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──私の名は、槇村柚宇。私の耳は音が聴こえない。高校に入学する直前、事故で聴覚を喪失していた。
その日から、私の世界から一切の音は消え去り、この眼球で映すものだけが残った。
親しかった紫をはじめ、皆の言葉はわからない。喉を震わせて、唇を動かして、何を語らうのか。
私が唯一理解できる言葉は、文字という形だけであった。文字だけが、私の理解できる唯一のこころだった。
だからこそ、皆に言葉ではなく文字を使って話させてもらい、それに感謝する反面、申し訳ない気持ちもまた胸の奥に突き刺さっていた。
そして、もうひとつ。音のする世界と一緒に、あの日失ったものがある。それが、もう一人の私を名乗る、彼だった。
いつから一緒にいたのか、そんなことを覚えていないくらい前から、私と彼は一緒にいた。
彼のことは誰も知らない。両親はおろか、紫でさえも。誰にも看取られることなく、この世界から消えてしまった。
その痛みは骨が砕け、鉄の塊に身体を押し潰される痛みをも上回る、身体を内側から引き裂くような、何者にも耐え難いものだった。
誰にも理解はされず同情もできない、私だけが覚える痛み。身体の見えない、けれど重要な部位が、ごっそりと抉り取られたような喪失感が、私の脳髄を侵食していった。
…そして、私はその記憶を無意識の内に封印した。あれは妄想だ。寂しさが産んだ幻だと、自分に嘘を吐いた。
欠けた部分から漏れ出す痛みに耐えられなくなった、私の弱さが彼を完全に殺したのだ。
「あ…あァアああああアあああ──!」
──膝から崩れ落ち、淀みきった呻吟が響き渡る。後悔、自己嫌悪、罪悪感…黒色の感情をミキサーに掛けて全部吐き出されていく。
長い時間を掛けて涙も鼻水も、この身体に蓄積した膿と共に掻き出し終えると、くしゃくしゃになった顔で、再び立ち上がる。
何故今になって目覚め、そして手紙なんていう煩雑なことを始めたのか。それを知らなくてはいけない。
私はあの日以来、ただの一度も開くことはなかった、全ての思い出をしまい込んでいた押し入れに指を掛ける。
私はその寸前、この戸を開けることを迷うだろうか、と思っていた。けれど、この手はあまりにもあっけなく戸を開帳した。
すると、風に煽られたか、ひらひらと羽のように白い何かが足下に落ちる。それは、一通の手紙だった。
差出人は、見なくてもわかる。その字は、最初に見掛けた時とは別人だった。流麗で書いた本人の人柄を想起させる。
今ならわかる。彼が私の身体を使ったことは、ただの一度もなかった。だから、あのミミズがのたくったような字でしか書き示せなかったのだろう。
だからこそ、この僅かな時の成長に染み入るような喜びと共に、この先に待つであろうものを直視する。
──乱れきった呼吸を正常にする。その内容を、使われなくなって久しい喉を震わせて、一言一句を心身に刻み付ける。
「──柚宇へ。これを読んでいる、ということは、《MY》は誰かということに気が付いたのだろう。まずは、突然のことだったと謝らせてほしい。ごめんなさい。…何が原因だったのかはわからない。こうして再び目覚めて、君の身体で生を確かめられていたのは、言うなれば奇跡だった。その奇跡が続くまでに、どうしてもやらなくてはと思った。前と違って、柚宇と僕は遍在できない。だから、手紙なんて方法で君とやり取りをしていたんだ。…本題に入ろう。柚宇は、僕のことを忘れようと、自分自身に嘘を吐いた。その事を咎めようとは思わない。けれど、もう自分に嘘を吐くのだけはやめてほしい。他人が自分の痛みを理解できないからって、自分も殻を被って誤魔化さなくていい。その痛みを知っているからこそ、同じ痛みに苛まれている人を助けられる筈だ。君は、そんな強さと優しさを持っているから。僕はもうすぐいなくなる。けれど、君はこれから先も生きていく。遺言、というわけじゃないけれど。ひとつだけ言わせてくれ。──自分の心に、正直に、正しいと思ったふうに生きてほしい。…元気で、僕の、最高の友──《MY》」
──読み終えると、胸の奥で何かが、風が吹き抜けるように消えていくのがわかる。…本当に、《MY》がいってしまったのだ。
……さっき出し尽くした筈の、涙が再び決壊する。視界は水彩画のようにぼやけて、また雫に溺れそうになる。
──けれど、さっきと違うことがある。痛みは消えない。けれど、近くに感じている。いなくなっても、この身体の一番深いところに刻まれているのだ。
私は、自然と前を向いていた。この耳は何も聴こえないけれど、私の世界は変わった。不思議と、雨上がりのように光が差していた。
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