鬼の哭愛 ─鬼ノナキアイ─

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 ここから出して。  女神が何か呟いている。  ここから出して。もっと私を大切にして。  女神が何か必死に祈りを捧げている。  盗まれた私のものを取り返して。全部全部、私のもの。男も、妻の座も、綺麗な(かんざし)も綺麗な反物も。腹一杯に食べられる米も、珍しい高級菓子も。欲しいものは全部手に入れてきた。欲しいと言わなくてもみんな男たちがすぐ用意してくれた。  察しない夫が悪い。私が妻になってあげたのに。江戸一番の小町娘を嫁に迎えられて嬉しくないはずがない。あんなみずぼらしい小間使いなど、この大きな米問屋の嫁に相応しくない。きっと汚い手を使って夫に取り入ったに違いない。あの小娘を排除しなければ。  何をそんなに必死に祈っているのだろう。あんなに美しい顔を歪ませて、何を考えているのだろう。家内安全だろうか。良縁成就だろうか。美しい女神は、きっと自己の願いより世の中のためのことを祈っているに違いない。何て心優しい女神だろう。  憎い憎い憎い。私をこんなところに追いやった全ての人間が。私の意を汲むことさえ出来ない役立たずども。  あぁ、あんなに必死になっている。叶えてやりたい。女神が願うことなら何でも叶えてやりたい。神だというのなら出来るはず。  憎い憎い憎い。こんなに私が祈っているのに、この世には神も仏もいない。いるのは役立たずの人間。悪鬼のような人間だけだ。  神ならば叶えてやれる。神ではないなら自分は何だ。  神も仏もいないなら、何でもいい。私の願いを叶えてくれるなら鬼でも悪鬼でも構わない。  叶えてやりたい。叶えてやりたい。もどかしい。この手に入ればいいのに。そうしたら全て女神の望む通りにしてやるのに。  誰か誰か誰か。誰か私をここから連れ出して。誰かあのみずぼらしい小間使いを殺して。  手に入れたい。この手に入れたら女神の望みを全て叶えて、全てを自分だけのものにする。爪のひと欠片も、髪の毛一本まで全て──  全て全て────全て、()()()()()()()。  頭から貪り喰って、温かい血を啜って、臓腑を()んで……あの美しい(かんばせ)を眺めながら。女神なら、赦してくれるだろうか。あの慈悲深い顔で、赦しを呟いてくれるだろうか。  女神の血は甘いだろう。細く白い四肢はまろやかな弾力があるだろう。姿を見るだけで良かったのに、今では女神を喰いたくて堪らない。喰ってひとつになる。女神を取り込んで、永遠にひとつになる。  手を伸ばせば届きそうだ。腕を伸ばしてみたら、先が消えた。指先に違う空気を感じる。もしかして、女神のいる処に繋がっている? 神だからこそ成せる技か? 何でもいい。女神の元へ行けるのならば。耳をつんざく女の悲鳴が聞こえる。  この鬼は何。どこから来たの。神も仏もいないなら悪鬼でも構わないと言ったけど、そんなの本心なわけがない。神仏に願っていたはずなのに、どうしてこんな鬼が来たの。  女神よ。何をそんなに必死に祈っていた。さぁ、願いを言え。叶えてやる。願いを言えなどとまだるっこしい。頭から何も残さず喰らってしまえばひとつになれる。そうすれば女神が願っていることなどすぐに解る?  あぁ、そのための爪だったか。そのための牙だったのか。  一歩近付くたびに女神の悲鳴のような高い声が聞こえる。何て綺麗な声だろう。気配を感じるだけで、姿を見るだけでいいと満足していたことが嘘のように、全てを自分のものにしてしまいたい。衝動に駆られる。甘美な衝動は抑えられない。抑えないといけない理由はない。  女神は神に祈りを捧げていた。世の中のために違いない。だったらその神に取り込まれひとつになることは本望のはず。  恐ろしい鬼が恐ろしい形相で迫ってくる。どうして私がこんな目に遭うの? 私はもっと幸せになりたいだけなのに。私は私の権利を主張しただけなのに。  釘のような太くて鋭い爪が私の肌に喰い込む。私の白い肌に赤い傷が走る。痛みを感じる前に喉元に熱い衝撃を受けた。声が出せなくなる。息も出来なくなった。私はここで死ぬの? こんな恐ろしい鬼に殺されるの?  女神よ。これでひとつになれる。喉を潰してしまったのは失敗だった。女神の麗しい声が早々に聞けなくなってしまった。美しい顔を傷付けては可哀想だ。顔は最後にひと呑みにしてやろう。  血の一滴も、髪の毛一本さえも無駄にするものか。
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