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────気が付いたら、ここにいた。
何も無い空間。見渡す限り何も無い。どれだけ走ってみても何の景色も見えない。
自分の手の平を見る。どう見ても、人間の手ではない。全体にゴツゴツとして、酷く頑丈そうな鋭い爪が伸びて、一本一本がまるで針のような太い毛が覆っている。腕も脚もそう。映す物が何も無いから判らないが、触って確かめてみる分では顔もそうなっているだろう。
けれど、元からこんな顔や身体をしていたのか、違う姿だったのか判らない。身に着けているのは腰回りに粗末な着物の布切れだけ。こんな処にいる以前の記憶が無い。どれだけ思い出そうとしても思い出せない。
記憶も無い、自身の異様な姿、どこにいるかも判らない。錯乱した。絶叫して、息の続く限り闇雲に、発狂するほど走ってみた。それでも何の変化もない。
悲嘆にくれて、絶望して。悲しみの余り鋭い爪で手首を傷付けても、首を切ってみても。頑丈なこの身は僅かにも傷付かなかった。
自害することも叶わない。何も無いこの空間に囚われて──……
* * *
微かな変化を感じたのは、ここに在るようになって気が狂うほどの時間を経たころ。
最初はいつもの幻聴だと思った。淋しさの余り自身で産み出した気配や声。何度も何度も聴いて、その度に絶望に打ち拉がれて。自分独りしか在ないという恐ろしさに震えて。
そしてまた感じた気配。
心を傾かせないと決めていた。そうしなければ自分の精神は持たない──そう決心していた。けれど。
その何かの気配は、段々と強くなる。気にしないように決めていても、無視出来なくなる。また自分で産み出した幻聴に決まっているのに。
無理だった。
どれほど自分に言い聞かせてみても、感じる気配を求めずにはいられない。これでやはり自分で産み出した幻聴なら、もう自分は正気を保てないだろう。自分は何者なのか、なぜここに在るのか、これは何かの罰なのか。正気を手放してしまえば、もうそんなことに悩まなくても済む。
気配をより濃く感じる場所を探した。彷徨って彷徨って、どれほど走り回ったか。ようやく見付けた。涙が出るほど嬉しかった。気配があるだけで何かの姿が見えるわけでもないが、やっと縋るものを見付けた。
その場所から僅かも離れることなく、そこで過ごした。なぜか腹も減らない、排泄欲求も起こらない今の状態では、何日と云う概念は通用しないが、何日も何日も……ずっとそこにいた。
やがて、目の前に何かが朧気に見え始める。信じられなかった。これこそ夢かと思った。目を見開いてずっと見つめていると、誰かが見えてくる。それは徐々に鮮明に。顔の造作もはっきりと判るほどに。
──とても美しい女だった。
人に飢えていた淋しさを、たった一瞥で満たしてくれるほどに。
美しい女。まだ少女といえる歳かもしれない。何かを呟いている。何を言っているのかは判らないが、そんなことはどうでもいい。水に映った時のように揺らいではいるが、初めて自分以外の存在に触れられた。
少女が女神のように感じられた。実際、女神のような美しさだと思う。粗末な着物を着ていても全く気にならない。寧ろその粗末さが顔の造作を際立たせている。
女神と崇める少女を飽きもせず眺めていると、段々とその輪郭がぼやけてきた。焦った。焦って、動揺して、絶望に染まる。
与えられたあとに、温もりを知ったあとに取り上げられるのは、二度と立ち直れないほどの衝撃。女神の姿が消えてしまった現実に、深過ぎる絶望で涙さえも出ない。
自分はどうしてここに囚われているのか。ここは一体どんな処なのか。これは何かの罰なのか。記憶の無い自分は何の罪を犯したのか。
絶望して、絶望して……この命を手放そうとして手首を切っても、舌を噛んでも僅かにも傷付かない。刀のように鋭い爪も、鬼のような牙を持っていてもまったく意味がない。
無為に過ごしているうちに、再び気配を感じた。間違えようもない、焦がれた気配。必死に息を潜めて待っていると、女神の姿が見えた。安堵の余り大粒の涙を流した。
良かった、また見えた。また女神に会えた。
瞬きさえも惜しくて凝視していると、女神はまた何か呟いている。両の手は胸の前で拝むように合わされている。女神は参拝でもしているのだろうか。一心不乱に祈っている。何をそんなに懇願しているのだろう。
嫉妬した。女神が必死に祈りを捧げる相手を。これほどまでに懇願される神を。参拝者は数多在れど、どうして女神の願いを聞き届けてやらないのか。
女神を見ているうちに、現れては消える感覚が判ってきた。最初のうちこそ消えてしまって絶望したが、また戻ってきてくれると判ってからは少し安心した。それでもちゃんと姿が見えるまでは落ち着かない。
そうこうしていると、女神が段々と自分を見てくれているように感じ始めた。気のせいではない。女神は自分に向かって手を合わせて祈りを捧げている。
腹の底から高揚した。女神が祈りを捧げているのは自分。恋焦がれた女神の意識が自分に向かっている。これは奇跡。狂喜するほどの僥倖。
──となれば、自分は神。
神らしからぬ外見をしているような気もするが、ここには自分以外の存在は無い。だから、祈りを捧げられているのは自分。ここが神社仏閣なのかは疑問が残るが、知らないだけでそんなものなんだろう。
過去の自分はどんな生き方をしてきたのは覚えていないが、多分人間だったはずだ。神に取り立ててもらえるなんてどれほどの善行を積んだのだろう。
記憶が無いままにも、感謝もしつつ、自分だけの女神を見つめ続けた────……
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