5人が本棚に入れています
本棚に追加
第一話
その少女の日常は、そっけなく冷めたふりをした仮面を被って過ごしている。
本当のことには、誰にも触れられないように。
「ねえ、大杉さん、これさ、どう思う?」
急にクラスメイトに声をかけられ、大杉苺は耳に着けていたイヤホンを外した。爆音で聞いていたロックバンドの音楽。余計なものをシャットアウトしてくれるから便利だ。しかし、肩まで叩かれるとさすがに無視をするわけにもいかない。
「何?」
そのクラスメイトは、スマートフォンの画面を苺に見せてきた。そこに映っていたのは、その子を含めたアプリで加工してある、数人で撮った写真。肌が不自然なほどつるつるしていて、目は宇宙人のように大きく顎が尖っている。だが、今時の女子高生が撮影する写真としては今更驚くようなことはない。
「酷くない?」
それは、この加工が、ということだろうか。口が裂けてもそんなことは言えないが。
「酷い?」
「そうだよ。リカ、超ブスに写ってない?」
「そう……」
「そうだよ。それなのに、SNSでシェアするとか、鬼の仕打ちだよ」
加工のせいでみんな同じ顔に見えるが。それも、思っていても口に出してはいけない。そして、そもそもなぜそんなことをわざわざ苺に訴えて来るのかも理解が出来ない。
全く無関係なのに。期待している反応だって返ってこないのがわかっているのに。
「ここまで加工されていると、もはや誰だかわからないんだから、いいんじゃない?」
「何それ……超ウケる。そっか、そうだよね」ウケるのか。そして、納得するのか。本当に彼女はけらけらと笑っていた。「その塩対応欲しくて聞いたの。マジありがとう」
「ああ……そう……」
宇宙人のような顔に写真を加工する女子高生は、頭の中まで宇宙人だと思う。この狭い教室の中でも、世界はいくつもある。
ファッションやメイク、お洒落をすることに熱を上げている世界、くだらない下ネタしか言わない世界、自分の趣味の話しかしない世界、当たり障りのないふわふわした世界、噂話を必死にする世界。何も考えていない、流されるだけの世界。
そのどこにも興味がないふりをする。本当に欲しいものなどないように。その欲望をうまく隠すために。何も、人に話さなくていいように。触れられないように。
こうして音楽で耳を塞ぎ、雑誌で視界を塞げば、余計なものは何も入ってこないのだから、ちゃんと自衛の方法はある。
そのはずなのだが、通り過ぎていった男子生徒が、不注意で軽くぶつかってくることまでは防ぎようがないし、その途端に無防備に現実に放り出されたような気分になる。
男は申し訳なさそうに謝罪をしてくるが、正直に言うと、気分は台無しだ。
「あ……悪い」
苺はちらりと視線を一度投げかけただけで、特に何か返事をするでもなく、そのまままた雑誌に目を落とした。
嵐山高雅。絶対に近づかないし、直接話もしないようにしている男。だから、何も言わない。
今のはただの小さな不注意で、あからさまに関わりたくないような素行の悪い人間というわけでもない、普通の少年だ。むしろ優しいと思う。だからこそ駄目なのだ。
彼も彼で、しつこく絡んできたりはしない。苺のその態度に怒るでもなく、ふいとその場を去ろうとする。そこで、先ほど苺に写真を見せてきた女子生徒が、からかうように彼に言った。
「あんたらさ、なーんか、仲悪いよね」
「別に、悪くないよ」
強がりでも何でもない。さらりと彼は答えた。苺だってそう言われれば同じように答えるだろう。
彼女と一緒に喋っていたもう一人の女子生徒が、大口を開けてゲラゲラと笑いながら言う。
「もともと、誰にだって大杉さんは塩対応だよ」
「それもそうかぁ。でもさ、なんか嵐山に対してはさらに尖ってない?」
これも聞こえないふり。すると、ますます好きなことを言われる。
「案外さ、あれなんじゃない。好きの裏返し……」
ばたんっ。
不必要に大きな音を立てて雑誌を閉じることで抗議の意を表す。そうすると、好きなことを言っていた口は、呆気に取られて閉じられた。
苺はじろりと一同を睨みつけると、みんなはそっぽを向いてしまう。それを見届けてホッとすると、今度は鞄からスマホを取り出し、ひたすらぽちぽちと何か画面をいじっていた。
ポケットの中で、高雅のスマホはメッセージを受信して静かに震えている。気づくのは、放課後になってからだったが。
苺: 嫌いじゃないけど好きじゃないから!
