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少女の名は、お蝶と云った。
可愛らしく産まれた赤子は、美しい少女に育った。幼少のころから周りから褒めそやされて育った少女は、自身の美しさを十二分に理解していた。
大きな目も、紅い唇も、細い首も、真っ黒で真っ直ぐな髪も、全てが誰よりも美しく整っている。子どもも畑仕事をしなければ生活が成り立っていかない百姓の家に産まれなかったことも幸いした。細く長い指も一度も荒れたこともなければ、白い肌が焼けたこともない。裕福な米問屋の娘に産まれて幸運だった。
江戸一番の小町娘と呼ばれるようになり、望むものは全て手にすることが出来た。自分の声を聴くために、綺麗な反物を貢いでくれる。自分の微笑みを得るために、高価な化粧道具を貢いでくれる。他にも、城の高貴な方々しか食べられないような高級茶菓子を貢いでくれたり、お蝶本人だけでなく、両親にも茶菓子を詰めた重箱の下に小判を敷き詰めて貢いでくる。
自分が存在しているだけで、周りが持て囃してくれる。こんなに生きやすいことはない。
何かが欲しいと思えば、少しそれを見つめるだけで手に入った。気に入らない娘がいれば、悪い噂を流したり、取り巻きの男たちを使って江戸に居られないようにした。けれど、お蝶がそれと指示したわけではない。お蝶の意図を読み取った男たちがお蝶のために勝手にやっていることだ。意のままに展開していく現実に高笑いが止まらない。
生きていくことが簡単で、楽しくて仕方がない。
* * *
そんな幸せな娘時代を過ごしていても、意のままにならないのは結婚。結婚は家同士の結び付き。娘の結婚は親が決める。こればかりはお蝶も折れるしかなかった。
輿入れした相手は、同じ米問屋の中でも格上の問屋だった。経済的には問題ない。実家よりも裕福だ。そして夫となった男は、お蝶の美貌を歯牙にもかけなかった。関心があることといえば商売を発展させることだけ。
お蝶は不満だった。
自分を妻としたくせに、一向に自分の気を引こうともしない。今までの男たちのように自分の寵を求めて右往左往しない。妻として自分を手に入れたために安心しているのか。
話すことといえば、仕事のことだけ。夫は今年の米の出来がどうの、年貢がどうの、関税がどうの、収支がどうの、と話してくるが、そんなものお蝶にはさっぱり興味がない。夫なりに気を遣ってお蝶に話し掛けてきているのかもしれないが、それだったらもっと自分に相応しい話題にするべきだ。
気持ちを隠すことなくそう伝えると──お蝶は今まで自分の気持ちを抑えることなどしなかった──夫は話し掛けてこなくなった。つまらない男。かといって放っておかれるのも腹立たしい。娘時代には入れ替り立ち替わり男たちがお蝶を楽しませようと連勤していたが、結婚した今となっては誰も居ない。仕方なしに店先に顔を出してやれば夫は嫌そうな顔をする。照れ隠しに違いない。自分の訪れを嫌がる男などいなかったのだから。
実家でも見なかった計りや面白そうな道具が珍しくてあちこち触って見ていると、夫から鋭く叱責された。その後ろでは舅と姑も苦い顔をして立っている。店の外を掃き掃除していた小間使いの小娘も、客として来ていた年寄りも。みんながお蝶を眉根を寄せて見ている。
商売の邪魔をするな、と夫は怒鳴った。
カッとなる。邪魔とはなんだ。妻である自分を蔑ろにしているのはどちらだ。自分を構いもせずに商売ばかりしている無能め。何も考えることなく気持ちのままに言い返した。事実だ。
その夜、夫はお蝶の部屋にきた。夕食も夫たちとは別にされ、不貞腐れて早々に寝てしまおうかと思っていたところだ。お蝶は嬉しくなった。昼間言ったことが夫に響いたのだ。美しい妻を蔑ろにして、淋しい思いをさせていたことを反省したのだ。だったら妻として夫を優しく受け入れてあげよう。
そう思って夫の身体に抱き着いた。今夜こそ、きっと本当の夫婦になれる。
けれど、夫の後ろにまた人影を見た。舅と姑、そして掃き掃除をしていた小間使いの小娘。なぜここに? そして夫は驚くべきことを告げた。
お蝶とは離縁し、小間使いの小娘を妻とする。
有り得ない。どうしてそんな馬鹿なことを。息子が馬鹿なことを言っているのに、舅も姑も注意しようともしない。有り得ない。有り得ない。有り得ない。
──気が付くと、狭い部屋に押し込まれていた。
綺麗な着物はみずぼらしい着物に成り果て、広い部屋は小間使いに奪われた。こんな現実は有り得ない。いつだって望むままに生きてきた。これからもそのはず。
広い婚家の中にこんな部屋があったのかお蝶は知らなかった。自分に必要な部屋しか知る気もなかった。だから自分が居る部屋が座敷牢と呼ばれる部屋であるとは判らなかった。
四方どこにも襖がなく、調度品も何もない。嫁いできた時の自慢の嫁入り道具も何ひとつない。奪われた。盗られた──あの小間使いに。
お蝶の細い身体のどこにこんな力があったのかと思うほどの力が出た。出入口のない壁をひび割れるほど殴りつける。蹴りあげる。滅茶苦茶に叫んだ。暴れた。こんなに我を忘れたのは産まれて初めてのことだった。
髪を振り乱し、喚き続けるお蝶の頭上から声が降ってきた。見上げると、畳半畳分がくり貫かれ、そこから夫が覗き込んでいる。出入りが天井では到底手が届かない。
夫は冷たく離縁を宣言してきた。お蝶は納得出来ない。当然だ。妻を蔑ろにしてきた夫が悪いのに、なぜ離縁されなければならない。自分の夫となれたというのに、なぜこの男は自分を喜ばせようとしないのか。
夫からの返答は、気が触れたお蝶を離縁するわけにはいかず、不承不承この屋敷に留め置いておくことにした、というものだった。外聞的には妻は病死したものとして、後妻としてあの小間使いを妻として迎えたという。
喚き続けるお蝶をそのままに、天井の扉は無情にも閉じられた。
お蝶が縋るものは、何もなかった。いつも綺麗に着飾っていた髪も、脂と埃で汚れ、いつも上質な友禅を着ていたのに、手触りの悪い粗末な材質に成り果てた。
欠片も信仰していなかった神に縋るしかなかった。適当な方角を向き、手を合わせる。祈りの仕方など知らない。穏やかな信仰などしてこなかった。なので、適当な方角に祈りを捧げる。
運が悪かったのは、その方角が鬼門だったこと。忌むべき艮の方角。鬼が出入りする、地獄に繋がる禍々しい箇所。お蝶が縋った方角は、そんなところだった。
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