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第二話
水曜日の朝。
焼かれたトーストの匂いと、コーヒーの香ばしい香りで目が覚める。うっすら開いた目に朝日が飛び込んでくると、目が耐えられずまた閉じてしまった。そのまま二度寝してしまうのがいつものパターンであるが、今日は不意に頬をつねられて、起きざるを得なかった。
鬱陶しくてその手を振り払うと、笑い声がした。
「ほら、さっさと起きろ。遅刻するぞ」
時計を見ると、七時前。まだ遅刻するなどという時間ではない。でも、自宅から学校に行くよりは遠いので仕方がない。
のろのろと起き上がっても、まだぼーっとしていると、今度はデコピンをされる。容赦がない。
「お前、ほんと寝起きの悪さ直らないな」
「突然よくなったりしないよ」
さっきのデコピンで、だいぶ頭ははっきりしてきた。よろよろとキッチンまで歩いて行って、水をコップ一杯飲み干し、続いて洗面所へ向かい顔を洗う。これでようやくちゃんと活動ができるようになる。
テーブルの上には、卵焼きとサラダとトースト。
ちゃんと妹が起きたことを確認した兄は、テーブルの前に座り、朝食を食べ始めた。この何気ない時間が、一番好きだった。
他の誰のものでもないから。
苺はバイト先のコンビニからは自宅より近いので、帰りに必ず兄である樹の家寄って行く。そして、そのまま泊まって、翌朝は兄の家から登校する。火、木、日曜日の夜は毎週必ず来ることがわかっているから、兄の恋人はやってくることはない。
兄妹水入らずのところを邪魔しちゃ悪いから。
そう言われた時は、遠慮した体で、遠回しに責められているのかと、少しばかりイラつきもしたが、彼女はそんな人ではないこともわかっているから、自分の中に勝手に生まれたもやもやをどうしていいのかわからない。彼女には何も落ち度はないし、むしろ優しくて、どこにも突いてやる隙が無いのだ。
絵に描いたような優等生で、控えめで、嫌なところがない。癇に障るとすると、その人の好過ぎるところがイラつかせることくらいだろうか。でもそれは、受け取る人間が捻くれているだけの話だ。
自分の汚さや腹黒さを余計に思い知らされるだけ。
だから、そんな感情を抱いている自分が、苺は時折ひどく醜い生き物にも感じてしまうのだ。そして、そんな醜い自分を必死に隠して生きている。それは、基本的に兄の恋人のことをそういう風に思っていたとしても、嫌いではないし、むしろ好きだから。
乙女心は、いろいろ複雑なのである。
苺がもそもそと、ママレードのジャムを塗ったトーストをかじっていると、今まで黙って食べていた樹が、ふいにつぶやくように言った。
「コンビニならいくらでもあるんだから、家から近いところでバイトしたらいいのに」
「それは嫌だよ。だって、お父さんやお母さんが買い物に来たら気まずいじゃん」
「気まずいか?」
「気まずいよ。学校の近くだと知り合いが来ると気まずいし」
「ふーん。でも、この辺でやってると、俺が仕事帰りにふらっと寄るかもよ」
「しないでしょ」
「うん、しないけどな」
「だよね。お兄ちゃんだって気まずいもんね」
フォークを持った樹の手が止まる。苺に注がれている不安げな視線が、苺の食事の手も止めさせてしまう。
ぎこちなく、止まってしまう時間。窓から差し込む朝の陽ざしが、むしろ凶悪だ。
「その愛想で、接客業をよくやる気になったな」
「別に、人が嫌いなわけじゃない」
「そうなのか……」
再び動き出した樹の持ったフォークが、サラダのレタスをぐさりと刺した。
「気にしているの?」
「え……」
「もしかしたら私に友達がいないんじゃないかって」
どこか困ったような樹の顔を見て、苺は自分の質問を後悔した。返事だってわかっているのに。
「そりゃあ、まあね」
「いるよ、友達」
いや、本当に友達と言っていいのかどうかはわからないけれど。
「うん。わかってる……」
「大丈夫、ちゃんと上手くやってるから」
小さなため息。苺は必要以上に一口かじったパンを時間をかけて、石か何かを食べているように、必死に嚙み砕いていた。
樹は、それを見て見ぬふりをする。
「はいはい。……ほら、さっさと食べろ。遅刻するぞ」
「はいはい」
樹は過干渉ではない。むしろ、妹と程よい距離を保とうとしているようにさえ見えて、時々こういうことを言う。
そんな兄を鬱陶しそうにする苺は、それでも、こうやって週に三日は兄の家に絶対にやって来る。
その意味を、樹は本当に分かっているかどうかはわからないし、苺自身もいったい自分が何を思っているのかもわからない。それに、みっともなく見せるつもりもない。
朝からきびきび動く樹は、苺がのろのろと支度をしている間に、洗い物まで済ませるのだ。でも、それで不思議と二人が出かけられる時間がぴったりと同じになる。
同じ家に住んでいた時も、そうだった。二人は一緒に家を出る。
それは、苺が都合よく利用した言い訳だったかもしれない。学校へ行くのが億劫だったり辛かったりするのも、朝のその十分ぐらいの時間があれば楽しくなったのだから。
しかし、こういう話があった朝は、純粋に楽しいとも言えない気分にはなるが。
もう十七歳なのだし、高雅の言う通り、確かに兄とこういう関係であるのは一般的にはおかしいのだろう。あからさまにべったりくっついているのではなくても。
でも、他の人がどうだろうと、どうでもいい。
晴れた朝の爽やかな空気は、じくじくと腐って行くような苺の心を消毒してはくれないどころか、余計に腐らせる。
ついつい、歩いていると視線がアスファルトに向いてしまう。そうして、下を向きながら、吐き出すように苺は不意に言った。
「ひょっとしてさ、私が来るのが嫌なの?」
「嫌じゃないけど……いつまでもこういうことが出来るわけじゃないだろう」
「どういう意味?」
ぱっと勢いよく顔を上げて、苺は兄の目を覗き込んだ。だが、すぐに逸らされてしまう。そこで話を終わらせるちょうどいい言い訳もあったことであるし。
「ほら、駅に着いた」
「……うん。じゃあね、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「お兄ちゃんも、行ってらっしゃい」
お互いに手を振った。
いつもと同じようで、ほんのちょっと何かが違うような気がした。改札をくぐって、それぞれ違う方向の電車に乗る。それもいつものことだったのに、苺の中で何かが引っかかる。
言わなければならないことを、樹は言わないままなのが分かったからなのだろうか。
また、明日の夜に会うのだし、その時聞けばいいだろう。あるいは、わざと気づかぬふりをしていたほうがいいのだろうか。
いつもよりも、少しだけ通学が憂鬱だった。
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