帰宅したころに、苺が送ったそのメッセージに返事が届いた。
高雅: 知ってるよ。
苺: 知ってるのだって知ってるけど、一応念を押しておかないとね。
高雅: お前、今日はいつも以上に不機嫌だよな。何かあったか。
苺: 別に。気のせいでしょう。
本当は、あった。
兄の恋人に会ったのは数か月ぶりのことで、ほんの一瞬の出来事だった。ただ短い挨拶をしただけの。
久しぶりだね、苺ちゃん。
たったそれだけだったが、月曜日の朝に彼女が兄の家に来たのだ。苺が来ている時は、いつも彼女は絶対にやって来ない。そのはずなのに。
前に来た時の忘れ物を取りに来たと言っていたか。
それもまた、何も興味がないふりをして、学校へ行こうとしたけれども、背中からしっかり聞いていたのだ。わざとゆっくり靴を履きながら。
普段なら、そんなことに苛立つこともない。でもなぜか引っかかった。そんな忘れて困るようなもの、わざとじゃないのか、などと。
鈴音はそんな人間ではないことはわかっているのに。
高雅になら、話してもいいか。こんなしょうもなく卑屈で矮小な自分を。
文章を打ちかけて、手が止まる。
格好をつけたい自分がいるのか。相手が高雅だというのに。もう散々、駄目で格好悪いところなんか見せているのに。
絶対に、近づかないし、直接話もしないように決めているけれども、でも、携帯のメッセージや電話では絶対誰にも話せないことを、高雅になら話せる。いつの間にか、そんな風になってしまっていた。
友達でも恋人でもないけれど。実際に近づかないからいろいろ言える。
そう思った途端に、文字を打つ指が止まらなくなっていた。理不尽な愚痴に対して、怒られたって呆れられたっていいのだ。
この掌の小さくて薄っぺらい機械には、誰にも秘密のことが詰まっている。
高雅とのこの奇妙な関係の始まりは、去年の夏ごろのことだった。
誰にも言えないけど、どこかに吐き出さなければ破裂してしまいそうだった言葉たちを、あふれ出て来るままに書いていた、日記とも言えない、表面上はただのキャンパスノート。それを、どこかで失くしてしまったのだ。
ぱっと見て通常の勉強に使用しているノートと区別がつかないために、こういうことが起こってもおかしくはなかった。見た目からしてはわからないようにするために、わざとそうしていたのだから仕方がないのだが。
誰かに見られたらまずい。
放課後、教室の机の中、ロッカーの中、鞄の中、ひっくり返さんばかりの勢いで探したが、見つかったノートはどれも勉強用だ。
どうしよう。
何度見ても、どんなに掘り返してもそこにはないのに、まだしつこく探してしまう。そこで、背後から誰かに声をかけられた。
「大杉」
「何?」
嵐山高雅だ。普段あまり話をすることもそれほどない。こんなに焦っている時に、いったい何の用だというのだ。
「何探してるんだ?」
「何でもない」
「もしかしてこれ?」高雅は、ひらひらとノートを顔の前でかざして見せた。「音楽室に忘れてたぞ」
「う……ん……」
「ふーん……」
苺は、高雅からノートを乱暴に奪い取り、守るようにぎゅっと胸の前で抱いた。
「み、見たの?」
「うん。見るつもりはなかったけど……誰のか確かめるためにちょっとだけね」
「え…………ええっ!ちょっと、やめてよ!」
「ごめん、ごめん。けど、教師に渡されるよりはよかっただろう」
それを言われると、ぐうの音も出ない。言い分が正しすぎるのが、卑怯だ。だから、闇雲に怒鳴りつけること以外は出来なかった。酷く稚拙だとしても。
