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第三話
木曜日の夜。
まだ週末ではないけれども、夜の街は仕事帰りの人で賑わっていた。どうして、いつだろうと関係なく混みあっている新宿で待ち合わせをしたのだろうと、多少人に酔ってきて、清瀬鈴音は後悔した。しかし、待ち合わせ相手とは、そこが都合よかったのだから仕方ない。
時間の五分前について、少し落ち着かない気持ちで待っていた。
何せ、今日話したいことは、鈴音の人生を揺るがすことだ。だから、こうして待っているだけでも緊張してしまう。
待ち合わせの時間から五分遅れて相手は現れた。学生時代からの友人の由比涼子だ。
「ごめん、ごめん、お待たせ」
「いいよ、五分くらい気にしないで。忙しいところわざわざ来てもらったんだから」
「鈴音の方が私を呼び出すとか珍しいから、今日は絶対残業しないって決めてたのに」
「ありがとう。……なんか、むしろごめんね」
少し寂しそうに微笑んだ涼子に、鈴音はもっと申し訳ない気持ちになる。こちらが気を遣うことで、さらに気を使わせ、距離を感じさせてしまうのはわかっている。
もう十年の付き合いなのだから、そんな思いをさせるようなことをする方が、却って不義理というものではないだろうか。
それを頭では理解していても、どうしても引いてしまう。そして、そんな鈴音の性質を分かってくれている涼子に、どこか甘えていることも承知であるから、余計に。
「で、わざわざ呼び出したからには、何か話があるんでしょう」
「うん。とりあえず、予約してあるお店に行こうか」
人を待っている五分間と、打ち明け話をするまでの五分間。同じ五分なのに、その長さはまるで違う。どちらが短くてどちらが長いのかはわからないけれど、同じものとは言ってはいけない気がするのだ。
それは、ちゃんとこの話を人にするのが初めてだからかもしれない。
席について、料理を注文してから、ゆっくりと呼吸を数回繰り返し、心臓の鼓動を少し落ち着かせながら、少し震える声で鈴音は切り出した。
「えっと……今日したい話っていうのはね……」
「うん、何?」
「私、結婚することになったの」
急に飛び出した結婚の二文字に、一瞬涼子は反応を失っていた。
「……樹と?」
「うん」
「そっかぁ、おめでとう。そうなんだぁ……へぇ……」
「な、何?」
妙に含みのある物言いに、もしかすると、反対されたりするのではないかと、一瞬鈴音は身構えたが、そうではなかった。
ただ、涼子とて知った情報を消化するのに時間がかかっていただけであったのかもしれない。やがて彼女はにこりと微笑みながら言った。
「あんたたち、高校生の頃から誰も間に入る隙がなかったよね。あまりにもしっくりきすぎるというか。だから、そういう話を聞いてさ、ここまで純粋におめでとうと思うこともそうそうないなって思って」
「……あ……ありがとう……でいいのかな」
涼子は言葉通りに、心から喜んでくれている。それはもうちゃんとわかる。けれども、何かまだ、鈴音の心の片隅に不安の陰りがある気がして、返す笑みもすっきりできない。
「何でそんなに返事が曖昧なのよ」
「なんていうか、ちょっと不安だったの」
「何で?」
「上手く説明できないんだけど……まだあんまり実感がないからかな」
「でも、そういうことでもないように見えるけど。なんか、納得してないんじゃないの」
確実に、涼子は的の真ん中を射てくる。昔から彼女には隠し事が出来なかった。だからこそ、涼子には一番にこの話をしたいと思ったのだ。
「うーんと……何も問題がないところが、ちょっと引っかかるっていうか」
「は?」
「大きなぶつかり合いもしたことがないのよ。お互い小さな不満くらいはあるけど、取り立てて根に持って腹を立てるようなことでもないし」
「何、結局のろけ話?」
鈴音は慌てて大きく首と手を振って否定した。
「そうじゃなくて……だから、大丈夫なのかな、って。もし、後々に何か些細なきっかけで爆発しちゃったりしたら……大変なことになりかねないかもって。それなら、衝突するっていうことにも慣れている関係じゃないといけないような気がして」
「だからって、わざわざここでいらぬ波風を立てることもないでしょう」
「うん、そうだよね。それに……もう一つ……気になることが……」
「何?」
おそらくは、大きな衝突が今までなかったことよりも、もっと後々に響いてきそうな問題だ。樹の妹の苺のこと。
そのことを、涼子に相談しようと考えもしたが、自分の理性がそれを何とか止めた。
「いや、それはやっぱり本人に言わないと駄目よね。なんか、人に話すのは卑怯な気がする」
「そうなの?」
「うん」
苺のことは小さなころからずっと知っているし、本当の妹のように可愛いと思っている。一見、冷めたふりをしているけれど、彼女はとんでもなく兄に固執している。手に取るようにそれがわかるのだ。だからこれはきっと、彼女にとって許しがたい話であるのだと。
今日の夜も、苺は樹の家に泊まりに行っているのだろうと思うと、彼女にこのことを告げる方がよっぽどハードルが高い。少しだけ鈴音は憂鬱になった。
人生で一番幸せな時で、友達と楽しい食事のはずなのに。
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