Episode1 泣きっ面に蜂

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Episode1 泣きっ面に蜂

 己を強くするため、鍛錬を怠らなかった。  長野県某所――西(にし)純貴(じゅんき)は山の中で一人、自分の背丈と同じ程の岩を持ち上げていた。  通常の神経を持っている皆は、こう思うだろう。「岩って持つ物じゃなくね?」と。  そう。彼の行動をいちいち理解しようとすると、それだけで頭にダメージが入ってしまい、まともに動かなくなる。やめるのが懸命だ。 「純貴、飯の時間じゃ。鹿取ってこい」 「おう」  彼の祖父、純一郎(じゅんいちろう)が山にこだまするような大声でそう指示した。  両親はいたが、二人とも純貴が幼い頃蒸発した。純貴も両親の記憶はほとんどなく、あまり本人も気にしていない。  純貴はナイフを一本腰に差すと、鹿を探すため歩き始めた。  身長187センチ、体重91キロ。恵まれた体格を持ち合わせ、たまたま出た砲丸投げで全国大会優勝、たまたま出た百メートル走でも全国大会優勝、たまたま出た走り幅跳びでも全国大会優勝するなど抜群の運動神経を携えている。既に陸上に限らず、数多のプロスポーツ界からスカウトを受けている男だったが、彼自身特に気にはしておらず、将来のことはよく考えていなかった。 「お、いたいた……」  純貴はその巨体を器用に縮めると、鹿の動向を伺った。少しでも音を立てれば逃げてしまう。  純貴はナイフをゆっくり抜くと、素早く投げた。鹿は何かに気づいたのかこちらを向き、ちょうど眉間に突き刺さって倒れた。即死である。 「よし」  純貴はナイフを抜くと、手を合わせ、血を抜き手際よく解体する。春から夏の時期の鹿は秋から冬までの鹿と比べ、柔らかくて美味い。  解体を終えて内蔵と身に分け、ビニール袋に入れる。一応純貴自身猟師の資格は持っている。それにここは祖父の山だ。狩猟なども自由だ。  山小屋に戻り鹿を祖父に渡す。祖父は慣れた手つきで料理を始めた。  純貴はポケットからナンバー4のハンドグリップを取り出すと、ギチギチと握り始めた。ちなみにナンバー4の強さは165キログラムである。  純貴はそのままトイレに行き、便器を開くと、汗で滑ってハンドグリップを便器に落としてしまった。 「む、拾って洗わなきゃな」  純貴が便器に手を入れた次の瞬間だった。何とトイレがいきなり流れ始め、謎の吸引力で自身も引っ張られているのである。 「うおおお!」  純貴も必死に耐える。しかし、努力虚しくトイレの中に吸い込まれていってしまった。 「純貴、飯じゃよ。純貴ー?」  祖父の声を、便器に流されながら聞いていた。
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