけ。 「行きたくない」 「行く意味がわからない」 さんざん悪態をついてくる亜澄を、付き合わせる見返りにイチゴブュッフェに連れていったのに、エンドレスにイチゴを頬張りながらずっと両手で文句を言ってた。 関係者入り口で彼からもらったチケットを見せると、スタッフジャンパーを着たその人は両手を広げてぴたっと止めるジェスチャーで私と亜澄に“待ってて”と伝えたあと、口元の小さなマイクでなにか言った。 すぐに同じ服を着た別の男性が走って近づいてきて、とても流暢に“ご案内します”と両手で話しかけてきた。 ボランティアで手話を覚えたというその男性に案内された座席はステージからずいぶん離れた位置にあるボックスシート。 私と亜澄のふたりだけしか座れない。 座席の前にはプロンプターが設置されてて、小さなテーブルの上には心電図をとるときに指にくっつけるクリップみたいな機材と、手紙が置いてあった。 “始まったらプロンプターをステージと重なる位置にずらして画面とステージの両方が見えるように調整してください。” プロンプターの画面を上下左右に動かしながらその男性の両手が説明してくれる。 ”クリップは右手でも左手でも大丈夫ですが、指の順番はお間違えないように。第一関節までしっかり挟んでくださいね。” 今度はクリップを自分の指にぱくぱく装着して私と亜澄に見本を示してくれる。 “お帰りのときは混んで危ないのでお二人の退館は一番最後になります。声をかけるまで待っていてください。緊急時も僕が誘導します。このブース出たところにずっと待ってますから安心してくださいね。” 深々とお辞儀をしてにっこり笑顔で手を振って、そそくさと出ていってしまった。 〈これなに?〉 《わかんないよ》 〈私はこの席でライブじゃなくて野球をみたかったよ。こんないい席超高そう。〉 亜澄まだ文句言ってる。 《ステージが遠いから、全然いい席じゃないよ》 〈叶羽は彼のこといつでも至近距離で見られるんだからどうでもよくない?〉 《それとこれとは違うのっ!》 私と亜澄、それぞれのテーブルにおかれた手紙を開く。 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 叶羽ちゃん スピーカーを手に持って画面で見るのとは 違うなにかを見つけてくれたら嬉しいです。 既存のシステムをちょっといじっただけの 初期段階なので、ここが良かったとか、 もっとこうしてほしいとか、これは嫌だとか、 叶羽ちゃんにしかわからないことを、 忘れないようにちゃんとメモして全部教えて ください。でも超カッコいい俺を見るのも 忘れんなよ。 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 超カッコいい俺とか…自分で言うかね。 まったくあの人は。 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 亜澄ちゃん 今日は来てくれてありがとう。 叶羽ちゃんは俺のことが大好きだから、 たぶん良いことしか言ってくれないので、 亜澄ちゃんの厳しい意見をいっぱい もらいたいです。 楽しいって思ってもらえる瞬間が少しでも 多くあるように僕も頑張るので 今日はよろしくお願いします。 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 叶羽ちゃんは俺のことが大好きとか…自分で言わないでよね。 亜澄にこの先さんざんいじり倒されるわ。 勘弁してよほんと。 会場が暗転して、彼の姿が遠くにはっきり見えてきた。 見に来ているたくさんの人たちがざわつき始めるのもはっきりわかる。 それは私と亜澄にとっては、まるでモノクロのトーキーみたいにしか映らないはずの景色だ。 めんどくさそうに足を組んで座ったままの亜澄と、立ち上がって始まりを待っていた私は、同じタイミングで驚いて目を見合わせた。 プロンプターに浮かぶ青の文字は彼の唇の動きに合わせて赤に変わっていく。 指先のクリップも彼の動きに合わせて不規則な速度で小指から親指へ流れるように小さく震える。 それはギターを弾く彼がモニタに映るときの動き。 ピアノを弾いている人が映るときは小指から親指へ順番にじゃなくて、5本の指がランダムに震えて、ドラムを叩いている人が映るときは5本の指が同時に強く震える。 〈叶羽、これなに?〉 《わかんないよ!こんなの初めてだもん》 きっとこの会場は大きな音でうるさいほどなんだろうけど、私たちはいつもと変わらず両手で話ができる。 〈眩しくてどんどん変わるライトと、震える指と、流れてる文字で、なんかわかるんだけど!〉 《わかるよね!》 亜澄はポロポロ泣き出して、私に抱きついてきた。 〈叶羽の彼はすごいね。耳が聞こえないってわかると、いろんなこと諦められちゃって蚊帳の外に追い出されちゃうのに、叶羽の彼はおいでおいでって、してくれてる!〉 私と亜澄は耳が聴こえない。 でもそれは五感のひとつが欠けているっていうことじゃない。 聴覚がないっていう、特別な感覚を持ってるってことなんだ。 鼓膜も感覚もすべて越えて届く彼の音は… ミュートの世界にいる私たちよりも チョコ嫌いな女子よりも メロンアレルギーなんかよりも きっと絶対、圧倒的に珍しい。 まるで新種のウィルスみたいだ。
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