花の絵のある店

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 美人の女将さん目当てに通っている小料理屋には、毎日違う花の絵が飾られていた。  どうして毎日絵を変えるのか女将さんに聞いたら、花が好きだけれど生花は若干アレルギーの気があるようだから、あえて絵を飾っている。でも、毎日違う花を楽しみたいから、生花を活ける時のように、絵だけれど毎日変えている、とのことだった。  美人女将と花の絵。どらちも実に美しくこの店を彩る。  その雰囲気に、飲む酒以上に酔って、女将さんを口説くとかそういう意味はなく、ただ居心地がいいからと店に通っていたけれど、ある日俺は、とんでもない光景を目にしてしまった。  その日はいつもより酔いが回って、うっかりと、店にスマホを置き忘れてしまった。  最寄り駅に着く頃気づき、慌てて戻ったら、店の暖簾はもう降ろされていた。  とはいえ、中にはまだぼんやりと明かりが灯っているから、女将さんが片づけをしているのだろう。  今から一杯飲ませてくれという訳じゃない。忘れ物を取りに来ただけだ。  そんな考えで、俺は暖簾の降ろされた店の戸をそっと開けた。  明かりが灯っているのは調理場だけのようで、薄暗い店内はいつもとずいぶん雰囲気が違っていた。そして、一人ぽつんと店に立つ女将さんも、いつもとはまるで違う印象だった。  服や髪形は開店時と同じなのに、面立ちがとんでもなく老けている。  十…いや、二十はいつもより年を食っているとしか思えないその顔立ちに、声をかけることもできず戸口に立ち尽くしていると、俺に気づく様子もなく、女将さんはかけられていた花の絵の側へ寄った。  その歩き方や動作も、同じ服や髪形の、うんと年上の別の人ではないかと疑う程、女将さんの動きは重くたどたどしかった。  ゆっとくり絵の前まで進み、遠目でも判る程皴の浮いた手で絵を触る。  その様子をしばらく眺めていたら、奇妙なことが起こり始めた。  あんなに皴っぽかった女将さんの手が張りを取り戻したのだ。  絵から離れる際の動きが先刻とは段違いに速い。見えた横顔はいつも通りの美しさで、先刻見た姿は幻影ではないのかと疑う程だ。  薄暗い店内で、一日働き、疲れ切った様子の女将さんを見た。だから年老いて見えたのかもしれない。  そう信じようと思った俺の目に、ふと、壁にかけられた絵が映った。  店にいた時見た絵は、大輪の薔薇が何本も咲き誇っている絵だったのに、絵の中の薔薇が総て枯れている。  いつの間にあんな絵にかけ替えたんだ? 一瞬そう思ったが、女将さんが触るまで、あの絵は確かに大輪の薔薇が咲き誇る絵だった。  かけ替えた訳じゃない。だとしたら、どうして絵の薔薇が枯れるなんてことが起こったんだ?  考えれば考える程、俺の中の答えはたった一つに固まっていく。  女将さんが触ったから枯れた。それ以外考えられない。  もちろんそう考えるだけの理由はある。それは当然、絵を触る前と後でこれでもかとばかりに変化した女将さんの動作や姿だ。  絵の花の生気を吸って若返った。ありえないと思いながらも、この目であの場面を見た以上、そうとしか考えられない。  今は厨房に立ち、後片づけをきびきびとこなす女将さんに声をかけられず、俺はスマホを諦めてそっと帰路に着いた。  そんなことがあった翌日からも、この店には通っているけれど、最近は頻度が落ちたなと自分で判る。  三十代半ばで通い出した店だけれど、五十に手が届こうという年になると、昔と同じペースでは酒が飲めず、必然、店に通う頻度が落ちるのだ。  そんな話をする俺に、今日も女将さんは笑いかけてくれる。十年以上変わることのないその美しい面立ちで。  美人女将との会話と上手い料理、店の雰囲気の良さで長く通い続けている小料理屋。女将さんを口説こうなんてかけらも思わない。  …正直に白状すれば、昔は多少あわよくばと思うこともあったけれど、遠いあの日以降、そんな気は綺麗さっぱり失せた。  以前は毎日だったが、今はせいぜい週に一、二回通うこの店で、数時間、楽しい時間が過ごせれば俺はそれでいい。だから、あの日見た光景を口外する気はないよ。  今日も店は、俺と同じような理由で通っているだろう客で賑わい、皆が女将さんの笑顔に癒されている。そして、綺麗な綺麗な女将さんのその店には、一度たりと同じ物だったことのない、綺麗な花の絵が飾られている。 花の絵のある店…完
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