3.

4/5
前へ
/24ページ
次へ
 あれからまた数日経った。彼らとの攻防戦は未だ続いている。  夕日が差し込む放課後の音楽室に人影はない。眠った音楽室は空模様と同じくゆったりと時間の流れの中を漂っている。やがて静寂を破るように、がらっとドアを開けたのは秋桜(あきな)だった。左手にCDを持っている。教室に入ると、後ろ手にドアを閉めた。 「ええと……。分かるところに置いとけばいいんだよね?」  窓側にCDラックを見つける。腰の高さ程度の低い棚だ。この上なら必ず目に入るだろう。秋桜(あきな)はその棚の上に、担任の先生から預かったCDを置いた。  すぐそばにはピアノがある。鍵盤の蓋が開いており、譜面台に楽譜が置かれていた。早く帰らないと暗くなる。そう思いながらも秋桜(あきな)の足はドアの方へとは進まなかった。秋桜(あきな)は教室を見回し、自分以外に誰もいないことを確認する。  静寂を意識すると、自分の息遣いすらはっきり耳に届く。どことなく息苦しい。心臓の音すら聞こえてきそうだ。  秋桜(あきな)はピアノの鍵盤の前に立った。譜面台の上に置かれているのは『COSMOS』の楽譜。そっと鍵盤に人差し指の平を押しあてる。大きくも小さくもない一音が響いた。  音が間延びして音楽室の中に消えていく。音の糸を辿るように秋桜(あきな)は目を閉じた。囁くように小さな声で、しかしよく通る澄んだ声で、歌い始める。  秋桜(あきな)の声は徐々に大きくなっていく。はっきりと言葉を紡ぐほどに、歌が身体を駆け巡る。目を閉じたまま上を向いた。目には映らないけれど、そこにあるものを見上げたくて。  歌い終わって先程の静寂が帰ってくる。目を開けて秋桜(あきな)はすぐに顔を伏せた。その表情は決して満たされていない。涙をこらえ、悲痛に歪む。  歌の余韻すら飲み込む静寂に押し潰されそうだった。 「あなたの願いは、それ?」  窓辺から声がした。いつの間に開いたのか、それとも最初から開いていたのか、窓から風が入ってくる。秋桜(あきな)は振り向かない。ピアノの鍵盤に桜の花弁が舞い落ちた。 「……またあなたですか」 「驚かないでくれるのは助かるわ」  窓の縁に座っている桜花(おうか)が微笑む。心なしか声も弾んでいる。 「ね、あなたの願いは歌うこと? それともピアノを弾くこと?」 「どっちでもないですけど」  秋桜(あきな)は涙を引っ込めて無表情を努め、桜花(おうか)の方を向いた。 「え、ええ? えーっと、でも音楽に関わることでしょ? じゃあ、えっと……」  桜花(おうか)は大方そのどちらかだと踏んでいたのだろう。当てが外れて年甲斐もなくうんうん唸った。頭にハテナマークが見えそうだ。  秋桜(あきな)はそんな彼女を溜息混じりに一瞥する。――が、先日の河川敷で聴いた桜花(おうか)の歌を思い出した。努めていた無表情が崩れていく。  この人になら、話してもいいんじゃないか。そう思えた。 「……私は、……っ……」  言いかけて固まる。自分の意思ではなくて、言葉が出てこない。  しかし出かかった言葉を大人しく元の場所に戻すこともまた無理だった。秋桜(あきな)は胸の痛みに耐えながらそれを吐きだした。 「……作詞が、作曲が、したいっ……! 歌う言葉を、紡ぎたい。歌詞を通して、曲を通して、届けたい。誰かの心を震わせたい。……この『COSMOS』みたいにっ……!」  溢れたのは言葉だけではなかった。秋桜(あきな)の頬を、涙が伝う。  袖で顔を拭う秋桜(あきな)桜花(おうか)は、秋桜(あきな)が落ち着くまで静かに見守っていた。  秋桜(あきな)が顔を上げると、桜花(おうか)は窓の縁から下りて向き直る。真剣な表情で、ふざけた言動は一切ない。 「なら書きましょう」  秋桜(あきな)は涙を溜めたまま目を吊り上げた。一番言われたくなかった言葉を、最初に言われるとは思わなかった。 「簡単に言わないで! 音楽に関わるにはお金が必要なの! そんなことして、本当になれるかも分からないのにっ……!」 「誰だって、そこがスタートだわ」 「わ、私だけ好きなことやれって言うの? お姉ちゃんはバンドで優勝したこともあるのに、今は家のためにバイトしてくれてる! 私だけ好き勝ってやることが、許されるわけないじゃない!」 「お姉さんは今、嘆いてる? 自分の手から音楽が離れてしまって」  姉は短大生で今年卒業する。近場の介護施設から内定をもらっていて、三月から研修が始まるそうだ。今は週三で大学へ行き、夕方から夜まで連日アルバイトをしている。自分の時間はほとんどないだろう。しかし、姉はむしろ元気そうだ。十二リットルの水を一人で担げるようになったとか、バイト先の女子高生にカッコイイって言われたとか、楽しそうにしている。介護施設で働けることになったのも、パートのおばさんが紹介してくれたからだという。本人が頭より身体を動かす方が好きだと言っていた通り、姉はどこへ行っても楽しくやっていける人だ。  彼女の言葉を否定することは出来ず、秋桜(あきな)は押し黙った。  沈黙を肯定と受け取った桜花(おうか)は、そっと胸に手を当てる。 「ねぇ、想像してみて。あなたのように、泣きながら夢を語る人がこの世界にどれだけいるか」  桜花(おうか)は真っ直ぐにこちらを見つめ、そしていつか彼女がそうしたように手を差し伸べた。 「その涙は、なぁに?」
/24ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加