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冬至はもう少し先だが放課後の掃除をして友達とちょっと話していただけで、帰り道はすっかり夕焼け空だ。
――結局、今日は現れなかったな……。
秋桜は一人、河川敷の遊歩道を歩いていた。この時期、この時間帯は河川の水面に夕焼け空が映り込んで、辺りをオレンジ色に染める。この町で見られる、数少ない綺麗な景色の一つだ。
眉を寄せて歩いている秋桜の前を、不意に桜の花弁がよぎった。
立ち止まって顔を上げる。その先には桜花がいた。土手の途中に腰を下ろしている。そばに相方の姿はない。
夕日のせいだろうか、まるで桜花が本当にいるようでいない曖昧な存在のように見えた。桜花はこちらに気付いた様子はなく、ひとえに河川を眺めている。こんなところで何をしているのだろうか。秋桜が声をかけようか悩んでいると、やがて桜花は口を開いた。
そして静かに、歌い出した。
古井戸の水底のように静謐な調べが奏でられる。
秋桜は呼吸も忘れて歌に耳を傾けた。その歌声は彼女の佇まいからも感じたように切なく、儚く、透き通っている。存在の曖昧さを危うく思うほどにどこまでも透明で、それ故に神秘的な魅力を持つ桜花という女性を、秋桜はこの時初めて知った。
歌が終わる。口を結ぶと同時に桜花が、こちらの長い影に気付いた。秋桜を見つけて、彼女は変わらずいつものように微笑む。
「おはよう」
「……。もう夕方ですけど」
「あら、学校だとお昼でも『おはよう』って言ってるわよね。あれって、今日初めて会う時はみんな『おはよう』なんでしょう?」
実際、その通りで言い返す言葉がなく、秋桜は口をつぐむ。黙ったまま桜花のそばへ歩いていき、隣に腰を下ろした。彼女もまた何も言わない。てっきり茶化されるかと思ったが、やはり桜花でも一人の時は静かなのだろうか。
「……歌、好きなんですか?」
「好きよ」
桜花が即答する。秋桜は僅かに表情を曇らせた。
「あなたは好き? 歌うこと」
「私は、……」
答えようと思った。が、言葉が続かない。秋桜はまた黙り込んだ。その沈黙を埋めるようにせせらぎの音が聞こえてくる。しばらくして桜花が、ふっと笑った。
「羨ましいなぁ」
「な、何が、ですか」
秋桜はあからさまに怪訝な顔をするが、彼女は平然と受け流して嬉しそうに続けた。
「だって。歌うことを、あなたはこんなにも真剣に考えているんだもの。私なんて一興をたしなむ程度にしか思ってないわ。だからすぐに答えられる」
「暇潰しに、歌うってことですか」
「そう」
自分は今、どんな顔をしているのだろう。何故か少し悲しくなった。
「あ、でも、やっぱりそれだけじゃないかな」
「他にどんな理由で?」
今度は彼女が黙った。
「信じたいから、かな」
ぽつりと告げて、桜花は座ったまま腕を上に伸ばした。何を、とさらに問う気にはなれなかった。秋桜の思い違いかもしれないが、桜花の意識がもうこちらに向いていないような気がしたのだ。桜花は腕の力を抜いて息を吐くと、再び河川を眺めた。
「でもま、信じたいとか言ってる時点で信じてないのよね、きっと」
そう言う彼女は、相変わらず微笑んでいた。淡く。消えてしまいそうなほど、淡く。
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