「うるさい、うるさい、うるさい、うるさい!」
しょうもない奴。高雅が明らかにそう思っているのは見て取れるくらい、呆れの色がにじみ出ていたけれど、彼はそれを口にはしない。
それがまた、なんだか苛立つ。
「……そうやって無理に押し込めていると、今みたいにふとした拍子に爆発しちゃうんじゃないか」
「だからって、所かまわずぶちまけていいものでもないでしょう」
「まあ、そりゃそうだけど」
「だから、あんたももう私に話しかけて来ないで。人に聞かれたら嫌だし」
「声に出して話しかけなきゃいいんだ」
「は?」
ポケットからスマートフォンを取り出した高雅は、すいすいと慣れた手つきで何事かを操作し、画面を苺に見せてきた。
そこには、メモ帳機能に文字が書かれているだけ。
これならいいってことだろう。誰にも見られない。むしろ、そんなノートを持ち歩いて書いているよりも、こうやって俺に話したほうがよくないか?誰か、聞いてくれる人がいる方がさ。
苺はすぐに自分のスマートフォンを取り出し、そこに文字を打って高雅に見せた。
そうだとしても、どうしてあんたに話さなきゃならないのよ。余計なお節介のつもりなのか、興味本位で強引に踏み入ろうとしているのか知らないけど。
彼は愉快そうに大声を上げて笑い出した。
「まあ、それもそうだな。確かに興味本位だし」
「は……はっきり言うね」
「だって、気になるんだよ」
「何が?」
少し困ったように、高雅は俯いてしばらくの間黙った。遠くに、部活動をしている生徒や、はしゃいでいる生徒の声が聞こえてきて、どうにもそわそわしてしまう。
顔を上げた彼は、小さな声でぼそぼそと言った。
「別に、口に出して言いたくなかったら、書いてもいいけど……一つ質問していいかな」
「何?」
最初は高雅も口で言おうとしていたようだが、しかし、思い直してまた文字をスマートフォンに打ち込んで見せた。
世の中の半分は男なのに、その中で何でよりにもよって兄に拘るのかって……純粋に不思議なんだよ。
思わず、苺はそのまま声に出して答えていた。
「世の中にはすでにパートナーがいる人になぜか固執したりする人だっているんだし、別に不思議でも何でもない」
「そう言われてみればそれもそうか。……って、いや、それはまた違うだろう」
「そうかな。……ああ、でもそうかも、違うのかも。……固執はしているけど、きっとそういう好きとも違うと思う」
「ふーん……じゃあ、何なの?」
「口では説明できないし……後で文字で書いて説明する」
「論文の提出みたいに言うな」
どうしてだかわからない。でも、あの時、ふっと話してしまいたくなったのだ。この人は、きっとからかったり、正論でねじ伏せたりしようとはしない。きっと、ただ聞いてくれるだろうと、そんなふうに、直感で感じたのかもしれない。
それ以来、高雅とのスマホのメッセージアプリでの会話が始まった。
でも、学校で会っても話さないしお互いに興味のないふりをすること。
これが約束だった。
一つは、苺の秘密がバレないようにするために。そして、もう一つは、苺の心理的にも、高雅を取り巻く事情としても、物理的にある線を越えてはいけないからだ。
これ以上深く関わってしまうと、今の自分の気持ちを踏みにじってしまうことになる。そして、相手の気持ちも。
だから、秘密はこの手の中の小さな機械だけでいい。
最初のコメントを投稿しよう!