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帰ってくると姉はもうバイトに出ていて、家には誰もいなかった。秋桜はリヴィングに座り込んで電気も付けずにしばらく泣いていた。
母が亡くなった時、涙が枯れるまで泣いた。これより悲しいことはこの世に無いだろうと思った。もう涙を流すこともないだろうと。それなのに、自分の中にまだこんなにも涙が残っているなんて。
一頻り泣いた後、気持ちはなかなか切り替わらないが、冷水で顔を洗って区切りを付けた。家事を始めるのが一時間遅れてしまったが、さほど問題はない。いつも家事を終わらせたら学校の勉強をして父が帰ってくるのを待っている。その時間を使えば父が帰ってくる頃までには全部終わらせられるだろう。
案の定、八時頃に家事を終えて一休みしていたら、父が帰ってきた。二人で秋桜が作った晩御飯を食べて、秋桜から先に風呂へ入る。風呂から上がると基本的に自由だ。リヴィングで勉強の続きや読書をすることもあるし、父とテレビを見ることもある。今日に限ってはそういう気分になれず、秋桜は早々と自分の部屋に入った。
何をするでもなくベッドに倒れ込む。頭の中が真っ白だった。いや、本当はぐちゃぐちゃで、訳が分からなくなっていた。思考や感情に薄ぼんやりと靄がかかっていて何もはっきりしたことは考えられない。ただ無性に、音楽が聴きたかった。
秋桜は身体を起こして、机の引き出しを開ける。ポータブル音楽プレイヤーを取り出してベッドに戻った。耳に差し込むタイプのイヤホンを付けて曲を再生する。秋桜は膝を抱え、その間に顔をうずめた。
九時半過ぎに姉も帰ってきた。イヤホン越しに姉と父が話す声が聞こえる。姉は今日も機嫌良さそうに何か喋っていた。
記憶があるのはそこまでで、はっと顔を上げた時には十時を回っていた。いつの間にか寝てしまっていたらしい。
「秋桜、起きてる?」
ドアの向こうから姉の声がした。ジャージ姿の姉が部屋に入ってくる。風呂から出たばかりのようで、髪が濡れていた。
「これ」
辞書のような分厚い箱の入った袋を渡してくる。突然何だろうと思い、目を丸くしながら受け取った。思ったより軽い袋の中を覗きこむ。
「あ……」
ヘッドホンだった。それも頭に付けて耳を被うタイプのもの。なんで、と思って姉を見た。姉は肩にかけていたタオルで顔を半分隠すように髪を拭く仕草をする。
「秋桜の誕生日、うやむやになっちゃったでしょ。……お母さんがさ、あれじゃ秋桜の耳が悪くなるから次はこれにしようって言ってたんだよね」
明るさが取り柄の姉も、これ以上は無理だった。気丈に振る舞ってはいるが、秋桜と目を合わせようとしない。話はそれだけで充分通じた。
秋桜の誕生日は、納骨日の前日だった。最初から今年はないと思っていたし、あってもとても喜ぶ気にはなれないから全然気に留めていなかったのだが、まさか母と姉があの大変な時に自分のことを考えてくれていたとは……。
驚きと涙が込み上げてくる。秋桜は唇を噛んであと一歩のところで堪えた。
「誕生日、おめでと」
「……ありがと。ありがと、若葉お姉ちゃん」
「ん。じゃ、おやすみ」
姉は結局入ってきた時に一度目を合わせたきりで部屋を出ていった。明日の朝、今日と変わらず振る舞うためにも泣き顔は見せ合ったりしない。
ドアが閉まり、再び一人になる。秋桜はもらったヘッドホンを箱ごとぎゅっと胸に抱え、ベッドに横になった。壊さないように優しく、けれどぴったりと身体に引き寄せる。
眠くはなかった。ただ堰を切ったように涙が溢れ出す。
やがて秋桜は何かに引っ張られるように眠りに落ちていった。何かを辿るように。捜すように。
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