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第51話
その日、珍しく愛菜は上機嫌だった。
二人で行く今夜のお店は、彼女の方から誘ってきた。
愛菜の入局前に、二人で居酒屋に行ったあの時のように、彼女は久しぶりににこにこと笑い、お酒も料理も口にした。
「明穂のさ、今日のあれはウケた。好きな人が欲しい発言」
頬の赤味がぶり返す。
「もう! それを言わないでよ!」
「で、明穂は誰が好きなの?」
「だから、そんな人が欲しいって、言ってるだけじゃない」
「またまた、同じ部署の横山さんと、市山くんは?」
「そんなんじゃないって!」
「あ、分かった、長島副局長だ」
「もう、やめてよー」
今日の愛菜は、少し飲み過ぎだ。
私の体にぴったりと自分の体を寄せ、彼女の腕が私の背中を回り肩にのっている。
「明穂って、本当にかわいいよね」
愛菜の息がささやいた。
耳元でそんなことを言われると、女の子同士でも、くすぐったい。
「ねぇ、今夜は、これから私のうちで、飲み直さない?」
「えー、いいよぉ、やめとく」
「どうして?」
「明日は午前中にハイジアのジムに行くことになってるから、飲み過ぎで行ったら、確実に怒られる」
愛菜の手が、するりと肩から落ちた。
「そ、じゃあ、早く帰らないとね」
さっきまでべたべたと触りすぎなくらい、私に密着して甘えていた愛菜のスイッチが、一瞬にして切り替わる。
その変化のタイミングがいつも私には不可解で、混乱させられる。
「明穂は、私の友達だよね」
ふいに愛菜は言った。
「ずっと、友達でいてくれる?」
「うん、もちろんだよ!」
「そ、よかった」
白くて細い、柔らかな彼女の指先が私の頬に触れ、彼女の唇が、私の唇に触れた。
「帰ろっか」
「……うん」
胸の鼓動が、心拍の上限値を超えている。
彼女の触れた唇だけが、自分の体から離れていったみたい。
愛菜は、グラスに残ったお酒を飲み干して立ち上がる。
今のコレは、なに?
私は先に出た彼女の背中を追いかけた。
店の外に出た愛菜は、上機嫌で手を振って、さっさと車に乗り込み帰ってしまった。
その別れ際の愛菜の微笑みが、どうしても頭から離れなくて、その夜は何をしても眠れなくて、結局は翌日のハイジアも行かずにキャンセルして、仕事には遅刻した。
どうして愛菜はあんなことをしたのだろう。
気になって気になって、こっそりと愛菜のPPをのぞき見る。
愛菜のPPは1428、入局して初めてと言っていいほどの、落ち込みようだ。
職場での愛菜は、いつもと変わらずごくごく普通で、相変わらず横田さんと芹奈さんの保護者二人に囲まれていて、楽しそうに仕事をしている。
私の頭の中だけが、混乱したままだ。
「大丈夫、ですか?」
市山くんの声に、さくらと七海ちゃんも顔を上げる。
「う、うん、平気」
「なにか困ったことがあったら、いつでも言って下さいね」
「そうよ明穂、なんでも言ってちょうだい」
「明穂さん、私でもよければ、相談にのりますから」
ありがとうと言って、とりあえず仕事をしているフリをしてみるけど、こんなことを、誰に相談していいのかも分からない。
そもそも他人に相談していいような、そんな内容なんだろうか。
いつにもまして上機嫌な愛菜と正比例するように、にこやかな横田さんと芹奈さんの姿が気にかかる。
指先で触れる、自分の唇には、まだ愛菜の柔らかい感触が残っていた。
「明穂、お昼食べに行こう」
彼女のその言葉は、私を縛り付ける見えない呪文のようだ。
「うん、行こうか」
今日は、人の多い混雑した社食に軟禁された。
リアルな夏の日差しが、窓の外から突き刺さる。
いつもなら人混みを避けて、二人だけのランチなのに、どういう風の吹き回しだろう。
小声で話す愛菜の言葉が、雑音に紛れて聞き取りにくい。
「あの局長って、ちょっと頭おかしくない? 普段、なにやってんのよ、あの能なしおやじ」
「局長のこと?」
「あの幽霊も、確実に私を避けてるわね、そのことに、気づかなかった私もバカだった」
「なにかあったの?」
「じゃあなに? あの二人はずっと私の監視役だったってこと? いつから? 最初から? それはありえないわよね、さすがに」
今日の彼女は、よくしゃべるし、よく食べる。
「私だからいいんじゃない、私だからこそ、意味があるのよ。私じゃなきゃダメなんだって、どうして分からないのかしら」
ふいに、彼女の箸が止まった。
「私は、あんたとは違うんだから」
まっすぐに、私と視線を合わせる彼女の目は、明らかに何かに対して怒っているんだけど、それが何に対して腹を立てているのかが分からない。
「それがようやく分かったから、ここに採用されたんでしょ、だから、私を連れてきたんじゃない、それを選択したのは、あいつ自身だってのに、どうしてそれを認めようとしないのよ」
「ねぇ、愛菜、さっきから何を言っているの、さっぱり分からないから、教えてくれない?」
それには答えず、彼女は一人で何かを考えながら、機械的に食べ物を口に運んでいる。
「私はあなたの友達なんでしょ? 違うの」
私の言葉に、もう一度彼女の箸が止まった。
「そうね、そうだったわね、私たちは、いいお友達だった」
彼女の目尻が下がって、その口角の両端は、異常に持ちあげられた。
「トモダチ、だったわね」
変な笑い方。彼女は残りの弁当をぱぱっと自分の口に放り込むと、立ち上がった。
「じゃ、お先に」
混雑気味の社食で、ようやく私の食事が運ばれてきた時には、もうすでに、彼女の姿は目の前になかった。
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