【Coda】

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【Coda】

それは相馬家の晴れやかな舞台。 自宅の大広間で行われた招宴。数百の観客を前に置かれた、真っ白く輝いたグランドピアノ。 鼓に手を引かれ、奏はその舞台へと上がる。 一礼をし、ピアノの前に座れば、豪邸内に響き渡るような大きな拍手、歓声が奏の耳に谺する。 弾く曲は、定番だが難易度が高い“エリーゼのために”だと、 柾は高級ワインを片手に部下や仕事仲間に自慢していた。 鼓が指揮棒を高々と振り上げる。静まり返った室内。 真剣な琥珀色の視線は、鍵盤に落とされた。緊張が走る。 そうして、緩やかに振り下ろされた指揮棒。 辿々しさをなくした旋律は、正に心を吸い込むような美しき音色。観客が皆、音に酔いしれるように聴き入っている。 それを堪能し、柾と鼓は確信した。この子に失敗はない、と。 そんな中、またも物陰に隠れ、その様子を歯痒そうに見つめる律がいた。あんな表舞台で、堂々としている兄が羨ましい。 失敗すればいいのに。称賛なんかより、罵声を浴びればいいのに。だが、それは叶わない。 聴きたくなくとも、いつも聴いていたこの曲。 目を覚ましてから遊び終わるまで、延々と流れてくるピアノの音。日が暮れて尚、続いてる日もあった。 相当な練習量。心とは裏腹に、失敗なんて有り得ないと律自身も確信していた。 だが。そんな零に近い可能性を叶えるようにボロン、ボローン……と。明らかに音が外れた。 それをキッカケに、素人の耳でも解る程のミスが露呈されていく。鼓と柾の顔が一瞬にして砕け、歪む。指揮が乱れる。 観客もまた騒つき始め、戸惑いを隠せずにいた。 けれど、ひとり。当の奏は顔色を全く変える事なく、真剣なまま。冷や汗かかずに、鍵盤をしなやかに叩く。 幼きながらに染み付いた、毅然とした態度。しかし内心はミスを取り返そうとしてるのか、リズムは緩やかに崩れ、美しき音色が闇に埋もれていく。 鼓の顔が引き吊る。柾の顔が怒りに満ちていく。 幼児退行するように、辿々しさを帯びていく旋律。それはまるで、崩壊音のようだった。 何て心地が良い旋律なのだろう。律は、ほくそ笑んだ。 兄の大失態。音が狂ったエリーゼのために。弾き終わるまでそれは続き、最後には父親が嫌悪の眼差しで奏を睨みつける。 鼓は観客に『緊張していたのかしらね、』なんて、弁解しつつ奏を胸にしまう。その顔は焦りに満ちていた。 いい気味だ。とてもいい気味だ。純粋とは言えない笑顔が咲き誇る。奴の後先を考えたら、にやけ顔が止まらない。 本当は腹を抱えて、笑ってやりたいのに。 それは叶わないからーー嫌味を吐くようにエリーゼのためにを口笛で吹き、律はその場を後にした。 *************
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